第10話 セレクションセール(セリ)
セリ当日。
慣れない馬房で一夜を過ごした航は、少し肌寒くも感じる朝の空気を肺いっぱいに吸い込み、寝ぼけた頭をシャキッとさせる。
「おはようさん。一晩寝て、少しは疲れは取れたか?」
「疲れてないって言ったら嘘になりますけど、ここまできて、泣き言なんて言ってられませんしね」
航は空元気だと自覚しながら、愛想笑いを返した。
「ところで、師匠の目から見て、ここなら大丈夫だってとこありますか? 華台系以外で」
「そりゃ、一にも二にも
てっきり馬主名やクラブ名が出てくるとばかり思っていた航。予想外の回答にいささか反応が鈍い。
外厩とはJRA管轄のトレセン外にある厩舎のことで、古くは
(トレセンに坂路が導入される前の時代、シンボリルドルフを外厩を使って鍛えたのは有名な話だが、あれは仕事を奪われるってんで、厩舎関係者側から猛反発があったろ)
千葉シンボリ牧場を拠点とした外厩運用は、和田オーナーの素行の悪さも災いし、シリウスシンボリの乗り替わり以降、美浦でシンボリ牧場生産馬を預かる厩舎が激減。最終的に立ち消えになった。
(総帥もコスモバルクで似たようなことをやっていたっけ)
ホッカイドウ競馬の認定厩舎制度を利用して、外厩先のビッググリーンファーム
地方馬が中央競馬に殴り込み、クラシック戦線を沸かせたとあって、とかく中央入りできなかった落ちこぼれが雑草魂で名だたるエリートたちに立ち向かったイメージがあるが、コスモバルクが道営所属であった真の理由は、調教師の手を離れて民間牧場で管理するために他ならない。
2003年に認定厩舎制度が始まってから16年。
八肋の口ぶりだと、中央でも当たり前のように活用されてるみたいだ。
「設備の整った外厩で仕上げて、レース前にトレセンに戻すのが今の主流だ」
「調教師や騎手と同じくらい外厩が重要なのはわかりました。けど、そんなに変わるもんなんですか?」
馴染みがない分、外厩で決まると説かれても、航にはいまいちピンとこない。
「さっきどんべえは華台系とひとくくりにしていたが、今はもうそんな時代じゃねえ。サウザーとそれ以外だ」
「……ええっ!?」
「完全にサウザー一強状態だ。華台ファームも
「なんでそんなことに……」
約10年前。華台の運動会だと揶揄されていた頃を知ってる身からしたら、にわかには信じられなかった。
「2010年に開場したサウザーファームしがらき、そして早田牧場の経営破綻後、天栄ホースパークを買い取る形で、2011年に開場したサウザーファーム天栄。これら調教施設の改修を進め、人と設備に投資し続けた結果、他の追随を許さないほど差がついちまったんだ」
航が死んでから転生するまでの空白期間に何があったのか、八肋はかいつまんで説明する。
「設備だったり、血統の更新は金でどうにかなるが。それまでに蓄積されたノウハウの量が違う。馬で稼いだ金をすべて強い馬を作るために使ってるサウザーとの差を縮めるのは一朝一夕にはいかねえよ」
育成部分で圧倒してるなら、どう転んでもしばらくはこの状態が続く。
少なくとも航が現役の間は、サウザーの
「サウザーFの生産馬相手にGⅠを勝ちたいなら、やつらと同じ環境で育てるか、それに近い育成環境を用意しなきゃ、太刀打ちするのは至難の技だ。先天的要素だけに頼るのは限界がある」
八肋は淡々と。だが、しっかりとした口調でありのままま言う。
余計な念が入ってないため、かえって事態の深刻さをうかがい知ることができる。
どうして八肋が外厩を最重要視したのか、今ようやく航はその意味を痛感した。
時計の針が午前10時を指し、いよいよセリ開始の時刻となる。
上場番号83番の航は厩舎でゆっくり待機――とはいかず、下見を希望する購買希望者が訪れるたびに、馬房から引き出され、前日同様、立ち馬展示と歩様検査に大半の時間を取られた。
太陽が真上に差し掛かったあたりだろうか、千場スタッドのスタッフが喜びを隠せない様子で厩舎に飛び込んできた。
「前川さんだ! うちのキズナ産駒を前川さんが買ってくれたぞ!」
「ギンナンとやっちん。両方ともか?」
「そうよ。二頭とも。ほんと、びっくりしたよ」
「いや~~、やったじゃん!」
吉報を受けた久保田は破顔したまま握手をして同僚を祝福する。
大の大人のはしゃぐ声が馬房内まで聞こえ、どうしたことだと八肋がひょっこり顔を出す。
「あ、師匠。ギンナンとやっちん、前川って人が落札したみたいです」
「ほぉう、マエコウのとこか。いいところに買われたもんだな」
二人の喜びように、前川と伝えただけで通じる馬主。これはひょっとすると――
ファレノプシスやノーリーズン、スティルインラブのオーナーだと察した航の顔が自然と熱くなっていく。
「フォースヒルズ代表・
「あーーまじかーーー」
正真正銘、あの前川オーナーだと言い切られてしまい、そう呟くのがやっと。
嬉しいやら、悲しいやら、悔しいやら、複雑な胸中の航をよそに、八肋が私見を述べる。
「キズナを付けてくれた生産者に対する感謝の意味合いもあるのかもしれねえな」
「なんでそんなことを……?」
「キズナは所有馬ってだけじゃなく、自分んとこで生まれたダービー馬だ。そんなのかわいいに決まってら」
すべて親心。そのように言われてしまえば、返す言葉もない。
航が同じ立場でも、愛馬の血を残してやりたいと切に願うだろう。
「心の中じゃ、あいつらばかりずるいと思ってるのかもしれねえが、どんべえもそういう星の下にあるんだぞ?」
「えっ、俺にも!?」
話が急に自分の方に向き、航は虚をつかれる。
「モーリスはサウザー
「――ということは」
いかに合理主義者で見切るのが早いと言っても、初年度産駒は高止まりした期待値がそのまま反映される。サウザーが評判のモーリス産駒を買い集める可能性はきわめて高い。
最初にして最大のチャンス到来。サウザー入りが決して夢物語ではなく、十分……いや、かなりあり得る話だとわかり、思わずにまーっと笑みがこぼれる。
「おら出番が近いみたいだぞ。大船に乗ったつもりで行ってこい」
八肋は頬が緩みっぱなしの航を制すと、尻を叩いてセリ会場へ送り出した。
上場が近づいた航は久保田の手に引かれながらパレードリンクで周回を重ねる。
14日に北海道市場の厩舎に入厩してから今日で3日。
環境の変化と連日の展示でそろそろ疲れもピークに近いけれども、あのような話をされ奮起しないわけがない。
適度に肩の力を抜きつつ、少しずつコンセントレーションを高めていく航。
番号が呼ばれると、会場に向かう通路で待機し、静かにその時を待った。
「上場番号83番にまいります」
進行役のオークショナーのアナウンスがセリ場の中に流れる。
(泣いても笑っても一発勝負の舞台だ!)
航は先導する久保田よりも力強い足取りで会場に入場した。
このセールにおける最大の注目馬サンリヨンの2018が姿を見せると、客席が目に見えて色めき立つ。
つめかけたバイヤーからの熱い視線が一点に注がれる中、無駄のない動きで鑑定台の前に立ち
グラスワンダー譲りの馬体は雄々しく、手入れされた栗色の毛並みが光に照らされることで
「サンリヨンの2018は牡、栗毛、4月16日生まれ、父モーリス、母はサンリヨンでございます」
セリ進行役の説明の間も、航は微動だにすることなく、躾の行き届いたところをこれ見よがしに見せつける。
「欲しいけど買えないよ……」
セレクトセール常連の馬主たちがこぞってスポッターの近くに移動したのを見て、早くも一部客席から諦めにも似た声が漏れ聞こえてきた。
「母は中央芝4勝サンリヨンに、父はマイル王モーリス――そのファーストクロップ。今セール一の目玉です! よろしいですか? さあ、まいりましょう!」
鑑定人が掛け声をかけ、セリの開始を告げる。
(おやっさん。必ずやどんべえを記録的高値で売ってみせます)
競売中、他の馬のように鳴いたり、チャカチャカしたりすることはないと信頼しきってる久保田は、色んな角度から馬を良く見せようと展示と同じ要領で回り始めた。
すると、ちょうどその時、航の視界に見知った顔が飛び込んできた。
「あれはっ――!」
――
「ディープインパクト」「クロフネ」「キングカメハメハ」を引き当てた日本一の豪運の持ち主。
泣く子も黙る金見真治ホールディングスの登場に、驚き過ぎて棒立ちになってしまう。
心臓が破裂しそうなほど脈打ち、全身からアドレナリンが噴き出した。
「金見さんっ、金見さんっ」
何が何でも買ってもらおうと、金見オーナーの関心を引こうとする航。
しかし悲しいかな、航が自分をアピールすればするほど、落ち着きを失い、暴れ出したようにしか映らないわけで。
「どっ、どうしたっていうんだ!?」
今までただの一度も人の手を煩わせたことのなかった航が突然激しくイレ込み、久保田は想定外の事に半ばパニックに陥る。
たまらず、「ほら、ほら、ほらっ」と自分に従うようチェーンシャンクを強く引いたら――
「ふんっ!」
と、航が首を勢いよく振ってぶつけてきた。
思いもよらぬ反撃を食らった久保田は体ごと吹き飛ばされ、落馬した騎手のようにうずくまり動けなくなる。
「俺です俺! 俺を買ってください!!」
会場から上がる悲鳴じみた声も、スタッフの担架を呼ぶ声も、航の耳には入ってこない。金見オーナーに落札してもらいたい一心で必死に訴え続ける。
(ええい、ここじゃだめだ! もっと前、目の前でやらないと)
航は何をトチ狂ったか、セリ台に張られたロープを跨いで、客席に向かおうとした。
危害を加えられる可能性を危惧したバイヤーたちが、一斉に席から飛び上がり、会場は騒然となる。
こうなると、もはやセリどころではない。
大事故になる前に航を取り押さえようと、セリ市の係員がすっ飛んでくる。
「あ゛あ゛ァァ!? 邪魔だよ邪魔!」
我を失った状態の航は激しく怒り狂う。
取り囲んだスタッフからすばやく距離を取ると、タップダンスを踏みながら、しなやかな動作で一人また一人とのしていく。
ウッドチップの敷き詰められたステージ上で、馬と人間のストリートファイトが繰り広げられてから5分が経過。
航の動きに陰りはなく、身体能力や心肺機能、集中力や判断力といったものまで高いレベルにあることを、皮肉にもこのような形で証明してしまっていた。
孤軍奮闘の航。
自分の雄姿を金見オーナーは目に焼き付けてくれただろうかと、ふと客席に目をやると、
「……」
金見オーナーはおろか人っ子一人いない。客席はもぬけの殻になっていた。
「かっ、金見さんはどこ? 金見さん……かねみさあああああああああああんんんっ!!」
会場内に、航のシャウトがむなしく響き渡る。
運命をかけた――絶対に失敗できないセレクションセールは、まさかの買い手なしの結果に終わってしまった。
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