第3話



 倒れて季節が一巡した頃に担当医が変わった。青木医師だ。

 初めて顔を合わせた時、つらいだろうによく頑張ってるよ、そう言ってくれた。その言葉は長く彩葉の記憶に残った。


 倒れてこの方、文字はまったく読めなかった。カレンダーの数字すら、意味をなさない記号のようだった。動けず、食事らしい食事ができない日々は、ただ太陽で照らされる昼と、消灯後の闇で区切られていく。そうか、もう1年経ったのか、そう思った。


 少しずつ、彩葉の世界が変わってきたのは、青木医師が担当になってからだった。


 まず点滴の内容が見直された。いつもと違う色のパックがゆらゆら揺れているのを、彩葉はぼんやりと眺めていた。

 気づくと茜色に照らされた世界に、彩葉は立っていた。自分の足で立っていることに、夢の世界とはいえ驚きがあった。ふんわりとした影が水の中を漂うように、彩葉の視界を横切りながら意味のある形を取ろうとする。重なりかけて少し濃く見えた影は、しゃぼん玉がパチンとはじけるように姿を消した。


 そんな夢を何度も何度も見た。

 現実の彩葉にとって、一日の概念は儚い。

 青木医師が彩葉を診るようになってから、毎朝看護師が

「今日は何月何日、何曜日よ」

と教えてくれるようになった。彩葉は長い闘病生活で、その情報を長く留めておくことができなくなっていた。でも、短い時間なら覚えていられる。


(今日は何月何日、何曜日……)

 呪文のように繰り返しながら、彩葉はうとうとと眠っていた。


 青木医師はいつも午後に様子を見に来た。

「やぁ、具合はどうだい?今日は何月何日、何曜日、外はよく晴れているよ」

 彩葉はゆっくりと瞬きをして、心の中で繰り返す。

(今日は何月何日、何曜日……外はよく晴れている……)


 本格的なリハビリも開始された。瞳以外、動かすことができない彩葉を抱え起こして、PT(理学療法士)の女性が、話し掛けながら枯れ木のように肉の落ちた四肢をゆっくりと動かしていく。電極のついた医療用のマッサージ機器を取り付けられることもあった。


 青木医師は誰よりも彩葉の可能性を諦めていなかった。その行動が、周囲の医療従事者をはじめ、諦めを隠せなくなっていた家族をも動かし始めた。




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