第5話

①現実と逃避



 急な誘いだったにも関わらずお兄ちゃんは快諾してくれ、午後の家事が終わってからショッピングモールの方へデートに行く運びになった。

 やっぱり、わたしを優先してくれるのは嬉しく思う。

 それと同時に、初めて人をデートに誘ったこととお兄ちゃんとこれからデートだということで、午前中の間ずっと緊張してしまった。せめてもうちょっと後に誘えばよかったと少し後悔しながら、わたしの担当の家事に専念した。

 家事が終わってデートに行けるようになったのは二時過ぎだった。

 やはりデートは待ち合わせからと思い、お兄ちゃんが先に出てわたしが少し遅れてから家を出ることになった。

 別に待ち合わせからなんてルールはないけれど、わたしたちのような関係ではそういう形を大事にしないといけないと思う。

 分からないけれど、そう思う。

 家に一人となってから五分も経たないうちに、シーンと音が鳴りだした。静かな部屋にひとりでいると大抵聞こえてくるこの音の正体は、耳の機能による耳鳴りらしい。けれど昔のわたしはこの音を「無音の音」なんていう風に思っていた。無音なのに音なのは矛盾しているけれど、その矛盾にさえ気付かずに、ただただ無音の音に怯えていた日々もある。

 この音が聞こえるということは、わたしはひとりで居て、必然的に孤独を感じていたからだ。もしかしたらお父さんやお母さんと同じように、お兄ちゃんも居なくなるかもしれない。

 そんな想像が湧いてきては、気持ちの悪いぬるい空気に包まれるような感覚に襲われていた。

 でも。

 それは、昔だけの話ではない。

 今でもひとりで居ると時々、そんなふうに孤独を感じることがある。

 そういうときは、お兄ちゃんは優しいからわたしを置いていなくなる訳なんてないと、唇を噛んでただ信じ込み続けることしか、わたしにできることはない。

 ちょっと早い気もするけれどもういいだろう。

 これ以上家でじっとしていたら孤独感に押しつぶされそうだ。

 そう思ってわたしも家を出た。

 待ち合わせ場所はモールの端向かいにある公園で、家から歩いて十五分くらいで到着した。

 途中で見かけた街路樹の夾竹桃は、まだ殆ど膨らんでもいない蕾が幾つか見つけられた。

 わたしがお兄ちゃんを見つけると、同時にお兄ちゃんもわたしを見つけたようで、笑顔を浮かべて片手を挙げながら寄ってくる。

「美蓮」

 お兄ちゃんは薄い青色のティーシャツにブラウンのパンツと黒の皮靴を纏って、黒のショルダーバッグを下げていた。前のデートよりラフっぽくて、かっこいいというよりは身近感が強いスタイルだった。

 わたしはというと、グレーのティーシャツの上に紺のジャンパースカートを纏って、黒のハイソックスとローファを履いている。バッグは赤色の小さなリュックだ。

 さすがに昨日の今日で再び蕾華の家に遊びに行くのは躊躇われて、メイクは全くしていない。

 というか、できていない。

 強いて言うならピンクのリップを少し塗ったくらいだ。

「お待たせ」

 そんなつもりはないのだけれど、適当に済ませたと思われたらどうしよう。

 少し不安に思っていると、

「唇、かわいいな。あ、もちろん唇以外も」

「ん、ふふっ」

 慌てて付け加えるお兄ちゃんに、笑いが込み上げてきてしまった。

「美蓮?」

「うんん。ありがと」

 わたしニコリと笑ってみせた。

 わたしはお兄ちゃんから本当に好かれているんだなと思い、胸がチクリと痛んだ。

 だけど、きっと大丈夫だ。

 わたしが七搦広務のことを好きになれば、全てが丸く収まるのだから。

 きっと、そのはずだ。

 お兄ちゃんの差し出した手を取って、指を絡めて握った。お兄ちゃんの手のひらはわたしの手のひらよりも大きくて温かく、そして優しいものだった。

 ああ、優しさが痛いなぁ。

 外気温は少し暖かいくらいだったけれど、モールの中に入れば涼しいくらいに空調が利いていた。人は混雑しているという程ではないけれど、日曜日ということもあって結構居る。

 親子や夫婦、主婦仲間や学生同士、中には恋人同士のように親密な二人組が、各々の目的の店に向けて歩いていた。

「とりあえず、一番上まで行って、回りながら気になるところがあったら寄ろう」

「うん」

 頷いて、危ないので繋いでいる手を放してからエスカレーターに乗って、店のある一番上のフロアである四階までやってきた。

 エスカレーターの前を過ぎてから手を繋ぎ直そうとお兄ちゃんの隣に行ったとき、柱に貼ってあった広告がふと、目に止まった。

【来月の第三土曜日・日曜日】 

【父の日セール】

 この間母の日が終わったばかりなのに、気の早いことだ。

 毎年、気が早いと思ってしまう。

 それはわたしが、父という言葉からお父さんの最期の言葉を思い出してしまうからだ。そして、わたしは言うことをちゃんと聞けているのか、と考えてしまうからだ。

 今のわたしたちを見たらお父さんは何と言うだろう。

 そんなことが思い浮かんで、背筋がゾクリとしてしまう。

――兄妹支え合って生きるんだぞ。

 力なく発せられた言葉が、今でもわたしの中で反響していて、大きくなったり小さくなったりしている。

 決して消えてなくなりはしてくれない。

「美蓮、大丈夫か?」

 肩を軽く揺すられて我に返ると、お兄ちゃんが心配そうにわたしを見つめてた。

「もしかして、体調でも悪いのか?」

「え、あ。大丈夫。ちょっとぼぉっとしちゃっただけだから」

 わたしは、にっこりと笑ってみせたが、

「本当に大丈夫なのか?」

 さらに追及は続く。

 仕方なく、お兄ちゃんの手を取って前へ進んで、

「なんでもないよ」

 誤魔化した。

「行こう?」

「あ、ああ。辛いなら言えよ? デートはいつでもできるんだから」

「ありがと。でも平気だから」

 この苦しみをお兄ちゃんに言える訳がない。

 もしもわたしの苦しみを言おうものならきっと、お兄ちゃんは自分が悪いと傷ついてしまうだろうから。

 だから。

 この苦しみは、わたしだけの物なのだ。

 決して、お兄ちゃんに背負わせたりはしない。

 少しの間、笑顔を作れる自信がなくなって前だけを向いて歩いていた。

 お兄ちゃんにわたしの顔が見えないように。

 手のひらから、お兄ちゃんの優しさを感じながら。

 それからわたしたちは服屋、雑貨屋、百円ショップ、楽器屋、本屋、家電屋、家具屋、CDショップと見て回った。モール自体、たまにしか来ないので、どの店も新鮮に感じて楽しく、自然と笑顔が浮かんできた。

 一人で来ていてもこんなに楽しめなかっただろう。

 いや。

 そもそも一人ならモールに来ようとさえ思わない。わたしにとっては、見て回るという体験を誰かと共有することが、楽しくて嬉しいことなのだ。

 中でも特に、お兄ちゃんと出かけるのは一段と楽しくて嬉しい。

 そう思っているとお兄ちゃんは立ち止まってわたしの方を振り向いた。

「これで半分くらい回ったか? 見て回るだけでも結構楽しいな」

「うん。でも少し、歩き疲れちゃった」

「じゃあ、甘いものでも食べよう」

 お兄ちゃんは言いながら指をさした先にはクレープ屋があった。見ると途端に甘い匂いがしてきて、すぐさまクレープの口になった。

「うん。最高だね」

 列に並んで待つと、数分も経たずにわたしたちの順番がやってきた。

 わたしはチョコバナナイチゴクリームにし、お兄ちゃんはチョコクッキー生クリームを注文した。

 会計になって財布を出そうとしたとき、お兄ちゃんに手で止められた。

「俺が出すからいいよ」

「でも。この前のデートでも全部出してくれたし、今日はわたしから誘ったのに」

「いいから。俺が奢りたいんだよ」

 お兄ちゃんはいつもそうやって、わたしを甘やかせてくれる。

 確かに生活費を管理しているのはお兄ちゃんだし、わたしはその管理者のお兄ちゃんから月のお小遣いをもらっている状態だ。

 どうしても、お兄ちゃんが主であり、わたしが従であるという意識が根底に出来てしまっている。

 当然それも、お兄ちゃんの優しさである。

 だけどその優しさは嬉しい反面、寂しくもある。

 けれども、そんなことお兄ちゃんに言えないし、奢りたいとまで言われて更に引き下がるほどの理屈なんて、わたしには捏ねられない。

 だからというか、せめてというか。

 わたしは飛び切りの笑顔でお礼を告げた。

「ありがと」

 店員さんからクレープを渡されると、甘い香りがいっそう強くなり、思わず口元が緩んでしまう。

 広い通路の真ん中では座って食べられるように四人掛けのテーブルと椅子が設置されており、その内一つが四席とも空いていた。知らない人との相席は正直なところ避けたい性分なので、丁度良い。

 わたしたちは向かい合って席に着き、クレープを一口齧った。生地のしっとりとしたやわらかい食感の中で、イチゴクリームの甘さとチョコバナナの甘さが絡み合って口の中に広がる。

「おいしい」

「そっか、よかった」

 お兄ちゃんはわたしの顔を見て嬉しそうに微笑み、自分のクレープを一口齧った。

「うまっ。美蓮も食べてみろよ。食感いいぞ?」

 口元まで差し出されたクレープを一口食べると、小さなチョコクッキーがサクサクとしていて、確かに食感がよかった。

「おいしい。じゃあ、わたしのも一口あげる」

「おお、ありがと」

 お兄ちゃんの口元まで持っていき、お兄ちゃんは齧った。

「美蓮の方も、甘くておいしいな」

 一人よりも二人で食べるほうが、他の味も食べられてお得だなぁ。

 そう思うと同時に、周りからイチャついているように見られている気がして、ほんの少し恥ずかしかった。

 兄妹として「あーん」をするのはわたしにとって普通だ。

 でも、周りからはきっと恋人だと思われているわけで、恋人とイチャついていると見られるのは恥ずかしい。

 でも、そもそもお兄ちゃんを恋人として好きになるために、なにか見えるかもしれないと思ってデートに誘ったのだ。なら、飛び切り恥ずかしいくらいにイチャついてみた方がいいのかもしれない。

 そう。

 例えば、キス、とか。

 考えると頬が熱くなった。

 わたしたちはまだキスをしていないし、そういう雰囲気にすらなってもいないのだ。

 だからキスをするとどういう気持ちになるのかは知らない。けれど、読んだことのある少女マンガのヒロインたちは、恋人とのキスでとても浮足立っていた。

 ただ、想像するだけでも恥ずかしいのに、人前でなんてもっと恥ずかしい。

 だけど、やっぱりキスは一番恋人っぽいことであり、わたしがまだしていないことといえば、そのくらいなのだ。

 でもそれには問題が一つあり、十中八九わたしからキスを求めなければいけないということだ。もちろんお兄ちゃんから求めてくれればそれでいいけれど、わたしにそういう雰囲気を演出できる自信はない。

 ううむ。

 頭を一度リフレッシュさせようとクレープを一口食み、舌の上で広がる甘味を味わった。

 さらに考えてみた結果、登校時の梓ちゃんのようにお兄ちゃんにくっついて歩いてみることにして、キスはデートの最後に求めてみることにした。

 尤も、キスをしなくたって恋人としての好きは見つけられるのかもしれないけれど。

 ふとそう思って、それはそうだと気が付いた。

 好きだからキスをするのではなく、好きを見つけるためにキスをするなんて。

 そんなのはおかしな話だ。

 だけど。

 わたしが七搦広務を好きにならないとお兄ちゃんを支えることができないのだ。だってお兄ちゃんは、恋人としてのわたしを望んでいるのだから。

 キスさえしてしまえば、そして少女漫画のヒロインたちのように七搦広務という存在に多少でもときめくことができれば、それを起点に好きなればいい。

 クレープを食べ終わり、このあと引き続きまだ行っていない所へ行こうと決まった。

 指を絡めて繋ぎながら腕に抱き着くようにくっつくと、羞恥心に襲われるのと同時に懐かしさがあった。

 小学校の中学年くらいまではお兄ちゃんとこれくらいの距離感でべったりだったのだ。その頃の記憶が湧いてきて、何故だか分からないけれど、この先なんだかんだで上手く行ってしまえるんじゃないかという気持ちになってきた。

 それからモールのもう半分を回っているうちに夕方になり、モール内のファミレスで夕御飯を食べることになった。ドリンクバーとグラタン、ミートスパゲッティー、デザートにパフェを注文して二人で分けっこした。

 モールから大通りに出て、家の方向に足を向けたお兄ちゃんの腕を引いた。

「どうした?」

「ちょっとだけ、人の居ないところに行こう?」

 わたしはお兄ちゃんにキスをしてもらわないといけないのだ。だけど車や歩道の往来が激しいこの通りでは人目があって、やっぱり少し抵抗がある。

「え? いいけど?」

 少し暗い一車線の脇道に入ると、お兄ちゃんは振り返り、ふふっと笑った。

「今になって人酔いでもしたか?」

「そうじゃないけど、ね」

 わたしは俯いてしまい、お兄ちゃんの足が見えて顔を上げ、目が合うと再び俯いてしまう。そのくり返しを数回行ってから、意を決して告げた。

「わたしと、キス、して」

 お兄ちゃんは驚いたように、きょとんとしてしまった。

 わたしの方からこんなこと言い出すなんてわたしらしくないと、自分でもそう思う。

「ほ、ほら。デートの終わりはキスをしないと」

 わたしの補足を聞いてお兄ちゃんは、得心がいったように頷いた。

「なるほど」

「い、嫌?」

「そんなわけない。嬉しいよ、美蓮」

 少し照れくさそうにほほ笑んだお兄ちゃんは、半歩わたしの方に寄り、ほぼ密着するくらいの距離になった。わたしが顎を上げると、お兄ちゃんは少し屈んでゆっくりと顔を近づけてくる。

 お兄ちゃんの顔を間近で見ると、整っていると感じさせられた。まつ毛が長いなぁと思っていると目が合い、とっさに目を閉じてしまう。

 それから一秒も経たずに唇に柔らかいものが当たり、数秒間触れ続けた。

 その数秒は、一瞬のようにも、永遠のようも感じた。

 その時間の中で一番強く感じたのは、苦い、だった。

 嫌悪感があった訳ではないし、お兄ちゃんの唇が苦かったわけではない。

 この苦さはきっと、わたしの中から生まれているものなのだ。

 結論として。

 わたしはお兄ちゃんのキスに、ほんの少しもときめかなかった。

 お兄ちゃんを見やると、照れくささと嬉しさが混ざったような表情をしていた。

 わたしは罪悪感で胸がチクリと痛み、その顔を見ていられずに俯いた。

「デートはやっぱり、さよならまで、だよね?」

「そう、なのか? いやでも、もう暗いし一緒に」

「心配してくれてありがと。でも。わたしもう、高校生だよ? だから、先に帰ってて」

「そ。そう、だな。高校生だもんな」

 お兄ちゃんは少し言葉に詰まりながら言い、わたしは飛びきりの笑顔を作って顔を上げた。

「大丈夫だから。大好きだよ、お兄ちゃん」

 心の底からの言葉を告げるとお兄ちゃんも微笑み、「気を付けてな」と残して大通りへと歩いて行った。

 少ししてお兄ちゃんが見えなくなってからようやく、大通りの車の走行音や、歩行者たちの煩雑とした喋り声が聞こえてきた。

 実際には、さっきからずっと聞こえてはいたはずだけど、お兄ちゃんのことで頭がいっぱいだったわたしには、ようやく認識できる分のゆとりが生まれただけだ。

 遅くなりすぎてお兄ちゃんに心配を掛けたくない。

 だけどまだ、お兄ちゃんと顔を合わせられない。

 今の状態で家に帰ってお兄ちゃんの顔を見れば、わたしの心がぐちゃぐちゃになってしまいそうな気がする。

 ああ、泣きそうだ。

 眼の奥が熱くなって、瞼に涙が溜まってきた。

 止めようと思えば思う程、それとは裏腹に温かい液体が頬を伝い、その痕が風に当てられて冷たくなる。

 そしてその上を、また温かい液体が上書きし、また風に吹きつけられる。

 交差点の信号の色が四回変わる頃、見知った人物が目の前に現れた。

「美蓮! どう、したの?」


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