第9話 セレクションセール(前日展示)

 年が明け、季節は初夏に。

 1歳馬になった航たちは、すでに買い手がついている「ねね」などを除き、セリに向けて馴致訓練を受けていた。

 どんなに疲れていても活発に歩けるよう、馬場での引き運動とウォーキングマシンを使って常歩なみあしの練習を嫌というほど行い、食事も濃厚飼料を決められた時間に決められた量を食べるよう覚えさせられる。

 また、たてがみや体毛の日焼けを防ぐため、昼間の間は馬房内で過ごさなければならず、すべてが7月に北海道市場で開催されるセレクションセールを見据えたメニューに切り替えられていた。

 この日もセリ会場の中で横向きに立つ練習をしたり、パレードリンクを歩いたりと、本番で行われることを何度も入念に繰り返す。


(こんなこと毎日毎日。もーわかってるから勘弁してくれよ)


 見た目は仔馬、頭脳は成人男性の航にしてみれば、しつけや馴致はあまりに楽勝すぎて、これ以上やる意味を見出せない。

 セリ用に仕上げるセールス・プレップがあと1ヶ月も続くことを考えただけでテンションだだ下がりである。

 それでも、人間の指示に従うのが一番てっとり早くすむと知っている航は、精力的に反復練習をこなしていく。


「どんべえ。お前は本当に賢いなあ」


 と、引き手を持つ御者が首筋を軽く叩いて褒めてきた。


「注目されるような馬は歩様検査を何回もやらされるはめになるからな。しんどくても元気よく。我慢するんだぞ」


 実馬検査を行った事務局の人間からも絶賛の嵐だった航。

 サンリヨンの2018の評判は日高の外にも広まっており、セリ当日は購買者から展示の要求が繰り返されることが予想される。


(そうか。馬体、血統以外に、歩様の印象も重要な決め手になるもんな)


 どこに出しても恥ずかしくないほど仕上がってる航に対して、無意味とも思える訓練をするのにはそれ相応の理由があるようだ。


「安値で落札された、お前の父さんみたいなことにはならないでくれよ」


 手のひらで航の頬っぺたを優しく撫でると、スタッフは冗談めかして笑った。


            ☆            ☆


「だいぶ噂になってるみてえじゃねえか」


 航の帰りを待っていた八肋が馬房から身を出し、冷やかすように言う。


「日高の星って俺の耳にも入ってるぜ」

「みな気が早いと言うか。参りましたね……」


 困った仕草や言葉とは裏腹に、航の表情は明るい。


「でもま! ここまで万事順調にきてるんです。華台の良血馬が集まる前で、最高額を叩き出してやりますよ!」

「……」


 八肋の顔が固まり、絶句する。

 ビックマウス云々以前に、盛大な間違いをしている航に呆れ果てていた。


「まさかとは思うが、お前自分がセレクトセールに出ると思ってるのか?」

「え? セレクト? セールって、サウザーホースパークでやるやつじゃないんですか?」


 八肋は大きく息を吐き出し、何もわかっちゃいないと首を振る。


「どんべえが上場するセレクションセールは日高軽種馬農業協同組合が主催する1歳馬の選抜市場で、華台グループの生産馬が売りに出される日本競走馬協会主催のセレクトセールとは似て非なるものだ」

「……俺、出られないんですか……」


 高額取引されるセリに参加できないと知り、航は気落ちした。

 千場スタッド一の仔ではなかったのか?


「上場馬の選定基準は満たしているし、元をたどれば、サンリヨンの母親は華台で生産された馬だ。父親がモーリスという点を加味しても、通さないってことはないと思うけどな。申し込みすらしてねえんじゃないか」

「どうして……? 普通、少しでも高く売ろうとしますよね?」


 すると、八肋が人づてに聞いたことだと前置きしてから、


「2010年代前半に、スーパーホースを生み出す配合らしきものが脚光を浴びてな。ステマ配合って言うんだが。一度は売却したメジロマックイーンの血を引く肌馬を買い戻そうと、先代と激しくやりあってたみてえだ」


 昔のことが尾を引いている可能性を示唆した。


 (あれ? これ絶望的じゃないか??)


 理由が理由なだけに、華台の人間や、華台に近しい馬主がサンリヨンの2018を購入しようとは思わないだろう。

 となれば、サウザー系のクラブが所有するなんてことも事実上不可ということに。


「…………」


 額に大量のあぶら汗を浮かべる航。不都合な真実が発覚したことで、早くもお先真っ暗になってしまった。


            ☆            ☆


 迎えた2019セレクションセール。

 7月15日・16日の二日にまたがって開かれる日高最大の競走馬市場に、各牧場自慢の生産馬240頭ほどが顔を揃えた。


「ぱっと見、有名どころは来てませんね……」


 日高の馬が中心なためか、前日展示の場には、航でも知ってるような大物の姿はない。


「代理人を立てたり、仕事の合間を縫ってセールに顔を出す馬主もいる。余計なことは考えずに、目の前のことだけに集中しろ」

「はい師匠。展示が終わる17時まで気を抜かずにいきます!」


 熱心な馬主は他人任せではなく、自分で馬を探すと言った八肋の言葉を今は信じるしかない。


「サウザーの連中は良くも悪くもビジネスライクだ。こいつは走ると判断すりゃ、私情なんぞお構いなしで取りにくるぞ」

「! それマジっすか!?」

「間違いねえ。徹底したビジネス優先主義。それこそがサウザーのサウザーたる所以だかんな」


 あえて希望を持たせることで、航のやる気を最大限まで引き出す八肋。

 長丁場に耐えるためのニンジンをぶら下げると、展示の邪魔にならないよう、八肋は割り当てられた厩舎に戻っていった。

 展示開始の午前10時から12時までは、希望する上場馬を引き出して、自由に見ることができる個体展示が行われる。

 国内のみならず、競馬強豪国からもバイヤーが集い、億単位の金額が飛び交うセレクトセールと比べ、注目度では見劣りするものの、セレクションセールの取引馬には、高松宮記念を制した『ビッグアーサー』をはじめ、多くの重賞勝利馬がいる。

 掘り出し物がないかと、目を皿のようにして見て回る購買希望者。お目当ての馬を見つめるその目は真剣そのものだ。


(さすがに人多すぎでしょ)


 平日の早い時間だというのに、展示会場は人であふれ返り、航が待機する馬房前には、すでに人だかりができていた。


「落ち着き払っていて、馬っぷりもみごと。話題になるのも頷ける」

「特にあの意志を秘めたような目がいいですなー」

「クラシックには縁のない一族だが、牧場ではどう見ているのか。見解を聞かせてくれないか?」

「スタート価格はいくらかわかります?」


 購買を検討している見学者に対して、久保田が失礼のないよう受け答えする。

 客足が途絶えることなく、ひっきりなしに展示要求があるところを見ると、本当に休んでる暇なんてなさそうだ。


(なんだ?! どこから……?)


 近くから向けられるものとは別種の視線が複数、こちらの一挙手一投足を観察しようとしていることに航は感づく。


「……」


 いったい誰が、どんな理由があってそんなことをするのか気にはなったが、値踏みされてる最中にうるさいところを見せるわけにはいかない。

 航は久保田の指示に従って、メリハリを利かせた歩様を披露する。

 柔らかく腰のしっかり入った歩様は、見栄えの良さも手伝って、見る者すべてに好印象を植えつけた。



 正午より、上場馬を40頭ずつ一斉に展示する比較展示が始まる。

 比較展示3巡目。次は自分の番だと、改めて気合を入れ直し、購買関係者が待つ会場へと向かう航。約30分かけて比較展示を行った後は常歩で専用の走路を一周した。


「ほら、水飲んどけ水」


 帰ってきて早々、八肋が馬房に備え付けられている自動給水器を指差し、すぐに水分補給するように言う。

 航は鼻先でつついて、ウォーターカップから水を出すと、喉の渇きを潤した。


「首尾はどうだ? どんべえ」

「もう大盛況! 捌ききれないくらい来てましたよ」


 対応した久保田が目を回していたと伝える。


「立ち姿や歩様を見せてくれって頼むやつがやたら多かったってこたあ、サンリヨンの2018に人気が集中してるって証拠だ。何か致命的な問題でもない限り、中堅より下の馬主が手を出せる金額にはならねえだろう」

「でも、それらしい人ぜんぜん見なかったんですよね。それに――」


 と、思い出したように眉を寄せる航。

 展示開始後からずっとどこかからか見られている気がすると打ち明ける。


「それは一つか?」

「いえ。もっとたくさん、五つはあったと思います」

「えれえ奇妙な話だな。下見してえなら久保田のあんちゃんに一声かければいいだけだ」


 遠くから観察行為を続けている者たちが、セリに参加することを前提に、八肋は慎重に可能性を洗う。


「ま、どの道やることは変わんねえ。気にせず16時まで休んどけ」


 もしかしたらという心当たりはあったが、自然体を崩すことを嫌った八肋は、航に話す必要はないと判断する。

 この後も展示に駆り出されるため、とにかく今は体力回復に努めることを優先させた。



「それじゃあ行ってきます」

「残りの一時間で評価がガラリと変わっちまう場合もあるんだ。決して油断するんじゃねえぞ。心してかかれ」


 八肋は最後の最後まで気を抜かないよう口を酸っぱくして言って航を送り出した。

 照りつける夏の日差しの下、出ずっぱりで展示のリクエストに応えていく航。

 前進気勢溢れる歩様に変わりなし。みなぎる闘志を全面に押し出してきびきびと歩き、どっしりと貫禄のある姿を見せつける。


「馬見。よろしいですか?」


 そろそろ次で最後になろうかという時、一人の馬主がそっと静かに現れた。

 黒のサマージャケットを羽織った白髪の男性は、立ち姿一つとっても様になっていて、ずいぶんと若々しく見える。


「もちろんです! さあ、どんべえ。最後だから頑張ろう」


 やたら張り切る久保田を不思議に思いながら、航は購買者が見やすいように駐立する。

 左側、正面、右側、後方と、じっくり丹念に馬体を見る男性。一時たりとも気が抜けない状態が10分以上続いた。


「次は歩様を」


 求めに応じ、男性から真っ直ぐ遠ざかると、航は右回りにUターンして戻ってくる。

 久保田の言うことをよく聞き、ダイナミックな歩様で馬体を大きくみせたつもりだったが、購買者の表情に変化はなく、緩さの残る馬体――特にトモの部分に鋭い視線を注いでいた。

 男性は馬選びに一格言あるらしく、歩様の形がきれいかどうかよりも、どこに伸びしろがあるか、見定めているようだった。


「苦しくなってきた時に、どれだけ我慢できるか見させてもらうつもりでしたが、いらぬ心配でしたよ」


 男性がそう言葉少なめに評して笑う。


「本当に驚くくらいよく躾られてる。前評判に違わず、これは間違いないみたいだ」

「ショウナンさんに買っていただければ、この子も喜ぶと思いますよ」


 ショウナンという言葉に航は耳を疑う。


(……ショウナン!? ショウナンの人か!)


「そうなればいいですけどね。だが――ライバルは多そうだ」


 ショウナンの冠名で知られる国定喜秀くにさだよしひでは目をちらりと動かした。


「あっ、テイエムの……」


 視線の先にいる人物に、久保田が小さく漏らす。

 生産者にも購買者にも熱い季節はまだ終わらない。

 航の運命を決めるセレクションセールに向けて、役者は揃いつつあった。

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