第8話 手前を替えろ
午後のいつもの時間。
牧場スタッフが覇気ある声で追い運動開始を告げる。
「よーいはじめっ!」
合図に反応し、淀みない動きでスタートを決めるやっちん。
そしてそれを見計らうようにして、仔馬たちも続々と走り始めた。
(見事なまでにばらばらだな)
右と左、どちらの脚から入るのか注目して見るが、皆まちまちだ。
「一番後ろからいくぞ」
「うん」
返事が返ってきたのを確認すると、航はギンナンと共に最後方から前を追いかける。
(利き足と軸足の関係を確かめなきゃな)
軽くキャンターを踏みながら、それぞれの脚の運びがどうなっているか、視線を順に移していく。
やはりギンナンが言っていたとおり、最初の一歩を右前脚から入るタイプは右の脚を前に出した体勢で、左前脚から入るタイプは左の脚を前に出した体勢で走っていた。
馬というのは得意な方の脚を軸足にして走るくせがあるのは本当らしい。
「しかし、今日はえらく遅いな」
「これくらいの方が僕は助かるよ」
「……」
息が入る緩いペースにもかかわらず、一向に誰も追い抜きにかかったりしない。仔馬たちの中でルールのようなものがあるのか、列の順番を守りながら行儀よく走っている。
(もう上下関係をはっきり認識しているのか?)
序列ができていると航は直感した。群れを引っ張るやっちんがこの調子では、他の仔馬たちも真剣に取り組もうとしないだろう。
「ちんたら走られても困るから、ちょっくら活を入れてくるわ」
「まっ、待って! 僕も行く!」
「……よし。じゃあついてこい。飛ばすぞ」
ギンナンの意を汲み、そう勢い込んで言う航。前脚が自然と高く上がり、掻き込むようにしてピッチを上げていく。
「なに遠慮してんだお前ら! 競馬ってのはゴールまでの着順を競うものなんだぞ!」
先頭を走るやっちんにも届くよう声を張る。
「競走馬の7割は未勝利で終わる世界だ。もっと必死になれ!
サラブレッドは走るために産まれ――生きるために走る。
航の熱のこもった叫びを耳にして、群れの空気が実レースさながらの緊迫感に包まれる。
航かやっちんか、どっちに従うか迷っていたのもつかの間、一頭また一頭と群れの順位を無視して走り出した。
航は後続を促すように追走し、早くもやっちんを射程圏に入れる。
「いい加減全力出そうぜ? じゃないと俺が全部ぶち抜いちまうぞ?」
「どんべえええ」
名指しされたやっちんの顔つきが怒気を帯びたものに変わった。
「ちっ、しゃあねえっ!」
途端にやっちんは速度を出すために脚の回転数を上げる。
道悪やダートを苦にしない掻き込みの強いピッチ走法を航の前で初めて披露した。
「やればできるじゃねえか」
「うっせえ!」
やっちんはむくれながらも、航と約束したとおり、左回りのコースをとる。
(きたか……!!)
本気になったやっちんをコーナーでどこまで追いつめることができるのか。
航はスピードを保ちながら外からまくってやろうと、右前脚を先行させたまま左コーナーに突入した。
「かっ……体がっ!?」
遠心力に振られて、脚が外へ外へと流れていってしまう。
遠心力に対抗して体を内側に傾けることができた右コーナーとはまるで正反対。思うように体が動いてくれず、外に大きく膨らんでしまう。
「こんなになるとか聞いてねえよ!?」
外側にブレーキをかけながら走るかっこうになり、ギンナンに対して愚痴が飛び出す。
とっさに脚をクロスさせ、なんとか曲がっていくが、重心が上下左右にぶれ、がくんとスピードが落ちてしまった。
(難儀してるみてえだな)
悪戦苦闘する航を、陰ながら見守っていた八肋が胸中で呟いた。
「軸足に注目したってこたあ、半分くらい答えは出てる」
競馬場のコーナーでは右利き左利き関係なく、守らなければいけない約束事がある。
それを無視して走ると、さっきの航のようにコーナーで外側に膨らみ、コースロスが大きくなる。
(もう少しだどんべえ)
左のコーナーで、右前脚と左後ろ脚を使って走るこの走り方をしてはダメだと、航ならすぐに気づくはずだ。
幼い雛を育てる親鳥のような気持ちで、八肋はもう一度心の中でエールを送った。
航はどうにかこうにかコーナーを回りきると、直線区間を利用して一息つく。
「ふうぅぅぅ。これは…………うん、これ絶対確実に違うわ」
本番でこんなことをしていたのではレースにならない。
それどころか外ラチに向かって逸走する危険もある。
(どこがまずかったのか……)
右コーナーを小さく回れた時と同じようにやったはずだ。
ボタンの掛け違いとでも言えばいいのか、あの脚の運びはあくまで右回り限定。
コーナーでは右前脚を軸足にすれば良いなどと単純な話ではなく、もっと根本的な部分から考え直す必要があるようだ。
幸い次は右回りのコース。
今の左前脚よりも右前脚を前に出すやり方を続けても支障ないだろう。
広がったやっちんとの差をつめることはせず、航は中団やや後方の位置をキープした。
(よく思い出せ。右回りと左回りとでは差異が必ずあったはずだ)
さまざまな角度から異なっていた点を見つけようとする航。初心に立ち返り、軸足がコーナーに対してどうなっていたか言葉に出してみる。
「右前脚を軸にして右コーナーに入ると、先行する右前脚は内側に置かれ、左コーナーでは外側に置くことになる」
先行する脚が内側か外側かで結果が180度変わったのだから、
「右回りでは右前脚を軸足に、左回りでは左前脚を軸脚にしないと巧く回れない」
と、第三者的視点に立って答えを導き出したのはいいが、すぐに別の問題が発生した。
(走るのがきつい。脚にくる)
ずっと同じ脚を軸足にして走っていたせいで、右前脚に疲労が蓄積し、走るのがだんだん苦しくなってくる。
疲れていない左前脚を軸足にしたくなる衝動にかられるものの、これだけスピードが出た状態で軸足を切り替えるのは初めてだ。故障でもしやしないかと行動に移せない。
航は軸足を変える機を逃してしまい、スタートから右前脚を一度も休ませずに、コーナーを回ることになってしまった。
「ギ、ギンナンはよくまあこんなことをやってたな」
一方の脚にだけ負担がかかり、距離を走るにつれてじりじり減速していく航。
出だしは悪くないギンナンが最後にはついていけなくなる理由の一端をみた気がした。
(コースや距離に適した脚運びができるか否かで得手不得手が決まる。そういうことですね師匠)
道中スタミナの消費を抑え、効率よく走るためには、コーナー以外にも何度か軸足を変える必要がある。特にラストの勝負どころ。最後の直線では軸足を必ず切り替えないと、伸びを欠くことになるのは容易に想像がついた。
高速で走ってる最中に脚の運びを変えろと言われて、恐怖を感じないわけがない。
だが、競馬で勝つためには習得しなければいけない技術だ。
押し寄せてくる恐怖を振り切り、航は腹をくくる。
右回り最後のコーナーを通過したと同時に、推進力を生み出している左トモにぐっと力を込めた。
「いくぞ! ここだっ!!」
左後ろ脚で踏ん張って大きく飛ぶ。
左後ろ脚、右後ろ脚、右前脚、左前脚と回転襲歩を挟んでから、右後ろ脚、左後ろ脚、右前脚、左前脚の順で交叉襲歩に戻し、馬が走る時の脚の運び方――『手前』を右手前から左手前に切り替えた。
(それでいい。……よくやった)
八肋が嬉しそうに二度うなづく。
自分の手を借りずに正解にたどりついた航の頑張りを素直に評価した。
「はっ、はっ、軽い軽い」
今まで右前脚で体重を支え、左後ろ脚の力で前に進んでいた分、嘘のように脚が軽い。
手前を変えたことで余力十分な航。やっちんを捕らえるべく、再び加速し始めた。
フレッシュな状態の右後ろ脚を地面から強く蹴り上げ、脚色が怪しくなってきた他馬を一気に抜かしていく。
「なんだこの音は?」
軽快な脚音がどんどん近づいてくる。
いったいどこのどいつだと、やっちんは振り返った。
「どんべえかよ!? 嘘だろお前……」
大きく後退したはずの航が目前に迫ってきていて目を疑った。
体力的に厳しくなる時間帯に航だけが明らかに伸びが違う。意味不明すぎて、もはや唖然とするしかなかった。
航は左手前で走りながら左コーナーに向かうと、なるべくスピードを殺さないように体を少し左に傾け、巧みなコーナーリングで外から馬体を合わせにいった。
「油断させるために手を抜いてたのか?」
「ガチレースじゃあるまいし。わざわざそんなことするかよ」
「じゃああれは何だったんだよ?」
最初の左コーナーでのことについて、やっちんが拗ねた表情で説明を求めてくる。
「すぐすむような話じゃないから、後で他の連中も交えて教えてやるよ」
「ああそうですかい」
これまた素っ気ない態度のやっちん。
言及することを避けた航に、思うところがあるのが嫌でも伝わってくる。
「……仕方ないな。直線で仕掛けるから――それでいいだろ? やっちん」
「いや待て、それとこれとがどう関係あるんだ?」
「まあ黙って見てなさいって」
航は自信たっぷりにそう答えると、突如としてやっちんを追い超し、前に進出。カーブを抜け、直線に出るや、右後ろ脚を大きく踏み込んで手前を変えた。
「おっ、おい! 今何やった?!」
襲歩での手前変換。
一瞬ジャンプでもしたかのような動作に、やっちんは目を丸くして驚いた。
(手前を変える必要性を、実際に肌で感じてもらうのが一番だ)
航は温存しておいた右手前を使ってスパートをかける。
直後――ブーストでもかかったようにぐんっと急加速して、しぶとく食い下がっていたやっちんを、またたく間に突き放してしまった。
「……」
あまりに衝撃的な光景に八肋は言葉を呑む。
コーナーを回る時の脚の運び方を教えるつもりが、航にはさらにその先のことまで見えていた。この時期に、ここまで完璧に手前変換をやってのけた当歳馬は、おそらく世界中どこを探しても航だけだろう。
(こいつぁ、もしかしたらもしかするかもしれねえ)
手前の切り替えをスムーズに行える肩まわりの筋肉の柔らかさ、器用さに加えて、異常なまでの飲み込みの早さが航にはある。これは非常に強力な武器だ。
クラシック制覇の可能性を感じ取った八肋は胸の高鳴りを抑えるのに必死だった。
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