第4話

右上と下




 ゆっくりと意識が覚醒してきて目を開けると、わたしの顔を覗き込んでいた蕾華がニッ、と笑った。

「おはよ、美蓮」

「ん、おはぁよぉぉ。んふぁああ」

 欠伸を噛み殺してから挨拶をしたつもりがどうも甘噛みだったらしく、元気に漏れ出してしまった。蕾華がニシシと笑いだしたので、わたしは少し膨れてみせた。

「むう。今何時?」

「九時前だよ」

「もうそんな時間?」

 窓が開けられていたため少し眩しかったけれど、何度も瞬きをしているうちにだんだんと慣れてきた。腕を上げて伸びをすると、もう一度欠伸が出てきてしまった。

「ふぁぁ、ああ」

「そういえば映画、最後まで見てた? 案の定、あたしは寝落ちしちゃった」

 蕾華はテーブルの上に並べてある三つのブルーレイの箱を指さして、笑いながらそう言った。

「うん。一応、最後まで見たよ」

「どうだった? 不朽の名作っていうのは知ってるけど、内容はあんまり知らないんだ、これ」

「わたしもそうだったけど、んーっと」

 めちゃくちゃ泣いた、なんて言うと、今後蕾華がこの映画を見た後に疑問に思うかもしれない。

 別に感じ方なんて人それぞれで、誰かが決めていいものではないけれど、わたしは誤魔化すことにした。

「難しいなって思った」

「あー、やっぱり? 昔の作品って、どうしてもそういうところあるよね」

「うん」

 笑いながら返事をして、立ち上がってもう一度伸びをしたらさらに欠伸が出てきそうになったけれど、今度はさすがに堪えてみせた。

 さて、お兄ちゃんの所に帰る準備をしなくては。そしてその前に、まず蕾華に言わないと。そう考えていると、

「ねえ、美蓮。今日はなにしよっか?」

「あのね、蕾華」

 楽しみ! という感じに言う蕾華に申し訳なく思いながらも、わたしは切り出した。

「わたし、家に帰ろうと思うんだ」

「え?」

 蕾華は、何かしてしまっただろうかと不安そうな表情を浮かべた。それは、わたしとお兄ちゃんが付き合っていることを知った直後の表情に少し似ていて、わたしは慌てて弁明した。

「あ、もちろん蕾華とお泊りはすごく楽しかったし、不満なんてないよ。それとは別にね、お兄ちゃんに会いたくなっちゃって」

 素直にそう言うと蕾華はニヤァと少し厭らしい笑顔を浮かべ、ふー、と上手くない口笛を吹いた。

「ラブラブだねぇ」

「そ、そういうのじゃない!」

「え~?」

 じっーと見つめられ、わたしは疚しいことなんてないのについ目を逸らしてしまった。

 でも、本当に「そういうの」ではないのだ。

 わたしはお兄ちゃんと向き合わないといけない。だってわたしがお兄ちゃんから逃げたらきっと、お兄ちゃんはとても辛いだろうから。

 でもそんなことは説明のしようがないので、どうとも取れない返事をするしかなかった。

「い、いいでしょ!」

 ふい、とそっぽを向いてみせ、鞄の所まで行きパジャマのボタンに手を掛けると、

「ねえ美蓮」

「んー?」

 ボタンを外していきながら顔だけ蕾華の方に向けると、不安そうでありながらも、口元だけ無理に笑おうとしているような表情を浮かべていた。

「またいつでも、泊まりに来ていいんだからね?」

 蕾華の言い方はとても優しさに満ちたものだった。

 おそらく、わたしの逃げたいという気持ちが僅かに漏れ出してしまっていて、蕾華はそれを受信してしまったのだろう。

「ありがと」

 わたしは蕾華に心配かけまいと、にっこりと笑ってみせてお礼を言った。

 お兄ちゃんに連絡してから家に帰り、玄関に入るとお兄ちゃんが出迎えてくれた。

「お帰り、美蓮」

「ただいま、お兄ちゃん」

 顔を見ると目の下にうっすらと隈があり、表情に少しだけ覇気のないような感じがした。

「お兄ちゃん、なんか元気ない?」

「え、ああ。なんでもないよ。昨日少し眠れなかっただけだから」

「熱とかないよね?」

「ああ。平気だよ。美蓮こそ、ラインでは聞かなかったけど日曜日まで泊まる予定だったのに、何かあったのか?」

「ううん。楽しかったよ」

「そっか。まあ、楽しかったのならよかった。それが一番だ」

「うん。荷物、片付けてくるね」

 そう言って廊下に上がると、お兄ちゃんは笑いながらリビングの方に入って行った。

 その背中を見て、わたしはお兄ちゃんに謝らなければならないことがあるのだと思い出したが、切り出すタイミングを逃してしまった。

 荷物を片付けたら謝りに行こう。

 片付けが終わってリビングに向かうと、お兄ちゃんはソファでスマホのパズルゲームをしていた。いつもの癖で隣に座りかけたがソファに腰掛けて横から謝るといのも変だと思い、お兄ちゃんの斜め前の床に膝を着いた。

 視界の端でわたしの動きを把握していたのか、お兄ちゃんはわたしの方を向いてぎょっとしていた。

 わたしはテーブル越しのお兄ちゃんの顔をまっすぐ見つめ、

「お兄ちゃん。ちょっと、いい?」

「あ、ああ。え、どうしたんだ? いや、いいんだけど」

 言いながらスマホをスリープにし、テーブルの上に置いて身体ごとわたしに向いてくれた。

「その、ね」

 中学の時のお弁当の話からするべきかとも考えたけれど、言い訳がましいと思われたくないので、まず最初に謝るべきだと思い、頭を下げようとした直前、

「私が帰ったぞぉ!」

 玄関の開く音と共に、元気のいい聞き馴染みのある大きな声が家中に響き渡った。

 わたしが驚いて固まっていると、お兄ちゃんが「そうだった」と口を開いた。

「帰ってくるって連絡があったんだった」

「そうなの?」

「言うのを忘れてた。悪いけど、話は後でな」

 お兄ちゃんはそう言うとリビングを出て玄関に向かい、わたしも立ち上がって後に続いた。

 玄関では、細身の長身に赤い無地のティーシャツと黒のパンツを纏った女性が、黒くて重厚なキャリーバッグを片手で引いていた。

 わたしたちの叔母である明ちゃんだ。

「よっ、二人とも元気ぃ?」

 そう言うと明ちゃんは空いている方の手を軽く上げた。

 張りのある若々しい顔からはとても三十代後半には見えないなと感心していると、

「明さん、おかえりなさい」

 お兄ちゃんがそう言って、慌ててわたしも挨拶をした。

「おかえり、明ちゃん」

 明ちゃんは肩甲骨を隠すくらいの長さがある赤茶色の髪を揺らしながら、足だけで真っ黒な飾りのない靴を脱いだ。玄関に上がり、お兄ちゃんとわたしの顔を交互に見たのちに、ニィっと笑った。

「うんうん。ただいま」

 明ちゃんはカメラマンをやっていて、全国に友達兼お客様が居るらしい。

 家でじっとしているのは性分ではないことと仕事の依頼を受けるため、いつも日本中を飛び回っている。

「明さん、今度はどのくらい居るんですか?」

「んー、明日の早朝まで。リビングで寝るから布団はいいよん。というか今からリビング使っていい? 急ぎじゃないけど作業あるからさ」

 明ちゃんはキャリーバッグを指で示してそう言い、お兄ちゃんは頷いた。

「どうぞ。俺は部屋で勉強でもしてるので、好きに使ってください」

「お、真面目だねぇ、高校生。私なんて高校の頃は男あさ……んん、友達と遊んでばっかりだったのに」

「そうなんですか?」

 お兄ちゃんは穏やかな表情を浮かべて笑った。

 明ちゃんはよく「困ったことがあったら、don't(どんと)来い」と言うけれど、いつでも連絡が取れるようにしてくれているし、本当に困ったらすぐに駆け付けてくれる。そんな、無条件に頼ることを許してくれる大人なので、わたしもお兄ちゃんもとても信頼している。

 信用していて、頼りにしている。

 そういう意味では少し羨ましくもある。

 わたしだって、お兄ちゃんから頼りにされたい。

 お兄ちゃんを支えたいのだ。

 そんな風に考えるのはいけないと分かってはいる。だけどどうしても思ってしまうのだ。

 もしもわたしが、お兄ちゃんにとっての明ちゃんのような存在になれたら、と。

「美蓮もいいよな?」

「え、うん」

 急に振られて反射で返事をしてしまった。

 見ると明ちゃんはキャリーバックから小さいケースをいくつかとリンゴのマークのノートパソコンを取り出していた。

「ごめん、なあに? 考え事してた」

「ラーメン食べたいからお昼に食べに行こうって明さんが」

「チャーハン、餃子、唐揚げもねぇ」

 明さんがご機嫌そうに付け足した。

「分かった。部屋に居るから出かける時間になったら呼んでね」

 今だけは、明ちゃんと一緒に居たらもっとよくない考えが浮かんでしまいそうだ。

 そう思って言い、自分の部屋に向かった。

 ベッドに倒れ込んでぼぉっとし、頭を空っぽにしようと意識する。けれど思考は連続していて、スイッチを押された機械のように、一瞬で切り変わってはくれない。

 お父さんのこと。

 お母さんのこと。

 明ちゃんのこと。

 お兄ちゃんのこと。

 顔が浮かんでは消えることなく、ぐるぐると入れ替わる。使えるのが一日に十分でいいから、夢を見ない眠りにすぐに落ちられるような、そんなシステムが欲しい。



 夜になってお風呂に入る頃になり、明ちゃんが一番風呂に入ることになった。

「明ちゃん。一緒にお風呂入っていい?」

 もう朝のように変な考えに支配されそうになることもなくなったし、なによりわたしは、恋人としての好きを早く理解しないといけないのだ。

 だからお兄ちゃんの聞いていないところで明ちゃんにも尋ねてみたい。

 好きっていったい、どういう感情なのか。

 そう思ってお願いしてみた。

「いいけど、広務と入るんじゃないの?」

 明ちゃんは意地悪そうに笑いながらそう言い、わたしはお兄ちゃんとお風呂に入ることを想像して、頬がかぁと熱くなった。

「お、お兄ちゃんと一緒に入ってたのは小学生の頃の話、だよ!」

「あはは。そりゃそうか。高校生だもんねぇ。高校生で兄妹が一緒にお風呂入ってたら、相当だね。悪いとまでは言わないけれど」

「そ、そうだよ」

 それが普通というもの、のはず、だ。

 お兄ちゃんはそういったことをどう思っているのだろう。

 チラリとお兄ちゃんの様子を窺おうと思うと同時に、明ちゃんがお兄ちゃんに声を掛けてしまった。

「じゃあ、先に風呂貰うね、広務」

 お兄ちゃんはワンテンポ遅れてから、弄っていたスマホからこちらに視線を移す。

「はい。ごゆっくり」

 どうやら、こちらの話は聞いていなかったようだ。

 部屋に戻って着替えを取ってから脱衣所に向かうと、浴室からシャワーの音が響いていた。

 わたしも服を脱いで浴室に失礼すると、明ちゃんは椅子に腰を下ろして頭からシャワーを浴び、髪をワシャワシャさせてお湯を浸透させていた。

 明ちゃんは顔もそうだが身体も張りがあって瑞々しく、女のわたしでも少し見惚れてしまうくらいにスタイルが良い。

 わたしは思わず唾を飲んでしまった。

「んー、早く閉めて。寒い」

 そう言われて我に返り、誤魔化すように大慌てでドアを閉めた。

「ちょい待ってね。すぐ湯船いくから」

「う、ううん。ごゆっくり」

「はは。私がゆっくりしてたら美蓮、風邪ひくよ?」

 明ちゃんはシャワーヘッドを取って全身をお湯で流し、髪の毛を手で絞ってから湯船に入った。交代でわたしが身体を流していると、明ちゃんからの視線を感じて振り向いた。

「な、なに?」

「さっきのお返し」

 どうやら見ていたことがバレていたようだ。

「その。ごめんなさい」

 謝ると明ちゃんは高笑いをした。

「あはははは。いいっていいって。友達とお風呂入ると皆そうだから」

「え、そうなの?」

「うん。若さの秘訣は肉と野菜と適度な運動。あと笑うこと」

 そう言って、さらに高笑いを続けた後に、先に身体を洗うように促された。

 正面を向いてシャワーを止め、ピンクのスポンジにボディソープを出して左肩から洗い始める。

「それで、どーしたの?」

「え?」

「なにか広務に聞かれたくない話があるから一緒に入りたかったんでしょう? 今まで一緒に入ったことなんて、なかったんだから」

 再度振り返り明ちゃんの顔を見ると、そのくらい分かるさ、という表情をしていた。

「私はこれでも君らの保護者なんだ。話したいならなんでも話してみな?」

 明ちゃんはすごく真剣な表情でそう言った。

「うん。実は」

 恋人としての好きとはどういうものなのかという質問をすると、浴室に三度目にして過去最大の笑い声が響き渡った。

「あひゃひゃひゃひゃ!」

 わたしは思わず、身体に泡が付いていることも気にせず浴槽に手を付いて身を乗り出した。

「そ、そんなに笑う!?」

「ごめんごめん。だって。マジな話かと思ったらまさかの恋バナって。あははは。真面目な雰囲気になって損したー」

「うぅ。明ちゃんにとってはたいしたことのない話かもしれないけれど、わたしにとっては、大事なことなの!」

「えぇ」

 明ちゃんは少しの間笑い続けた後に、自分の表情筋を手でほぐし、

「別に知ろうとしなくても。そんなの勝手に分かるもんよぉ?」

「それは、そうかもしれないけれど。でも!」

「いい? そういうのは自分で見つけるものだよ。誰かや何かに影響されるのは良いけど、私の価値観を聞いてトレースしようとしてるでしょ? それは駄目。いつか自分と折り合いがつかなくなる」

 明ちゃんはわたしを諭すようにそう言った。

 明ちゃんはわたしの倍以上生きていて、その人生経験から言っているのだろう。それはすごく伝わった。

 だけど、それでも。

――今をしのぐ答えは欲しい。

 そう言いかけたとき、明ちゃんの手がわたしの身体に伸びてきた。

「ひゃう!」

 お腹や太ももを撫でまわされ、変な声が漏れてしまった。

「ちょ、んん、くすぐったい!」

「若さの秘訣その五。若さを寄越せぇ」

「もうっ、セクハラじゃん!」

「あははははは。私と一緒に入ってセクハラされなかった女はいない!」

 明ちゃんの高笑いとセクハラが続き、それ以上食い下がることは出来なかった。

 翌日の朝。

 わたしはお兄ちゃんと一緒に明ちゃんを見送って、言い方は悪いけれどようやくふたりきりになれた。

 わたしは昨晩、これからお兄ちゃんとどうするべきかを夜遅くまで考えた。

 その結果、ふたりになれたらしようと決めたことが二つある。

 その一つ目が謝罪だ。

「お兄ちゃん。ごめんなさい!」

 リビングに戻ってから頭を下げた。

 お弁当を作ってくれていたのに、お母さんの味じゃないなんて理由で食べられなかったことに気づいたことを説明して、お兄ちゃんを蔑ろにしていたことを誤った。

 お兄ちゃんはというと、特に気にした様子はなく許してくれた。

 お兄ちゃんは度量が広く、優しいなぁと思い、お兄ちゃんの妹であることがとても嬉しく感じられた。

 わたしは少し心を落ち着かせてから、すると決めていたことの二つ目を執り行った。

 心臓がバクバクと激しく鳴って、無意識に声が小さくなるのを何とか堪えながら、伝えた。

「お兄ちゃん。わたしと、デートして?」

 結局のところ、恋人として好きがどういうものか分からなかった。

 けれど、恋人として過ごす時間を増やせば何かが見えるかもしれない。

 そう思って、わたしは思い切ってデートに誘った。


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