②楔

 コンコンという優しめのノックの音で気が付いて身体を起こすと、自分の部屋のベッドに制服のまま寝てしまっていた。

 家に着いてから現実逃避をしている間に寝てしまったのだと思いだすと同時に扉の開く音が聞こえて振り向いた。

「あ、お兄ちゃん」

「美蓮。御飯にしよう」

「え、もうそんな時間?」

「七時過ぎだけど」

 晩御飯の準備をお兄ちゃんに押し付けてしまったと知り、少し血の気が引いた。

「もしかして体調でも悪いのか?」

「ううん。寝ちゃってただけ。ごめんね」

「気にするな」

 優しくそう言ってくれてひとまず安堵し、そもそもどうして現実逃避をしていたのかをようやく思い出して胸が痛んだ。

「着替えたらすぐ行くね」

「ああ。ゆっくりでいいよ」

 そう言うとお兄ちゃんは部屋を出て、扉を閉めた。

 わたしは急いで制服から部屋着に着替えて一階に降りた。

 晩御飯は既に並べてあり、焼いた鶏むね肉、シーチキンとレタスのサラダ、味噌汁だった。

 鶏むね肉はパリッとした皮がとても美味しく、みそ汁の味加減も慣れ親しんだもので、飲んでいて心が温まる。

 準備は任せきりになってしまったので食後の片づけはわたしが行った。終わってからお兄ちゃんの居るリビングに向かうと、

「おつかれ」

 わたしはお兄ちゃんの斜め前に座った。

 いつもと違う位置に座るわたしに「どうかしたか?」という視線を送ってきた。

 本当はなんでもないと言いたいし、なんなら最初から隣に座ってお兄ちゃんの求める美蓮でありたい。

 でも。

 弱いわたしには到底、これ以上広務の彼女は務まらないだろうし、このままだといつかボロが出て、お互いに再起不能になるかもしれない。そのときになってから綻びの具合を知る方が、きっとお兄ちゃんを傷つけてしまう。

 それに。

 わたしが辛い思いを懐いていることは既に、お兄ちゃんに知られてしまっているのだ。

「お兄ちゃんは、お父さんとお母さんが生きていたらって思うこと、ある?」

 それでもストレートに伝えられないのが、わたしの悪いところだ。

 お兄ちゃんは真剣な顔つきになって、少し目を伏せて答えてくれた。

「えっと……。毎日のように、思うよ。二人が生きていれば、ほんと、色々と違っていただろうし」

「だったら。わたしが居なかったらって思うことは?」

「やめてくれ!」

 お兄ちゃんが間髪入れずに大声を出した。驚いたわたしの様子を見てお兄ちゃんはハッとし、泣き出しそうな顔を両手で覆って俯いた。

「急に大声出してごめん。でもやめてくれ。美蓮が居なかったらなんて、考えるのも嫌だ。なんで、そんなこと?」

「ご、ごめんね? そういうつもりじゃなかったの。ただ。わたしが居なかったらお兄ちゃんは親戚の家に行けただろうし、それに」

「それに?」

「それに。わたしはお父さんの言ったように、お兄ちゃんを支えられていないから」

「父さんが言ったって、二人で支え合って生きろってやつか?」

「うん」

「だったら、十分できてるだろ? 俺は、美蓮が居るから頑張ろうって思えたことの方が多いし、なにより、美蓮が傍に居てくれることが、俺の支えだよ。この前、美蓮が友達の家に泊まりに行ったときとか、すごくそう思った」

 わたしが蕾華の家に泊まりに行ったのは、結局お兄ちゃんから逃げたからだ。

 結果的にそのせいでお兄ちゃんを傷つけてしまったのではないだろうかと思うと、わたしがいかに弱いかということを再認識させられる。

 それに、わたしは一緒にいるだけで何もできていないのに、支えになんてなっていない。

 俯いて、思わず膝の上で拳を作って握り込んでしまう。

 解かなければ爪が食い込んで痛いのに、それでも力が籠ってしまう。

「やっぱり俺たち、別れようか」

 ぽつりと言われ顔を上げると、お兄ちゃんは自嘲のような笑みを浮かべた。

「俺が美蓮に告白しようと決めたのは」

「わたしを繋ぎとめるため、でしょ?」

「え?」

「今日、梓ちゃんと話してたの立ち聞きしちゃって、お兄ちゃんそのとき言ってたでしょ? わたしを繋ぎ留めておきたいって。あれ、本音だったんだね」

「聞かれてたのか。もちろん本音だよ。俺は美蓮に、手の届かないところに行ってほしくない」

 そう言ってから首を左右に振り、

「いや、そうじゃなくて。俺は、な。他の奴に美蓮を取られたくない。独占したい。父さんたちが亡くなってからずっと、美蓮が兄離れするんじゃないかってすごく怖かった。俺は美蓮が一番だし、俺には美蓮しか居ないって思うし」

 お兄ちゃんは両手の指を絡めて足の上に置き、俯いて続けた。

「ある日、俺が美蓮に恋人になることを求めれば美蓮は俺を拒めずに、ずっと傍にいてくれるって考えたんだ。それから告白することばかり考えるようになって、それであの日、告白した」

 お兄ちゃんからの告白はとても衝撃的で、はっきりと覚えている。

 晩御飯の後に隣同士で座ってテレビを見ていたときだった。

「なあ美蓮」

「な、なぁに?」

「俺と恋人になってくれ」

「え、へあっ!?」

 というくらい、お兄ちゃんはさらりと告白していたけれど、その裏にそんな思いがあったとは。

 そういえば、そのときはまだお兄ちゃんに話しかけるのがなんとなく苦手だったけれど、いつの間にか普通に話しかけられるようになっている。

 いやいや。

 どうでもいいことを考えて現実逃避をするのはやめよう。

 お兄ちゃんは本音を話してくれた。

 なら、今度はわたしが本当のことを話す番だ。

「お兄ちゃん、わたしね」

 喋り始めるとお兄ちゃんは顔を上げてわたしの顔を見るので、緊張してきてしまう。

 ずっと隠していたことを自分から言おうと思うと、隠していた後ろめたさと自分の内面をさらけ出すことの恐怖に襲われる。

 だけどさっきのお兄ちゃんだって同じだったはずだ。

 そう思って勇気を振り絞った。

「わたしはお兄ちゃんのことが大好きだよ。それは本当。だけど、七搦広務のことを男の人としては好きになれない。でもわたしは、お兄ちゃんを支えなきゃいけないって、思って、好きにならなきゃって思ってた。だけど」

「うん」

「だけどそれが、わたしにはすごく、辛かった」

 言ってしまった。

 お兄ちゃんの言動がわたしにとって辛いのだと、ついに言ってしまった。

 お兄ちゃんを傷つけてしまったと思うと、今までのどんな辛さとも比べられないほどに辛い。

 お兄ちゃんはというと、苦虫を噛みつぶしたような表情をしていて、わたし以上に辛そうだった。

「ごめん美蓮。美蓮が辛い思いをしていること、美蓮が告白の返事をくれたときからずっと気付いてた。だけど俺は美蓮が離れていくんじゃないかって思うと辛くて、俺は美蓮と付き合えて幸せを感じてた。でも。本当は最初から分かってたんだ。だけど分からないふりをしてた」

「分からないふりって、何を」

 恐る恐る尋ねると、お兄ちゃんはゆっくりと、歪な笑顔を作った。

「俺が辛いのは、美蓮を傷つけてもいい免罪符じゃないってことを」

 そう言うと天井を見上げ、深く深呼吸をしてから再びわたしの方に視線を落とした。

「俺たちは別れよう」

「……うん」

 お兄ちゃんはわたしをこれ以上傷つけないために、自分が傷つく道を行こうとしている。

 もしお兄ちゃんが更に付き合うことをゴリ押しすれば、わたしはそれを拒めないし、そのことはお兄ちゃんもわかっているだろう。

 だけど、お兄ちゃんは、別れようと言った。

 それはきっと優しさなのだろう。

 わたしに対する優しさがなければ、お兄ちゃんがわたしの心情を言い当てられる訳がない。わたしを独占したがっているのに束縛はしないのも、優しさがあるからだ。

 だからきっと、お兄ちゃんは自分が傷つくことよりもわたしが傷つくことの方が嫌なのだ。

 それはわたしだって同じはずだった。

 お兄ちゃんが傷つくのは、わたしにとってとても辛いのだ。

 わたしが辛さを我慢できるほど強ければ、こんなことにはならなかった。

 でももう遅い。

 わたしは辛いと言ってしまい、お兄ちゃんは別れようと言った。

 覆水盆に返らず。

 これからわたしたちの関係がどうなるかは分からないけれど、もう二度と恋人になることはないだろうし、おそらく前みたいに、いや、前以上に気まずくなってしまうのだろう。

 それは本当に嫌だなぁ。

 わたしたち兄妹は、まるで呪われているみたいだ。

 そんな悲観的なことを考えて。

 ああ、また被害者意識が働いている、と。

 心中で自嘲した。

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