第一章 優しさ、ひとり、苛立ち

第3話

 冬休みなんてあってないようなものだ。毎日ゴロゴロして過ごし、気がつけば新学期初日を迎えていた。

 美桜とはあの初詣の日から会っていない。メッセージのやりとりや通話はしたが、直接会うのは一週間ぶりだ。

 三奈は視線を窓際の一番後ろの席に向ける。まだ彼女は来ていない。


 ――まあ、まだ来ないか。


 眠気が冷めない意識のまま、三奈は席に着いてぼんやりと黒板に目を向けた。

 美桜が登校する時間はいつも決まっている。予鈴が鳴る五分前くらい。バスがちょうどそのくらいに到着するのだろう。

 彼女の家は田んぼに囲まれた随分と不便な場所にあるアパートの一室だ。祖母が持っていた物件で今は自分が管理人も兼ねているのだ、と彼女は言っていたが今ではそこに住み続ける違う理由もあるだろう。美桜の隣の部屋にはあの人が住んでいるのだから。

 三奈はブレザーのポケットに手を入れて小さく息を吐く。


「三奈、はよ。早いね?」

「あー、なんか朝起きてからの時間配分忘れちゃって」


 教室に入ってきた友人にそう答えると三奈はマフラーに顎を埋めた。


「いや、てか教室でマフラーは寒がりすぎじゃない?」

「この教室、暖房の効き悪すぎない? めっちゃ寒い」

「まあ、みんな冷え切った空気と一緒に教室入ってくるし。あ、はよー」


 友人はそう言うと教室に入ってきた別の友人と話し始めた。三奈は再び視線を黒板に向けてぼんやりする。

 いつ頃からだろう。こうして教室でぼんやりすることが多くなったのは。

 去年の夏まではよく騒いでいたような気がする。美桜たちとくだらないことを言って、わざと盛り上がるようなウソを言ったりして。時々あの人の視線を感じて苛立って絡んでみたり……。


 ――無駄だったな。


 何をしたところで何も変わらなかった。

 無駄なことをして、そんな自分のことが嫌になって美桜との関係を壊そうとして、それでも結局何も変わらなかった。何も変わらないまま苦しさだけが続いている。


「三奈、おはよ」


 ぼんやりしていると綺麗な声が聞こえた。三奈は一瞬だけ視線を向けて「美桜。今日は早いね」と再び黒板を見つめる。


「なんか道が空いてたみたいなんだよね。まあ、いつもより五分早いだけだけど」

「ふうん」

「……寒いの?」

「むしろなんでみんなこの教室で寒くないの。変じゃない?」


 マフラーに顎を埋めながら言うと、美桜は笑いながら「あげる、これ」とホットレモンのペットボトルを三奈の机に置いた。


「いい。美桜のでしょ」

「二本買ったんだよね。寒かったから両手に持って暖まりながら来た」

「……暖まり方おかしくない?」

「これから体育館で始業式でしょ。学校着いたら飲んでお腹も暖めてから行こうと思って」

「二本飲む気だったの?」

「まさか。どうせ三奈が寒がってるだろうと思ってさ」

「ふうん」


 三奈は手を伸ばしてペットボトルを両手で包み込む。


「――あったかい」

「でしょ」


 ニッと美桜は笑うと自分の席に荷物を置いて友人に挨拶をしている。そんな彼女を見ながら三奈はペットボトルの蓋を開けるとホットレモンを一口飲んだ。冷えていた身体に温もりが戻っていく気がする。


 ――お礼言うの、忘れたな。


 飲みながら思ったが、今さら礼を言うのもタイミングがおかしい気がする。美桜はそんなこと気にもしていないのだろう。友人と雑談する彼女は笑顔だ。

 いつもと同じ、少しだけ引いた笑顔で静かな受け答え。

 こういうところは変わらない。美桜はいつも他人と一線を置いている。そういう癖がついてしまっているのだろう。三奈と同じように今までの自分をそう簡単に変えることはできない。

 予鈴が鳴ってクラスメイトたちがノロノロと自分の席に戻り始めた。

 三奈はペットボトルを見つめる。せっかく美桜がくれたのだ。温かなうちに飲んでしまいたい。だが、一気に飲める量かと言われると無理だ。


「三奈、無理して飲まなくてもいいからね」


 すかさず美桜がそんな言葉をかけてくる。三奈は彼女へ視線を向け、そして「は?」と目を見開いた。


「美桜、もう飲んだの?」

「喉渇いてたから」

「いや、それにしてもじゃない? もしかして一気飲みしてた?」


 周りの友人に聞くと中の一人が笑いながら「してた。すごい良い飲みっぷりでビックリした」と答える。それでも美桜は気にした様子もなく「三奈は真似しなくていいからね」と言う。


「するわけないでしょ」


 呆れながら答えたとき、チャイムが鳴った。タイミングを見計らったかのように教室にあの人が入ってくる。その瞬間、美桜の表情が変わったのがわかって三奈はスッと視線を黒板に向けた。

 学校は憂鬱だ。あんな表情をする美桜を毎日見なくてはならない。

 以前の美桜からは想像もできないような、あんなに幸せそうで嬉しそうで柔らかな表情。それが自分ではない他人に、あの人にしか向けられないということがわかっているのが辛い。

 あの人も同じような表情で美桜のことを見ている。きっとあの人は平静を装っているつもりだろう。生徒と付き合っているなんて知られたら大変な騒ぎになるのだから当然だ。だけど三奈にはわかってしまう。明宮が美桜を見る目は三奈が美桜を見る目と同じだから。

 だからこそ、学校であの人のことは見ないようにしている。見ると悔しくて悲しくて辛くてどうにかなってしまいそうだから。


「えっと、高知さん?」


 明宮の姿を見ないように黒板を見つめているとイラッとする声が三奈のことを呼んだ。三奈は黒板から視線を逸らさずに「なんですか。出席はしてますけど」と低く答える。


「マフラー、外しましょうね?」

「寒いのに外せっていうんですか。生徒が風邪を引いてもいいって?」

「そうじゃないけど、でも暖房も効いてるし……。それにペットボトルも鞄に収めましょうか」

「あー、始業式までには飲むんで」

「ホームルームも一応は授業というか」

「じゃあ、今飲むからいいでしょ」


 三奈はそう言うとペットボトルの蓋を開けた。


「三奈ってば、そんな寒いの?」

「寒い。めっちゃ寒い」


 隣の席の友人にそう答えながらホットレモンを飲む。チラリと美桜を見ると彼女は穏やかに明宮の方を見ていた。


「しょうがないですね。でも、始業式のときにはマフラー取ってくださいね」


 明宮は苦笑気味にそう言うと連絡事項の伝達を始めた。三奈はホットレモンを飲みながら小さく息を吐く。

 学校で美桜は三奈を見てはくれない。それはきっと仕方のないこと。同じクラスに彼氏が出来た友人も付き合っている間はずっとその相手のことばかり見ていた。だからきっと、そういうものなのだろう。

 口に運んだホットレモンはすでに温もりを失いかけている。中途半端に温かくて甘い。

 嬉しかったのに、もうその感情も冷えてしまった。


 ――学校つまんないな。


 せめて今からでも別のクラスになれたらいいのに。しかし、きっとそうなったら美桜と会えない時間が増えてモヤモヤしてしまうのだろう。

 考えているうちにホームルームが終わり、あの人は教室から出て行っていた。


「三奈、もう飲んだ? 始業式始まるよ」


 美桜が言いながら近くまで来る。三奈は一つ息を吐いてから笑みを浮かべた。


「待って。今飲むから」


 冷えてしまったホットレモンを一気に飲み干すと「よし。行こうか」と空になったペットボトルを机に置いた。


「マフラーも取れって言われたでしょ」

「はいはい」


 三奈は素直にマフラーを外す。首元に冷たい空気がまとわりついてきて思わず「寒っ」と声が漏れる。美桜は呆れたように笑った。


「三奈ってそんな寒がりだったっけ?」

「やる気が出ないと冷え性になる体質だから」

「どんな体質よ。もう先に行くよ」


 美桜は言いながら他の友達と一緒に教室を出て行ってしまう。


「……いや、ちょっとくらい待ってくれても良くない?」


 呟いてマフラーを鞄に収めると三奈も廊下へ向かう。そのときふいに視線を感じて振り返る。すると教室に一人残っていた女子生徒がこちらを見ていた。見慣れない顔だ。少し眉を寄せてから廊下に出て考える。


 ――ああ、転校生か。


 十二月に転校してきた子だ。名前はなんだっただろう。興味もないし目立たない子だったので記憶にない。廊下を歩きながら振り返ってみたが、彼女が教室から出てくる様子はない。


 ――サボり?


 真面目そうに見えたが、意外と度胸が据わっているのだろうか。


「三奈、早く来なよ」


 声が聞こえて視線を廊下の先に向ける。そこでは美桜と友人たちが三奈のことを待ってくれていた。


「なに、先に行けば良かったのに」

「置いていくと三奈、拗ねるじゃん」


 美桜の言葉に友人たちが同意している。三奈は苦笑して「そんなことで拗ねるわけないでしょ」と答えながら彼女たちと合流して体育館へ向かう。歩きながら何度か後ろを振り返ったが、やはりあの転校生が来る気配はなかった。

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