第17話:真夜中の『哀哀』

『スパイさんの晩ごはん。』

第二章:味噌ほど美味いものは無い。

第三話:真夜中の『哀哀』


あらすじ:モツに裏切られた。

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夜も更けて街が寝静まる頃。私はランプも点けないアパートの部屋で、ターニップの見上げていた空を眺めた。じっとりと憂い含んだ重たい風が吹く空の、今にも泣きだしそうな黒い雲は、月も星も見せてくれない。


私はため息を吐いてボロボロのトランクを開ける。この街で落ち着いたら処分しようとしていたトランクだが、まだ私の手元に残っていた。アパートの主であるラディッシュからいくつかの家具が借りられたが、隠しポケットに入れてあった品々を隠す適当な場所にならなかったのだ。


王宮で働くようになってからは公爵閣下に借りる事ができたし、十分な給金が貰えたので金の心配はなくなったが、今度は時間に不自由をするようになり新しい家具を買いに行く暇がない。


街で探せば夫人たちがヘソクリを隠すチェストくらいは見つかるはずなのだが。隠しポケットの中身を部屋に放置するよりはと、私は備え付けのクローゼットの奥に秘密もろともトランクを投げ込んでいた。


私はトランクの二重底を開けると、ぺたんと頼りなく潰れた袋を取り出した。中には親指の先ほどの玉がひとつ。摘まんで空に掲げると、それはただ頼りなく私の顔に陰を落とした。


旅の前には同じものが何十も入って膨らんでいた袋も、今では面影さえない。中と外を返しても粉さえ落ちてくるとはない。当然のように二重底の底に零れ落ちた形跡もない。正真正銘の最後の一粒。


絶望。


頼りないランプの光にかざしても、どんなに瞬きをして凝視しても、粒は1つより増えずにそのままで、私はそこに希望を見出す事はできなかった。


これが、最後の『味噌玉』。


この味噌玉のレシピはいくつかあるが、私が今摘まんでいるのは川で取れる小エビと滝底に生える昆布菜と少量の麦を粉にして、味噌に混ぜて丸めて乾燥させたものだ。そのまま口に含んでも美味いし、適量の湯に二、三個を入れて溶かせば具の無い簡単なスープになる。


万能の保存食だ。


風の通らない坑道で鉱夫達は味噌を舐めて穴を掘る。熱い炎を吐く炉を見極め村下は味噌を舐めて多々良を踏む。真っ赤に焼いた鉄を前に鍛冶師たちは味噌を舐めて槌を振る。


彼らが滂沱と流す汗には大量の塩が含まれている。なので、流れた塩を補わなければ、体調を崩し眩暈に倒れ、最悪は岩や炎に呑まれて死んでしまう。


塩を多く含む味噌を舐めればそれを防げる。味噌は彼らにとって無くてはならないものだ。まあ、梅干しや漬物を好む者もいるが選択肢は多い方が楽しめる。


水分を飛ばして携帯しやすくした味噌玉は彼らに重宝されていた。豆や麦などを発酵させた味噌は、塩味の他に甘味や酸味にうま味も交えて複雑な味が調和する。独特な風味やクセは店によって違うが、それも楽しみのひとつだ。


味噌は薬としても重宝される。大聖女オヨネ様の口伝を記した古文書によると、『腹中をくつろげ、血を活かし、百薬の毒を排出する。胃に入って消化を助け、元気を運び、血の巡りを良くする。痛みを鎮めて、よく食欲をひきだしてくれる』のだそうだ。


私も味噌には幼い頃から世話になっている。


朝は欠かさずに味噌を溶いた汁を吸い。体の調子が悪ければ麦粥に混ぜて飲む。腹が空けば舐めて偽り、酒の肴に焼いて食う。


バスケット王国に来るに当たり山を越えて海を渡る長い道中を考えていた私は、当然のように多くの味噌玉を用意した。疲れたといっては味噌玉を口に含み、筋肉痛から来る体のだるさを味噌玉を溶かした熱い汁を飲んで吹き飛ばした。


大聖女オヨネ様が300年も前に伝えた偉大な味噌はどこでもある。


そう、思っていた。


しかし、旅をしていると味噌が少しずつ消えていった。色々な地の味噌を試したかったのに、このバスケット王国に着いてからは、まったくと言っても良いほど見てない。私は珍しくなってきた味噌玉を念のためにトランクの二重底の下に隠した。不審に思われても困る。


その味噌玉も最後の1粒。


公爵閣下との面談を終えた私はその足で『千鳥足の牡牛亭』のオックスに報告に行った。計画の変更を余儀なくされたので判断を仰ぎに行ったあの時だ。その場にクエイルがいつものようにぬか漬けの世話をしに来ていたので、私は彼女に味噌を作る気は無いかと尋ねた。


匂いや味が苦手で流通していないとか、長寿のために薄味が流行しているとか言われていたが、味噌が無くなったこの王都でも材料となる豆も麦も塩もある。そして、閣下から前借りができたので、資金提供の準備もできた。


しかし、返事は意外な物だった。クエイルはすでに何度か味噌を作ろうとしたことがあった。だが、ぬか漬けを美味く作り、フォージ王国で毎年のように味噌を作ることに成功している彼女でも、すべて腐らせてしまったそうだ。そして、フォージ王国からの入荷は目途が立っていない。


味噌が無くなる日が来るなんて考えたことも無かった。


私の仕事は難しくない。新入りとして入ったばかりの私は同僚から判断の必要な仕事を任せられるほどの信頼を得られていないし、同僚たちは忙しすぎて細かな指示を出す暇も、教育をしている暇もない。多少の経験があってもまだまだ入りたての私に任せられる仕事など少ない。


しかし、同じ国でも部署が違うだけで色々なものが変わる。仕事のやり方は当然として、常識もマナーも変るのだ。国を跨げば違いは増える一方で、新しいやり方に新しい書式に手順。公爵閣下や同僚の性格も覚えねばならない。


色々な部署や取引先の名も覚え直しであるし、その中には絶対に間違えられない貴族の名前も含まれる。取引先相手との駆け引きも、窓から入る光の加減に風の通り方も。トイレへの距離を始めとした周りの環境だって変わるのだ。


鬱憤は溜まっていたが、最後の味噌玉をずっと我慢していた。これを食べてしまえば、次にいつ手に入るか解らない。もっと疲れた時が来るかもしれない。これが残っているからこそ、まだ余裕があると踏ん張れる。


だが、それも今日が限界だ。


モツ料理屋で味噌を期待してしまったという理由もあるが、実は仕事でちょっとしたミスをやらかした。


ヤーコンは十個入りの物を百セットの注文書を書いてくれと指示したつもりだったらしいが、私は十個入りの物を注文して、合計で百個だと勘違いしたのだ。


フォージ王国では多く買い過ぎないようにと、必ず買う物の数といっしょに合計数を言うように指導されていた。ついついその習慣で受けてしまい、百個しか買わなかったのだ。言い訳だが千個も必要ないという先入観もあった。


千個と百個。九百個の差は圧倒的に違い過ぎる。事実が発覚した頃には夜も更けていて、明日は迷惑をかけるだろう部署に謝罪をして回らなければならない。


胃が痛い。


連日の残業で仕事に慣れて慢心していたのかも知れない。思ったよりも疲れが溜まっていて頭が回っていなかったのかも知れない。注文書をヤーコンに見せて確認してくれていれば気付けたかもしれない。だが、言い訳ばかりをしても始まらない。


『マートン君が来てくれたおかげで助かっているよ。2人分も3人分も働いてくれるから、もうすぐ予定を取り戻せそうなくらいだ。やっぱり、私の目に狂いは無かったね。』


脳裏にこの言葉が繰り返される。落ち込む私を見かねた公爵閣下が満面の笑みを浮かべながら仰ってくれたお褒めの言葉だったが、私は素直に喜べなかった。


携わっている仕事が戦争に関わらないとしても、私が手を貸すことでこの国は1人、いや閣下の言葉を頼れば2、3人の人間の手を余らせる事ができる。私が活躍する事で手の空いた人間は戦争へ行くかもしれないし、女性であれば兵士を産むかも知れない。


私がこの国で頑張れば頑張るほど、自分の国の首を絞めることになる。


この国に守りたいものがあるわけでもない。いや、出会った人がみな敵と言っても良い。それはラディッシュやターニップも例外ではない。彼らも金を稼いで税を払っている。税は戦場にいる兵士の食料になり武器になり、私の国の人間を殺した褒賞に使われる。


もちろん、私が稼いだ金にかかる税も。


ほんの一部かもしれないが、私はいったい何をやっているのかと迷いだしたら切りがないし、こういう仕事だと諦めるしかないのだが、こうやって暗い部屋に独りでいると考えずにはいられない。


私はどれだけ凝視しても増えない味噌玉に、見切りをつけて指の先から落とした。


連日の残業で疲れていた。閣下も同僚たちも、もうしばらく経てば落ち着つくと言ってはいるが、明日も忙しい日になるのは間違いない。


俄かに出てきた月に影になった味噌玉は涙のように落ち、私の口の中で溶けて消えた。



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次回:打ち上げの『生贄』

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