明晰夢の少女

刈谷つむぐ

一 それは、久方ぶりに寝られた時のことであった。

 私は、落ちた。語るに落ちたのだ。夢にちたのだ。恋に落とされてしまったのだ。

 森林の中は妙に薄暗かった。望月があたりを照らしているから、夜といえども全くの闇では無かったのだが、それが余計に身の毛もよだつ恐怖の情を掻立かきたたせてくる。深い青と薄い紫の空に、細長く紺色こんいろをした雲が散らばって、月光を朦朧もうろうとさせていた。まさに里辺さとわ火影ほかげも森の色も、という情景である。寒々としているのを何とか暖めようとしたのか、体中の筋肉が硬直して、精一杯震えていたのが自分でも解る。私は、何故かこゝが現実の世界ではないことを自覚していたのだ。だからこそこわいのである。もしかしたらこゝは冥府めいふではないか、という根拠こんきょなき妄想が、脳裏に無検閲でよぎっていった。逃げ出そうとしても、足がすくんで動けない。まるで足の爪先つまさきからかかとまで、ぴったりと強力な接着剤が張り付いているようだった。もはや万事休すか、寝覚めるのをして、否、立って待とうではないかと諦観ていかんしていた所で、「鳥渡ちょっと待たせ過ぎましたか?」と高い声で後ろから声をかけてきた。とはいえ私には振返ふりかえることも、返事することもできない。しばらくすれば「あぁ、喋れないし動けないんでしたね」と視線内にひょっこり顔を出してきて、舌を悪戯いたずらっぽく出して小笑こわらいした。それだ。それに落とされてしまったのだよ。

 あゝ、すなわち、恋をしたのだろう。思わずかれてしまってね。……ちっ、わざわざ云わせるでない。人に語るにも恥ずかしいから、是非とも墓場まで苦楽を友にしたいものだがねェ。そりゃァ、想い人は夢の中におります、なんて云ったあかつきにゃァ、私は変人扱いされて、社会的な死を迎えるだろう。でも、好きだから仕様がないのだよ。——私はつまらぬ弁明を自らに言い聞かせ、自らを納得させた。

 見よ。この端正で小さな顔を、背まで伸びたる翠色みどりいろの黒髪を、口に添られたる苺色いちごいろの唇を。眉は細長く、目はしっかりと見開いている。瞳は黒曜石のような輝きで視線上に主張してくる。それでいて斯様かような悪意の欠片もない、全てにおける理想のような、まるで外から内の整っているだろうことが解るほどの、まるで彫刻のような存在であった。最早、彼女に信仰心さえ芽生えんとしていた。それでいて、薄桃色のワンピースを身に纏うのみである、その質素な佇まいに、これまた驚かされる。しばらくは、彼女を前に何も考えることができずにいた。ただ脳内にあるは、彼女の素晴らしきを伝える讃歌の旋律のみであった。

 しばらくの間、私も彼女も、互いに凝り固まり、ただ目線をぢっと合わせていた。夢中であるから、時間がどれ程経ったのかは解らぬ。長いと思いながらすごしたと思ったが、気づけば一瞬のように感じられた。いやはや人間の時間というのは解らぬものである。一秒やら一分やらの長さは、果たして何によって定義されたのであるか、という問いに答えられる者がどれだけ居ろうか。少くとも、私には無理である。大学の、謂わば文系である私にできることは、人間の意識する時間の揺れを、どれだけ抒情的じょじょうてきに描けるかということである。たとえば今過ごした時間を私が描くのならば、こうである。

 ——私の視線は彼女の瞳孔へ一直線になった。私も彼女も同じことを仕合わせたからであろうか。その深い孔に私は嵌ってしまった。どんどん奥底へ、奥底へと惹き込まれていく。その行為により得られるものは何もなかった。彼女の心理が見える訳でもない。しかし、視線は永遠に瞳の奥へ沈んでいき、そのまま私は囚われの身になってしまった。解放されるまで、幾年も時が経ったと思われる程である。

 こうして自ら文章で描けば、自らの文才の欠如がひたすらに憎たらしく思えてくる。憂鬱になる。これだから小説風の文章は思い起こしたくないのだ。ましてや原稿用紙に書くとなれば、もっといやだ。次の日には原稿用紙はゴミ箱にあるだろう。

 そんな文学的感傷に浸っていると、彼女は「ふむ、おもしろいね」とまるで哲学者気取りのことを云った。何を以ておもしろいと感じたのか全く検討もつかなかったが、彼女は口角を上げてにやけ、続けて「ボクはね、心を読めるんだ」などと僭称せんしょうした。成程なるほど、心を読める人間とは初耳である。私は、凡そ二十年私の人生を視ていた身であるが、そんな奴は聞いたこたァない。読心術を心得ているなどと法螺ほら吹く者も、記憶にない。心を読めるなど、あってはならぬのだ。しかし、彼女はまことに私を見透かしているようであり、「成程信じていない様子だな。ただ嘘はくない。君は確か十九歳だろう?」と指摘して、鬼の首を取ったかのように踏反ふんぞり返る。たったの一年だけで何と大袈裟なことを云うのかね、と思いはしたが、所詮は夢だ。思えば、自身の夢に登場する人物なのだから、私の心を読めたとしても不思議はないのかもしれぬ。納得しかけると、まるで見計らったかのように「まあ、心を読めるとは正確では無い。正確には、——あゝ君は小説をよく蒐集しゅうしゅうしているから解るだろう。例えるなら地の文、心の声にあたる、少々宗教的な謂い方をすれば、君の心にる言霊が視えるのだ」と裏切ってきた。所謂心理学的な読心術などとは断絶した、民間信仰的な言霊という概念にすがった砂上の楼閣ろうかくであるという訳か、と腹に落とせば「そう、だから君の全てが解るというわけではない。君のボクに対する恋情だって、あんなに長々と言語化していなかったら、知る由もなかっただろうね」と彼女は私に顔をぐっと近づけて、まるで獲物を狩る目でこちらをにらんだ。一歩下がろうとしても、顔をそむけようとしても不可能であった。拘束されているに等しかったのだ。

「なァに、少しからかってみたくてだな」彼女は白い歯をにっと見せてきて、私の熱の集まる顔を見て勝ち誇った様子であった。夢であるはずなのに、何故か顔の熱を体感したのは、何故であろうか。

「何でだろうな? ——まあ良い、今日はこれでお別れのようだ。君は寝る頻度をもう少し増やしたほうが好い。また会おう。いつかは君の考えるところの現実に行きたいのだがね」

彼女がそう云うと、視界がぼやけているような気がした。遠くから、けたたましく鳴る時計の音が聞こえる。惚けた視界が戻ることなく自宅寝室の天井を映したように、惚けた思考も感情も、一度落ちたものから戻ることはなかった。

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