第12話 英雄
「ディープが死ぬなんて……嘘でしょ……なんで、どうして……」
頭の中が驚きとショックで混乱して、それ以上の言葉が出てこない。
「今年2月に入ってから首を痛めたみてえだな。
八肋が痛恨の思いを隠し切れない表情で、死に至った経過を伝える。
「もっと長生きできたろ……。ルドルフやシンザンみたいに長生きして欲しかったのに」
まだ17歳。
早すぎる死に、航の心は行き場のない感情で埋め尽くされる。
思わず涙が溢れそうになり天を仰ぐと、悲しみを振り切るように走り出した。
「兄さま……」
「今はそっとしておいてやれ」
心配して追いかけようとするねねを、八肋は静かに制す。
「ディープ! ディーープゥゥッッ!!」
喉が張り裂けんばかりにディープの名を叫ぶ航。
世界に最も近づいた99年――あの一番熱かった年の競馬を生で見て以降は、競馬への興味が年々薄れていき、数えるほどしか競馬場に行かなくなっていた。
そんな情熱を失った航を再び競馬場に呼び戻した競走馬。それがディープインパクトだった。
負ける姿なんて想像できない。
競馬ファン、競馬関係者の悲願である凱旋門賞を勝つのはこの馬だと、若駒ステークスの鳥肌が立つような末脚を見て、すぐに惚れ込んだ。
航にとってディープインパクトは閉塞感で覆われた時代に絶対的な強さでターフを駆け抜けた、まさに英雄であった。
「俺が果たせなかった夢を受け継ぐから。凱旋門で涙を飲んだディープの分まで走るから。どうか安らかに。天国から見ててくれ」
色あせることのない不世出の名馬の思い出を胸に、種牡馬としても最強のままこの世を去ったディープの冥福を祈った。
(ディープだけ見てればいい時代は終わった。こりゃ、一気に動くぞ)
海外から購入した良血の繁殖牝馬にディープインパクトを付け、ディープインパクト産駒の特徴を活かすような育成を行い、折り合い・切れ重視の乗り方をする。
生産者も馬主も調教師も騎手も、すべてが、ディープインパクトを中心に動いていた。
ディープインパクト産駒のために最適化された世界の終焉は、勝利を掴むための近道だと考えられていたやり方が通用しなくなることを意味する。
八肋はディープへの哀悼を捧げている航を気にかけながらも、遠からず群雄割拠の時代がやってくることを敏感に感じ取っていた。
☆ ☆
ディープインパクトを失い、華台スタリオンステーションに激震が走る。
種牡馬リーディング1位を長期に渡り独占していた看板種牡馬が亡き後、大きな方針転換を迫られた華台の対応は実に迅速だった。
グループを率いる
日本競馬界のトップをひた走る華台グループも、ノーザンテーストを導入するまでは数あるうちの一つでしかなかった。
彼らは知っている――
自分たちの立場が決して安泰ではないことを。
たった一頭の種牡馬の登場で、いともたやすく勢力図が塗り替えられてしまうことを。
ディープインパクトが不慮の死を遂げてから10日。
非サンデー系種牡馬の筆頭格であったキングカメハメハがディープの後を追うように息を引き取り、競馬界に悲報が続く。
「ディープに続き、キングカメハメハもとは……」
日本競馬を代表する二大種牡馬が相次いで急逝。
緊急会合を終えたばかりの吉野正巳は、時代の節目の象徴かもしれないと独りごちた。
「
「あの仔も例にもれず、シーザリオ一族の特徴が出ているように思います。なので無理使いはしない方がいいでしょう」
正巳と共に会合に出席していたサウザーファーム空港・
「やはりそうですか。モーリス産駒は丈夫そうな仔が多いと報告を受けていたので、頑健であって欲しいと思ったのですが…………、ままならないものですね」
瞬時にトップスピードへ到達する抜群の瞬発力を産駒にもたらす一方で、体質面の弱さが常に付いて回るシーザリオの血。馬格のあるモーリスをもってしても、脆さを解消するには至らなかったようだ。
「では、ドゥラメンテ産駒は」
「……唯一心配な点は、父親のように立ち繋ぎ気味なことです。力の要る馬場やダートに向くので、必ずしも悪いことばかりではないのですが」
キングカメハメハ、サンデーサイレンス、トニービン、ノーザンテースト、ガーサントと、華台グループの歴史をたどるような血統のドゥラメンテは、華台・サウザーの努力の結晶とも言うべき馬だ。正巳も含め、周囲からの期待も大きい。
菅井はドゥラメンテ産駒の欠点を言うのは気が引けたが、判断を誤らせてはならないと私情を排した。
「繋ぎを寝かす矯正をして、後はどこまで持つか。どの仔も故障のリスクは高いです」
「言いにくいことをよくぞ言ってくれました。私も肩入れしすぎないようにしなければ」
多くに繋ぎの硬さが見られるなら、他の牧場のドゥラメンテ産駒も同じ問題を抱えていると見当をつける正巳。
特定の馬に執着したせいで、多大な損害を被った例は枚挙にいとまがない。
サウザーFもそうなってもおかしくないと、自分自身に強く言い聞かせる。
近代日本競馬の終着点であるがゆえに配合相手が限られるドゥラメンテに、マイラー気質でクラシック未出走のモーリス。
正巳お気に入りの2頭は、種牡馬としての不安要素があるも、サウザーのバックアップで成功に導けるものと考えていた。
しかし、ディープインパクトがいなくなったとなれば事情は変わってくる。
次のエースはどの馬になるのか。
誰もがポスト・ディープ探しに躍起になり、例年以上に新種牡馬の成績がシビアに人気に反映されることになるだろう。
この先どのようなことが起きるかわかっている正巳は恨み節を漏らした。
「ディープが健在なら、猶予をもらえたんでしょうがね」
初年度だけGⅠ勝利馬を出して、それっきりというケースもあれば、その逆、ステイゴールドのように晩年になってから大物を出すケースもある。
即結果を出す以外にない極端な状況は、正巳が望むところではない。
「早くから動く印象を持ってもらうために、不本意ですが、期待馬を秋以降でなく、夏の早い時期から投入することになるでしょう」
セレクトセールに参加する馬主たちは、アベレージよりも夢を見れるかどうか、勝ち上がり率に目をつぶっても大きなところを勝つことを優先する。
3歳クラシックで活躍できる産駒、血統に高い値がつけられるのだ。
「早熟性と完成度の高さが求められるクラシックに何頭送り込めるか。勝負になるか。そこが評価の分かれ目です」
スタートダッシュに躓き、種牡馬失敗の烙印を押されてしまうと、正巳と言えども、サウザーの良血牝馬を回すわけにはいかなくなる。
「ディープはいないのに、ディープが残した子供たちと戦わねばならない。モーリス、ドゥラメンテ産駒には大変酷なことですがね」
「差し出がましいマネかもしれませんが、距離をこなせそうなモーリス産駒はうちでも手薄ですし、今一度リストアップしてみましょうか?」
「数は多いほうがいい。至急お願いします」
重厚なメジロの血を持つモーリスは、サウザーのさらなる発展のために、この先必要になってくる。
クラシックに間に合うとの評価を得られるのであれば、サウザー産である必要はない。
正巳は迷うことなく提案を聞き入れた。
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