3,春に行きたい

「春に行きたい」

 そんなことを呟けば、ソイツは訳が分からんといった顔で見てきた。

「だって、全然冬」

 カレンダーを指さしながらそういえば、伝わったようだった。名ばかりの立春に、どうしたって悲しくなる。窓の外で降っている雪が、無理だと言わんばかりの冷気を発する。

「行けるよ、目を閉じて」

 従うことにした。ソイツは、別に私に害をなす存在ではないのだから。

 目を開ければ、視界いっぱいに広がる桜の花。そして真っ白な鳥居。まるで別世界に来たかのような感覚に包まれた。

「ここはどこ?」

「どこだろうね」

 ニコニコと笑みを浮かべるソイツの心中は分からない。糸目の目を覗いてみても、どうにも色が灯っていない。

「麓を見てご覧」

 そうして階段の下を見てみれば、ようやくここがどこかの山であったことを知る。そこに広がっている光景は驚きのものだったのだ。雪が降っていた。山の上であるここは暖かく、桜も咲いているのに。その下ではまだ冬が猛威を奮っていたのだ。

「どういうこと?」

「どういうことだろうね」

 ふと、思った。帰れないのではないか、と。その考えが浮かんでしまえば、恐怖心が次々と襲ってくる。

「帰らせて」

「なんで?」

 取り合う気などないとでも言うように、腹の中が分からない表情を浮かべる。もう、ソイツの顔に笑顔は浮かんでいない。ただただ恐怖心を煽る真顔が宿っていた。

「帰りたいの」

「そう」

 ソイツはどこか、悲しげな顔を作りながら私に手をかざした。真っ白に視界が染められて、次に目を覚ました時は自分の部屋に戻っていた。とんだ恐怖体験をしたものだ。

 そういえば、ソイツ、とは一体誰なのか。私には思い出せない。


〔詞書〕題しらす

春霞 たてるやいつこ みよしのの よしのの山に 雪はふりつつ

〔作者〕詠み人知らず

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古今集・ショートショート 堕なの。 @danano

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