第15話 ゆかいな仲間たち
厩舎内洗い場で体を洗い終えた航は、自分用の馬房へと案内される。
「今日からここが俺の寝床になるのか」
外に面した馬房の窓から顔を出し、赤黄が広がる雄大な景色を気が済むまで眺めると、ゆったりとした広めのスペースで休息をとる。
移動による疲れやストレスなどもなく、明日から本格的な馴致に取りかかれそうだ。
「お隣さんに挨拶でもしといたらどうだ?」
「あ、そうですね。これから付き合いも長くなるんだし」
「なんなら威圧しに行ってもいいんだぜ?」
八肋はうっすら笑い、着いて早々にヘタレた航をからかった。
「もー思い出させないでくださいよ。和を大切に、平和主義でいくって決めたんですから」
あんなガチムチとやりあうところを想像しただけで恐ろしい。顔を見るのすら嫌な航は体をブルルッと震わせた。
「もしかしてそこに誰かいるのかい?」
あれこれ言い合っていると、右隣の馬房から呼びかけが聞こえてくる。
親しみを感じさせる声にひとまず安心の航。
すぐに表へ出て、失礼のないよう挨拶をする。
「はじめまして、自分はどんべえと言います。今日来たばかりで右も左もわからぬ新参者ですが、どうかよろしくお願いします」
「僕だって先週、空港に移動してきたばかりなんだ。畏まる必要はないさ」
堅苦しいのはやめにしようと、フランクに話しかけられる。
初っ端に出会った育成馬に似てフレームの大きな鹿毛馬だけれど、こっちはなかなか感じの良いやつのようだ。
「僕の名はキッド――kid the Britain。礼儀正しいguy、こちらこそよろしく頼むよ」
「ブリテン? ブリテンってことは日本生まれじゃない?」
「Exactly。昨年12月初めにМumといっしょに、イギリス・ニューマーケットから日本にやってきたのさ」
英国生まれの外国産馬。
強すぎて外国産馬に天皇賞、クラシック競争への出走が認められていなかったという昔の競馬知識が染み付いているせいか、マル外と聞いただけで、すごそうな感じがする。
「聞く限り、海外のセリで母馬を購入し、出産後に同時輸入したみてえだな」
二頭の前に姿を見せた八肋が顔を上げて答える。
「Kingman……そうくるか……!」
キッドのネームボードを見つめながら、八肋が固い表情で言った。
「キングマンボの血を引いた、ミスタープロスペクター系の馬ですか?」
エルコンドルパサー、キングカメハメハの父として知られ、世界的名種牡馬であるキングマンボ。航はキングマンという馬名からキングマンボを連想する。
「いや、こいつは史上初めて英GⅠ・サセックスステークスと仏GⅠ・ジャック・ル・マロワ賞を同一年で制覇したグリーンデザート直系の種牡馬だ」
「確か日本でもシンコウフォレストがいましたよね。98年高松宮記念馬の」
グリーンデザートの活躍産駒はこの他にも短距離重賞の函館スプリントステークス、アイビスサマーダッシュを勝ったメジロダーリングなど、スプリントで複数の好走馬を出している。
欧州スピード血統ダンジグ系種牡馬のキングマンが、日本の馬場への適性ありと見做されるのも納得と言えよう。
「おそらく最初から繁殖入りさせるつもりで、キングマンの子を宿した繁殖牝馬を買い付けたんだろうよ。サンデーの血もキンカメの血も持ってないとくりゃ、配合相手に困ることはねえからな」
将来、種牡馬になることを見据えて、国内で繁栄してない海外血統の馬を持ち込んだ。
キングカメハメハやシンボリクリスエスのケースと同じだと知り、航のキッドに対する好感度が急落していく。
「あーなんか引くわー」
キッドから距離を取る航。
ひがみ根性まる出しで白い目を向ける。
「えっ? いったい急にどうしたって言うんだい?」
「いやーやんごとなきご身分のキッドさんと俺とじゃ釣り合わないですから」
「……」
航の態度が急変したことに、キッドは鳩が豆鉄砲を食ったよう顔をした。
「じゃ、そういうことで」
「待って! 待ってくれよ!」
キッドが目を白黒させて慌てて行く手を遮ってくる。
「隣の部屋に牛みたいなのがいる僕の身にもなってくれ! 君が来るまで、頭のおかしなやつしか話し相手がろくにいなかったんだぞ!?」
「牛って……サウザーにそんなのがいるのかよ……」
航は興味を惹かれ、奥の馬房へと進む。
んなわけないだろと、ちらりと中の様子をうかがうと、腹回りがボテッとした茶褐色の牡馬が、締りのない顔でぬぼーっと立っていた。
会釈をしてみせるが、首だけ傾げてうんともすんとも言わない育成馬。
ずっと口が半開きで、よだれが垂れ流しになっている。
「……おい。こいつ、いつもこんななのか?」
「これでもまだましな方さ。ひどい時は、彼――エージは自分の
「マジでっ!?」
ここまで奇行が目立つのは千場スタッドにもセレクションセール会場にもいなかった。
何をしでかすかわからない怖さがこの馬にはある。
(でかい図体してるが、父親譲りなのかこれは)
そばにあった『エピファネイア』と父親名が書かれたホワイトボードが目にとまり、エージの血統構成に着目していると、厩舎全体が震えるような怒号が聞こえてきた。
「どこだ! ハインケスの野郎はどこにいやがる!!」
厩舎入り口で体高のある大型馬が怒りを露わにしている。
スタッフ二人がかりでも宥められないほど怒り狂う様に、厩舎にいる馬たちはみな一斉に怖気づいてしまう。
「あ、あいつは……っ!?」
ぎょっとする航。
胴の長さ、首の長さ、手肢の長さ、そのどれもが十分な、大きな骨格に支えられた逞しい馬体。
忘れもしない、最初に因縁をつけようとして失敗したあの育成馬だ。
「ああ……ああああああ」
隣にいたキッドが声にならない声をあげる。
いかにも喧嘩が強そうな、きつい顔つきの青鹿毛馬は、強引に人の手を振り解くと、近寄りがたいオーラを発しながら、馬房のあるこちらの方に向かって歩いてくる。
「っ!」
気が立っているこいつを刺激してはまずいと、どの馬も身を竦ませた。
「誰かと思えば、泣き虫キッドじゃねえか」
他の馬のことなど歯牙にもかけない態度を取っていた大型馬が、キッドの存在に気づき、意外にも声をかけてきた。
「や、やあ。Vi……Vieriもここだったんだね……」
キッドは声を震わせ、ぎこちなく答える。
「ちっ。腐れ縁のてめえはいるのに、ハインケスはどこを探してもいやしねえ」
面白くなさそうに吐き捨てるヴィエリ。
自分の思ったように物事が進まないことに、いらだちを募らせていた。
「なんだ知り合いか?」
航は小声でキッドに耳打ちする。
「……」
「おいっ」
しつこく問いただすと、キッドが観念したように口を開いた。
「……同じ牧場で生まれたのさ。僕とヴィエリは」
「あいつもイギリス生産なのか」
どうりで日本馬離れした馬格の持ち主なわけだ。
「――にしては、あまりうれしそうには見えないな。一応幼馴染なんだろ?」
「この顔から事情を察してくれよ」
キッドが生気のない顔を見せつけてくる。
「なにをごちゃごちゃ言ってやがる!」
目を吊り上げたヴィエリに怒鳴られ、航とキッドは同時に飛び上がる。
「ちょうどいい。キッド、てめえはハインケスの姿を見てねえか? 同じ日にイヤリング厩舎から移動してきたてめえなら何か知ってるだろ」
「そんなこと言われても。そもそもあの日、空港に向けて出発した馬運車の中に彼はいなかったんだから、僕が知りようがないよ」
「ナニぃ! それはどういうことだ!?」
返って来た答えに、ヴィエリは眉間に皺を寄せた。
すると、事情を飲み込めないでいる相手に向かって、八肋が無遠慮に口を挟んできた。
「そいつはサウザーファーム早来に行ったんだろ」
「早来だぁ?」
「説明するとだな、サウザーの馬は中間育成を終えた1歳夏以降は早来か空港のどちらかに移動して調教を開始するんだ」
「……」
ヴィエリは落胆と怒りで唇を噛み締める。
爆発しそうな感情を抑え込んでやり過ごすと、無言のまま歩き出した。
難が去ったと見るや、航は気が抜けたように息を吐き出す。
そしてすかさずキッドに聞いてみたかったことを訊いてみる。
「な。あいつが言ってたハインケスってどんなやつなんだ」
「日本にやって来た時期も僕らと全然違うし、彼は無口で、あまり自分のことを語りたがらないから、僕もフランス産まれってことくらいしか……」
キッド、ヴィエリらイギリス組に遅れて、この春5月、サウザーファームに到着したハインケス。
おかしなタイミングで輸入されたこともそうだが、キッドの口ぶりからは、どうも複雑な事情があるようだ。
「あいつがあんな態度を取るくらいだから相当なものなのか?」
「それはもう! 信じられない加速だったよ! Special oneって言葉は彼のためにあるようなものさ!」
地元では敵なしだったヴィエリの鼻っ柱をへし折ったと。
キッドが興奮を滲ませながら、こう続けた。
「君もハインケスと同じようにgreat horse――ディープインパクトの血を引いているのかい?」
「え……? ディープインパクト……?」
フランス生産なのに、どうしてディープインパクトの名が。
「驚くこたあねえよ。海外からもディープの血を求めて、毎年よりすぐりの繁殖牝馬を日本に連れてきてたんだから」
チャンピオンサイアー・ディープインパクトの種牡馬実績を考えれば、現地の生産者がディープインパクト産駒を所有していたとしても何もおかしな話ではない。
(解せない点があるとすりゃ、母馬を日本に送り込んでまでして手に入れたディープの子供が、何故に日本にいるかってことだ)
ディープのことを誇らしく思っている航の横で、八肋は難しい顔をする。
「ところで、サウザーファーム早来に行くか、空港牧場に行くかは、どういう基準で振り分けてるんです?」
「今はどうか知らねえが、昔は早来の方に期待馬を送り込んでたみたいだぜ」
「あーだからかー。ま・あ・世界のディープと比べて、欧州血統馬なんて基本ズブい、鈍足、農耕馬――」
と、自分のことを棚に上げ、好き放題言う航。
刹那殺気を感じて、恐る恐る視線を横にやると、ヴィエリが血走った目でこちらを見ているではないか。
「――てめえのそのツラ。よ~~く覚えたぜ」
青白い顔をしている航を前にして、ヴィエリは悪魔のような微笑みを浮かべた。
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