第6話

①オーバーフロー



 お兄ちゃんとキスをしてから数日が経った。

 あれからもわたしはお兄ちゃんの恋人として過ごしている。

 蕾華の胸でひとしきり泣いたことで吹っ切ることができたのか、広務を好きになれないことに対して辛いと思う強さは変わらないものの、そういう感情に囚われる頻度は下がっていた。

 あれから変わったことが一つあり、通学時に梓ちゃんを見かけることがなくなった。

 教室ではお兄ちゃんと普通に話しているらしいけれど、今日もわたしとお兄ちゃんの二人きりで登校だ。

 学校の中央玄関で組んでいた腕を放してお兄ちゃんと別れ、教室に向かった。

 教室には既に蕾華が来ていてわたしに気づくと片手を挙げた。わたしも同じように挨拶を返し、わたしの机のところで合流した。

 机の横に鞄を掛けて椅子に座ると、蕾華は隣の席から椅子を借りて来てわたしの横に腰掛けた。

 蕾華にはあのとき、お兄ちゃんのことは好きだけど恋人として好きになれなくて悩んでいるのだと話した。そのときされた、どうして辛い思いをしてまで付き合っているのかという当然のその問いには、上手く答えられなかった。

 蕾華がわたしの悩みを理解してくれたか反応としては微妙だったけれど、お兄ちゃんから酷い扱いを受けている訳ではないことは理解してくれた。

 それでもなお、蕾華の心配は尽きないようで、

「何かできることがあったら何でも言ってほしい」

 と言ってくれた。

 蕾華にどうにかできる問題ではないとは思うけれど、とても心強くはあった。

 それからわたしは、日常通りにお喋りと授業とを繰り返して放課後になり、蕾華とのお喋りを程々に切り上げて帰路に就いた。

 中央玄関で靴を履き替えて蕾華と別れる直前に、歩いているお兄ちゃんと梓ちゃんの後ろ姿が見えた。お兄ちゃんたちの向かった先は体育倉庫に続く方向で、どういう用事だろうかと思って思考を巡らせていると、

「もしかして」

「蕾華? 何か知ってるの?」

「えっと、うん。いやぁ、知らないけど」

 蕾華は少し考えたのちに、一度咳払いをしてから続けた。

「昨日、安見先輩と図書委員の係が一緒で、最近の美蓮の様子を聞かれたんだ」

「え、梓ちゃんが? それで、なんて答えたの?」

 わたしが泣いていたことを言ったのかと思って問うと、蕾華は首を左右に振った。

「もちろん特に変わったことは何もないって答えたよ。でも」

 蕾華は口をへの字にして、口籠った。

「どうしたの?」

「昨日の安見先輩、なんか怒ってる? 感じで少し怖くて。それに、あたしの嘘に気付いたっぽい感じだったから。その、ごめん」

「えぇ」

 わたしが少し困惑していると蕾華は焦ったように、

「美蓮のこととは限らないじゃん? た、例えばだけど。美蓮のお兄さんと何かあったのかも」

「何かって?」

「わ、わかんない」

 蕾華は再び首を振る。

「そっかぁ。でも、お兄ちゃんたち、なにやってるんだろう?」

「じゃあ、見に行こう?」

 蕾華は途端に元気になり、活き活きとわたしの手を引いてお兄ちゃんたちの向かった方へ歩き出した。

 わたしは、あんまり良い予感はしないなあと思いながらも、やっぱり気になるのでされるがままに足を動かした。

 向かった先は体育倉庫の裏で、周りからは死角になっている。

 人目のない場所にいったい何の用事なのだろうかと思い、角に身を隠してこっそり覗くと梓ちゃんたちは向かい合っていた。

 梓ちゃんは普段の好き好き光線などではなく、容疑者を詰問する刑事のような形相でお兄ちゃんに言い迫った。

 その様子はとても恐ろしい感じで、離れた場所から見ているだけでこちらの肌までピリ付くような気がしてくる。

 以前お兄ちゃんと付き合っていることについて言われたときにも、ああいった表情をしていたなと思い出し、横から見ているだけなのに、手に力が入って爪が手のひらに少し食い込んでしまう。

 恐る恐る、耳を澄ますとお兄ちゃんの声が耳に届き、ドキリとした。

 続いて梓ちゃんの言葉が聞こえてきて、こちらには発言にドキリとさせられた。

「美蓮ちゃんが傷ついていること、あなたなら分かっているでしょう?」

「それ、は」

 お兄ちゃんの反応からして、わたしが辛いと思っていることは蕾華だけではなく、やはりお兄ちゃんにもバレてしまっていたようだ。

 なんだか、とてもやるせない。

「もう、兄妹で恋人なんてやめなさいよ」

「なんでそんなこと、梓に言われないといけないんだよ」

「なんでって、そんなの広務たちのことが心配だから」

「余計な、お世話だ」

 無理やり絞り出したような声調が、お兄ちゃんの本心ではないことを物語っていた。

「どうしてそこまで美蓮ちゃんに拘るの? いくら二人きりだからって、分かってると思うけれど、異常よ?」

「親が居て当たり前の、幸せな家庭に暮らしてる奴には分からない」

 お兄ちゃんはずっと辛そうに喋っていて、これもまた本心ではないことは、すぐに分かった。

 けれど、その物言いは少しショックだった。

 何がどう、とは説明できないけれど、わたしにとっては、胸が痛む発言だ。

 そう思いながらも息を飲んで二人の会話に耳をそばだてた。

「分かんないわよ! そりゃ、親が死んじゃうなんて想像つかないし、広務にしか分からない苦労はあると思うわよ? でも! だったら尚更、なんであの子を傷つけてるのよ? 広務が家族を傷つけて平気な訳ない! でしょう?」

 梓ちゃんは涙声でそう言い、今にも泣きだしそうだった。

 その気持ちは分かる。

 お兄ちゃんに拒絶されるようなことを言われたら、例えお兄ちゃんの本心でなくとも、きっと泣いてしまうだろう。

 梓ちゃんの様子にお兄ちゃんはぎょっとして、申し訳なさそうに肩を落とし、バツの悪そうな表情を浮かべた。

 そしてゆっくりと、低い声で語り始めた。

「明さん……叔母さんはいつでも連絡取れるようにしてくれているし、もちろん梓、お前もずっと近くに居てくれている。それはとても嬉しいよ。美蓮が、男の俺には相談しにくいこととかを梓が気にかけてくれていることにも感謝してる。でも、俺にとってはやっぱり美蓮が一番なんだ。結婚すれば家族は増えるけど、血を分けた妹である美蓮は増えたりしないし、喪ったら戻ってくることはない。そう思うとさ、俺には美蓮しか居ないって思えて来て。なのに、さ。美蓮は何もしなくても大きくなってきてさ。この前まで一人で寝るのを怖がってたのに、もう高校生なんだ」

 お兄ちゃんは少し天を仰ぎ見ると右手で口元を抑え、独り言のように続きを呟いた。

 偶々風下だったのか、それとも運命の悪戯か、あるいはそうなるべくしてなったのか。

 お兄ちゃんのその言葉はわたしの耳に、しっかりと届いてしまった。

 おそらくお兄ちゃんが、一番わたしに聞かれたくないであろうことを。

「だから、繋ぎ留めたいと思った。そうしないと俺は独りになってしまう。恋人になったのは……。俺は。ずっと一緒に居るという約束が、いや。他の奴のところに行かないという保証が欲しいんだ。それが叶うなら、恋人じゃなくたって……」

 今度はお兄ちゃんが今にも泣きだしそうになり、梓ちゃんが申し訳なさそうな顔をした。

「私には、広務はあの子に縛られているように見える。あの子が……美蓮ちゃんが広務に悪影響を」

「そんなことない!」

 お兄ちゃんは即座に否定し、梓ちゃんが何かを言おうとした。

 わたしはもう、耐え切れなくなって走り出した。

 わたしに離れて欲しくないというのがお兄ちゃんの本心なのだとすると、じゃあどうしてそう言わずに告白なんてしたのかと思い、そしてその答えが思い浮かんだわたしには、これ以上なにも受け入れられなかった。

――お兄ちゃんは、わたしを頼りにしていない。だから本心を言えないのだ。

 それだけで一杯一杯だった。

 なのに、わたしがお兄ちゃんを縛っているなんていう、的を得た梓ちゃんの発言で、キャパが溢れた。

 これ以上は、何かが壊れそうでこの場に居られず、辛い現実からまたしても逃げてしまった。

 現実逃避の才がないことも、思い出す余裕はなかった。

 走り出す直前に一瞬見えた蕾華の顔は何とも言えない表情をしていたけれど、わたしを制止することはしなかった。


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