第20話 守ってやらなきゃ
「っ、……間一髪」
意識を失ったイシュカを、着水寸前で受け止めたラグナルは、息を吐き出す。同時に安堵で全身から力が抜けた。
ラグナルの意図を察し、彼女を救いに急降下してくれたフェニクスが、下で「ビィ」と得意げに鳴いた。
「ありがとう、助かったよ、イシュカも、俺も」
彼をねぎらえば、燃える炎の中にある青い目が少し緩んだ気がした。
「本当、すごいな、イシュカは……」
そして、腕の中の幼馴染を改めて眺めた。
炎の魔人とも言うべき、あの幻獣の霊力は膨大だった。そして、精霊、人間を含めたこの世の生物、生きとし生けるものへの敵意のようなものを感じた。
(まさかあの状況からひっくり返すなんて……)
唯一幻獣の融合方法を知り、成功させ得る一族の生まれだとは知っていた。彼女がその教えを受け継いでいることも。
だが、これまでは失敗しかしてこなかった。彼女だけでなく、彼女の一族のほとんどの者も成功したことはないはずだ。
なのに、こんな場面で、しかも水竜と火竜の融合を成功させて、あの魔人を排除した。
昔からだ。ラグナルが崖から谷底に落ちた時、実家の政争に巻き込まれて誘拐されそうになった時、父親に追い詰められて本気で死んでやろうかと思った時――。
普段おかしなことばかりしでかすくせに、ラグナルが本気で助けが必要な時は、イシュカは必ずなんとかしてくれた、精霊の助けがあろうとなかろうと。
「……」
無茶な召喚と融合によって、霊障が出たのだろう、腕の中でぐったりとしているイシュカに、もう何度目かわからない畏怖のようなものを感じて、ラグナルは眉根を寄せた。
が――。
「食べ、ないで、食べないで、わたし、美味しくない……」
「…………どんな夢だよ」
(ったく、人の気も知らないで……)
呻き声を上げる、その間抜けな顔に思わず眉を跳ね上げた後、苦笑を零した。
「頼むから、無茶ばっかりしないでくれ……」
それから彼女の頬に恐る恐る触れた。昔と同じ、滑らかな感触に、思わず非難めいた言葉が零れた。同時に胸が震え、鼻の奥がつんとしてくる。
「……大丈夫。ほら」
泣きそうになったのを認めたくなくて、唇を引き結ぶと、すぐ横に舞い降りてきたシグルに抱えたイシュカの顔を見せた。
シグルも自分と同じ顔をしている気がした。
「? シグル?」
イシュカの顔を覗き込み、額にくちばしをあてていたシグルが、音を立てて顔を上げた。
「嘘、だろ……」
彼の視線を追い、ラグナルは蒼褪める。火山の奥底から、さっき消えたはずの霊気が上がってくる。
「執念深すぎる」
ラグナルは舌打ちを零した。先ほどとは比べ物にならない霊力だ。なのに、まだ敵愾心を失っていない。
「その霊力じゃ、どうせ勝てないんだから大人しくしておけ」
その方向を睨みつければ、その瞬間、憎悪を感じた。火口によろよろと姿を現した魔人が、黒い塊の横でこっちを睨んでいる。
「シグル、イシュカを頼んだ」
幼馴染を黒い霊鳥の上に移し、移動を促した。そして「行くぞ、フェニクス」と不死鳥に呼びかける。
その瞬間、魔人はこちらを見、赤く光る眼と口を歪ませた。
顎を天につきあげて咆哮すると、自らの霊力を極限まで絞り出し、炎をまとって膨れ上がった。凄まじい速度でこちらに下ってくる。
(嘘だろ……)
霊力は精霊たちの命をつなぐエネルギーのようなものだ。それをすべて放出すれば、人でいう死を迎える。――あの幻獣は『死』を恐れていない。
(まずい)
押し寄せる熱風に、直感的にそう感じた。全身の毛が逆立つ。フェニクスで上昇すれば避けられるかもしれない。だが――。
ラグナルは背後の幼馴染をちらりと見た。シグルの飛翔能力は高くない。イシュカを乗せていれば、きっと逃げられない。
「……悪い、負担かける」
覚悟に必要なのは一瞬だった。足元のフェニクスにそう呼びかければ、彼は翼を大きく羽ばたかせる。
左の人差し指をガリッと噛んで、血の雫をフェニクスに落とした。
「創世の炎と共に生まれし、不死の霊鳥よ、我を片翼に、……っ」
自らを媒体、つまりは贄にしてフェニクスの霊力を最大限に引き出す。一文字口にするごとに全身に痛みが走り、ラグナルは顔を歪めた。
「我を片翼にっ、敵を打ち滅ぼしたまえ……っ」
呼吸を整え直して、呪を完唱すれば、フェニクスの体から閃光が走った。その背にしがみつき、炎の塊と化した魔人にまっすぐ突っ込んでいく。
フェニクスの霊力に守られていてなお、長い髪の先に火が付いた。学校の制服の耐霊ローブが燻り出す。眼球が高温でひりつく。ぱっと火花が散るように睫毛が燃え落ちた。
呼吸を最低限にすべきだと知っているが、耐えかねて息をすれば、気管が焼けるような感じがした。
死ぬ、と悟った。
その瞬間に思い浮かんだのは、精霊を見つけるなり、こっちを見て「ラグナル」と笑いかけてくるイシュカの顔だった。口元に笑いが浮かぶ。
「矢となり――突き抜けよ」
額に突き立てた人差し指を前方に向けながら、フェニクスに命令を下せば、炎の霊鳥は鳴き声と共に加速した。翼を畳み、嘴から尾に至るまで一筋の炎の矢となる。
そして、燃え盛る炎を貫き、その中心の魔人の体を貫通した。
脳の奥が痛むほどの絶叫が響き渡った。
全身が燃えている。なのに、熱さも痛みも感じない。そういえば、死にそうな時はそういうふうだと、誰かが言っていた。
ラグナルは湖へと落下していく。
「……無事、だった、か」
だが、水に落ちる寸前に、またフェニクスに救われた。息も絶え絶えに、謝罪と礼を口にすれば、馴染みの炎の鳥も弱々しい鳴き声を上げた。
――最後に一目だけ。
思いが通じたのか、大半の霊力を失ったフェニクスがよろよろと湖の上にいる黒い鳥へと飛んでいってくれた。
「……自由、に。ありがとう」
フェニクスと共に崩れるようにシグルの上に降り立った後、ラグナルはフェニクスの契約を解除する。霊力をほぼ失った炎の鳥は、小さな鳴き声と火花を残して、あちらの世界に消えていった。
(イシュカ)
眼球がひりつきはしたが、まだ視界は効いた。シグルの上でイシュカが平和そうな顔で寝ている。あどけないその顔に思わず笑えば、焦げた口元がひび割れ、体液が滲みだした。
イシュカの寝顔に手を伸ばせば、指はもう二本しか残っていなかった。残りでそっと触れたが、さっきとは違って感触を感じない。ひどく寂しい。
瞬きするたびに引き攣れる焼け焦げた瞼と、爛れた気管に出入りする空気がもたらす痛みに耐えかねて、ラグナルは意識をゆっくりと手放していく。
イシュカの能天気な顔ももう見納めだ。
父親の思惑に乗って、特別考査を受けたのは、彼女に留学してほしくなかったからだ。近づけなくてもいい。顔だけでも見ていたかった。なのに、結局見られなくなる――なんて間抜けなのだろう。
「っ」
くすっと笑った直後、ラグナルは閉じかけていた瞼を見開いた。周囲に漂う霊力の残滓がイシュカへと集まっていく。
「イシュ、カ……」
嫌な予感に、火の山を見れば、火口にあった黒い塊が崩壊した。もうもうとした黒煙と化し、こちらへと押し寄せてくる。
「っ」
ラグナルはイシュカに覆い被さった。
小石がビシビシと跳んできた。再び熱風が押し寄せてくる。無駄なことだとわかっていた。けれどどうせ死ぬのだ、盾となってイシュカの生存の可能性を少しでも上げられるなら、本望だった。
「……」
だが、覚悟した瞬間はいつまで経ってもやってこなかった。熱気も消えた。
疑問に耐えかねて、恐る恐る顔を上げれば、周囲には透明の壁が張り巡らされている。
(水……)
揺らぐ水の向こうでは白い湯けむりがもうもうと広がり、耳をすませば、間断なくジュウゥという音が響いている。
その中、自分たちの前に巨大な影が立ちふさがっている――イシュカを溺死させかけた、あの人魚だ。その周囲に何匹もの幻獣たちが並び、火砕流を水の壁で覆い、喰いとめている。
次第に白い蒸気が薄れ始めた。
最後に、水の壁がひと際高く持ち上がり、薄く残っていた黒煙に覆い被さって、湖へと共に落ちていった。
同時に、人魚たちがこちらを振り返る。そのサファイアのような大きな目でラグナルを見、イシュカに一瞥と微笑を残して消えていく。
そして、平穏が戻った。
「……」
火山灰に覆われ、黒くなっていた空に、明るさが戻ってくる。青空が見えた。陽光が射しこんでくる。
すべての出来事が夢のようにしか思えない。
だが、現実として、火山周りの植物は黒く焼け落ち、湖には黒い灰や植物片が浮いている。
(……最期の最期までこんなふうか)
イシュカといると死ぬ時ですら中々落ち着けないらしい。そう思ったら、また少し笑えた。緊張がほどけ、シグルの背の上に再び崩れ落ちる。
シグルがイシュカとラグナルを乗せたまま、湖岸へと降り立った。
背を傾けて二人を下ろし、不器用ながら丁寧に大木の幹に背を預けさせると、ラグナルの目の前に立った。
背後の木は界境なのだろう。向こうの世界が感じられた。
樹魔が泣いているようだ。お礼とお別れを伝えたいが、イシュカと違って、ラグナルには向こうの世界が見えない。
「シグ、ル、イシュカ、こと、よろ、く、な」
「……」
目の前にいる、幼馴染の不思議な親友に語り掛ければ、その黒い目にじっと見つめられた。不思議な瞳だった。奥に虹のようなものが見える。死に際の幻覚だと思っていたそれが徐々に広がっていき、シグルの周りに漂い始めた。
シグルが光る両翼を広げた。ラグナルの全身を包みこむと、額を寄せてくる。
「……」
ひどく温かい感触の中、痛みの感覚がなくなり、代わりに失われていた感覚が戻ってくる。
瞬きをしても呼吸をしても痛みも違和感もない。右手を持ち上げれば、無くなったはずの指がすべてそろっていた。
ついに死んだのか、と震えながら力をこめれば、意図通りに動く。自分の顔に触れれば、指と顔、両方にその感覚があった。
シグルの翼の隙間から、イシュカの寝顔が見える――生きている。
(そう、か……シグルの正体は、シームルグ、癒しの力を持つ霊鳥の王だ……)
「カラスみたいな見た目して……騙しすぎだろ、シグル。てか、絶妙に微妙な名前つけられて、受け入れるなよ……」
思わずぼやけば、イシュカの親友であり、守り神のような霊鳥が笑ったような気がした。
昔から無茶苦茶なことばかりしていたイシュカが、それでも死ぬようなことにならなかったのは、彼のおかげだったのだろうとようやく悟る。
膨大な魔力を持ち、人に不死をもたらす可能性すらある――そんな人の欲望を掻き立てる存在が、イシュカと一緒にいると知られたら?
ただでさえ、彼女は融合なんて歴史上、数人しかできなかったことができるようになったのに。
いや、その融合ももしかしたら――。
(あいつ、まずいことだらけだ)
守ってやらなくては――。
シグルの翼の中で、ラグナルはついに意識を手放した。
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