二 簡単な質問、どちらが夢であるか。

 寝床から身体を起こす。欠伸をする。いずれも全くの日常の風景であることに、疑いはあるまい。久しぶりに長く寝たはずであるが、全く寝た気がしないのは、れいの夢の所為であろうか。夢では声が出せなかったことをふと思い出して、適当に、あーとかうーとか鳴いてみる。聞こえるのは、生気のない聞き慣れた声であるが、やはり男性としては高く聞こえる。

 今日は木曜日である。いつも通りの大学の講義でさえ、今日ばかりは聴きたくなかった。世の人は、仮病によるものと解するだろうが、私は仮病を使わざるを得なかったことをこゝに弁明しておきたい。そりゃァ、恋の病と疲労困憊ひろうこんぱいなどと抜かしたら、枕を高くして眠れぬ日が続くだろうけれども、——まァだからといって仮病を使えども、罪悪感は減らない。ようは、私はただ卑怯の正当化をしただけに過ぎないのだ。

 あゝ、考えるのも億劫おっくうだ。折角休んだというのに。これでは余計に疲れていってしまうではないかと、頭を掻毟かきむしった。まだ時計は朝であるが、そんな簡単なことさえ考慮できずに私は家を出て、どこへ向かおうかと考える暇さえ私の足は与えてくれず、無意識に支配されていつの間にか、行きつけの居酒屋の暖簾のれんを潜っていた。

 居酒屋のカウンターテーブルに目をると、案の定と言うべきか或る男の人がいた。やたらとぼさっとしている髪に、無精髭ぶしょうひげを伸ばして、黒い外套がいとうを羽織っているこの男は、確か音楽学校の生徒を称していて、確かにその容姿は芸術家のようであると納得したためにそれを信じてはいるのだが、まァ何かと胡散臭うさんくさい野郎である。とはいえ何故か馬が合うのである。互いに酒呑なのもあって、よく居酒屋で偶然居合わせては日の出るまで飲み明かすような仲である。名は確か矢野と言ったか与野と言ったか。——うむ、適当に矢野ということにしておこうか。矢野も入店した私に気がついたようであり、私に手を招いてきた。まだ呑みはじめであろうか顔は赤くなく、酔いも浅いようである。矢野の右隣の席に座って、早速彼のお酌を受けると「なんだい君、今日は大学じゃなかったのかいね」と云うので「休んだんですよ」と自暴自棄に言葉を吐き捨て酒をぐびっと。「どうしたんだいね、今日の君の様子は少しおかしい。悪夢か、病か」矢野は眉をひそめる。コツンと机に酒を置いて「悪夢と病の両方だ」と私は云って、どうしようもなく大笑おおわらいすると「アラ両方とは珍しい」と矢野は目を円くした。私は「いやァどうしようもない悪夢だ。悪夢だと解っていながら逃げられぬ。やがて可愛い子が来れば、あゝすっかり恋の病にも無事罹患りかんする。んで以てそいつはとんだオカルトな奴だときた。読心やら言霊やら、冷静になれば真に気の狂ったかのようなことを言いやがる。あんな奴なんて今に忘れてやりたいのだが、すると病が治らぬから困る。こんな有様で大学など行けようか」と呪詛を矢野に投げつける。

「おゝ病は病でも恋煩いであるか。君が、かっては『恋愛など俗な概念を有難ありがた受容うけいれるなど以てのほかさ。ありゃただの気の迷いだ』なぞ息巻いていたことを思い出すが」矢野は眼を明後日の方向へ飛ばす。

「あゝそうだ。だからこそ困っているのだろう。恋煩いに一度かかった今なら更に自信を持って云える。あゝ恋愛などやはりいやなものさ。煙草みたいなもんさね。あいつは確かに美味いとは聞くが、肺を焼いてまで吸うもんではないことは周知の事実だろう? ——しかし一度吸えば人生を潰されるのだからねェ」

「喫煙者のおれを煽っているのかい。自堕落な君が人生の様子を気にするのも意外だがね」

「私は別に自らの人生の破滅を願うほど馬鹿者じゃないのさ」——私はそう云って酒をもう一杯店主にせがんだ。

 矢野も私も酒に酔って左右も判らぬ様子になりながら、いい加減なことをいってはまるで専門家気取りで評論しては、世の中を憂う幕末の志士のような義憤擬ぎふんもどきを空に落書すれども未だに悪夢を忘れられていない事に気づき、恐怖に私は酔いから醒めてくる。そのくせ酔っている時に話した事はすっかり忘れられるのだから、これではどちらが夢なのか解らぬ。古代中華の或る人は、胡蝶の夢と遺したそうで、まさに言い得て妙である。自棄やけになって酒を呑むにも気が引く。いつもに増して頭に矢の雨が降っている気がする。矢野は未だにしわがれた声で、やれ音楽家のだれそれがとか、楽壇気取りで物申していたが、こうなっては頭に入ってこぬ。帰るにも帰れず、鳥渡ちょっと待っていると、ついによだれを垂らして寝落ちてしまった。

 酔いは醒めたとはいえ未だに朦朧とする意識の中、家への帰途をたどっていた。梅は咲いたか桜はまだか、なぞ古くからのつまらぬ世迷言を口にしながら、未だに蕾から出てこぬソメイヨシノの並木を通り過ぎて、本当にいつのまにか、家に着く。何故か少し様変わりしたように見える。目を何回かこすった。カーペットの位置は合っているか、皿は何処に置かれていたか、机の大きさは合っているか。疑い出してはきりが無く、真実の存在するところを忘れる。有名なはなしだが、世界が今から五分前に創造主やらに再構成されたとする仮説を、否定するに足る充分な根拠は有るか、と云う問いがある。私は今、その仮説を支持しようかとしていた。

 時は昼を大きく過ぎたが、夕べというにはまだ早い頃、私は疲れていた。真が何か判らなくなるのだ。夢というのは、私の脳内で構成される分、細部は不正確であることが多い。一方で、昨日の夢はなんだ。あの女は、明確に意思を持っていた。私も夢なのにも関わらず、明確に意思を感じ取っていた。思えば、気温も、感触も、だ。今でもあの夢を覚えているのに、酔った私の行動を誰も保障してはくれない。こゝは、どこだ。夢はどちらであろうか。今、私は、世界の理に対する、恐ろしいものへ挑戦している気がした。

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