間章~Another side①~

免罪符



「ごめんな、美蓮」

 ドアが閉まる直前に、つい口にしてしまった。美蓮まで届いていなければいいのだが。そう思いながら鍵を閉める。

 美蓮が友達の家に泊まりに行くのはいつ以来だろうか。少なくとも父さんと母さんが亡くなってからは一度もなかったはずだ。だとするとやはり、俺が美蓮を縛り付けているのだろうか?

 美蓮には最大限幸せでいて欲しい。だけど俺の傍から離れて欲しくない。そんな二つの感情が、自分でも気持ち悪くなるくらいに渦巻いている。

 自覚すると心がざわつきだして、腹の奥底で何かが這いずり回っているかのように落ち着かなくなる。

 リビングに置いてあるスマホがピコピンと鳴った。

 見に行くと、俺と美蓮の今の保護者である叔母の明さんからのラインだった。内容は「明日帰る」というもので俺は「わかりました」と返事した。

 明さんに会うのは数か月ぶりだなと思いうと、ふと、昔言われたことを思い出した。

『私は外側からしか、お前たちを守ってやれない。美蓮のことを内側から守ってやれるのは広務しか居ないんだからしっかりしろ。楽しいこと、嬉しいことは美蓮のおかげ、辛いこと、嫌なことは全部私のせいにしな』

 両親が死んだ日に、明さんから言われたことだ。

 俺はその言葉に、本当に助けられた。

 その言葉がなければ俺は、大げさじゃあなく、どのように生きて行けばいいかわからなかっただろう。

 明さんには、感謝してもしきれない。

 明日が少しだけ、楽しみだ。

 自分の部屋に戻っても未だに落ち着かず、勉強でもすることにした。

 勉強机に着いて、鞄から筆箱と数学の問題集を取り出した。続いてノートを、と思ったところで鞄の中になく、もう一度探しても見つからなかった。

 どうやら学校に忘れてしまったらしい。

 課題の提出は週明けじゃないので別にこの土日で終わらせる必要はないのだが、美蓮が居ないため他にやることもなく、だからといってぼぉっとするには、どうも座りが悪い。

 学校にノートを取りに行くため、制服に着替えた。部屋を出て美蓮に声をかけておこうと美蓮の部屋の前でノックをしかけ、直前で友達の家に泊まりに行っていることを思い出した。

 美蓮が出かけたのは今さっきのことなのに、癖というのは恐ろしい。

 そう思いながら家を出て鍵を閉めた。ドアをガチャガチャしてちゃんと掛かっていることを確認してから学校に向けて歩き出す。

 通学の際は大抵、美蓮や梓が一緒に居るので、一人で学校に向かうというのは新鮮だったが、別段、新しい発見があることもなく学校に着いた。

 校門を通るときに、ふと、知らない女子生徒が二人少し離れたところから俺の方を見てなにか言っていた。名札の色が緑色と赤色なので一年生と二年生だ。

 俺はなぜか同学年や後輩の女子に一方的に知られていることがある。全校集会などで表彰などされたこともないのに、とても不思議だ。そう思っていると二人と目が合ってしまった。

 俺の悪口を言っている感じではなかったので、笑顔を作ってみせ手を振りながら歩き去る。

 直接教室に向かうとまだ施錠はされていなくて、自分の机からノートを取り出した。ほかに必要になりそうな忘れ物がないかを確認してから教室を出て玄関に向かう。

 ノートを脇に挟みながら靴を履き替える。上履きを拾い上げて下駄箱に入れようとしたとき、うっかりとノートを落としてしまった。

「おっと」

 しゃがもうとするより先に、ノートに手を伸ばした人物がいた。赤い名札の二年生で、前髪を眉の上で切りそろえた可愛らしい感じの女子生徒だった。

「落としましたよ、七搦先輩」

「ありがとう」

 なんで二年生が三年用の下駄箱の前に居るのだろうと思いながらお礼を言うと、その女子は左胸の名札を摘まんで俺に見せるように突き出し、

「あの。自分、田所たどころ熱海あつみっていいます」

 自己紹介をしてきた。

「えっと、七搦広務です」

「知ってます」

 いったい何なのだろう、この子は。

 そう思っていると田所さんは胸の前で自身の両手を、祈るように握りこんだ。そして親指を上下にもじもじさせ始め、こちらの目を見てはすぐに視線を逸らすという動作を繰り返した。

 おそらくはなにか言いたいことがあるのだろうと思い、俺も暇ではあるので田所さんが切り出すまで待ってみることにした。

 少しの間沈黙が続いた後、田所さんはようやく口を開いた。

「実は自分、ずっと七搦先輩にお話ししたいことがありまして」

「うん? まあ、いいけど」

「自分、田所めぐみの娘です」

「は?」

 思わずそう言ってしまった。

 家族や友達以外で一生忘れることがないと思っている名前が、俺にはある。それが田所恵だ。娘がいるなんて知らなかったけれど、まあ居てもおかしくはない。

 いや。田所恵に娘が居ても居なくても俺には関係のないことだ。問題はその田所恵の娘が俺に、いったいどんな話があるというのかということだ。

「それで、話って?」

 田所さんを見ると口を真一文字にしていて、俺の様子をじぃっと見てきていた。

 視線からは何かを疑われているような感じがしたが、疑われるような心あたりはないのできっと気のせいだろう。何を考えているのか、まったく分からなかった。それでも、俺が会話を断れば、田所さんは美蓮の方に話しかけるかもしれない。

 何を話すかは分からないが、田所恵の娘だと切り出す以上はおそらく、父さんと母さんに関する話だろう。なにせ田所恵は他でもない、俺の両親を殺した女だからだ。

 絶対に美蓮に近寄られたくない。

「こんなところでする話ではないので場所を移したいんですが……自分の家はお母さんが居るので先輩の家に行ってもいいですか?」

「おっ」

――お母さんが居てよかったな。

 思わず出そうになったその言葉を、唇を噛んで飲み込んだ。血の鉄臭い味がして思わず眉を顰めてしまったが、首を左右に振って誤魔化した。

「別にいいけど、一つだけ条件を付けさせてもらっていい?」

「条件、ですか? なんでしょう?」

「俺の妹には近寄るな?」

 俺がそう言うと、田所さんは頷いた。

「分かりました。その気持ちは、分かります」

 その物言いに思うところがないではなかったが、再び飲み込むことにした。別に相手が田所さんであろうと誰であろうと、俺は他人を傷付けたくなんてない。

 そう思いながら、田所さんを連れて帰路に就いた。



 俺は昔から一人で居ることが嫌いだった。だから友達とはよく遊びに行ったし、グループの輪の中心に居ることが心地よかった。所詮クラスの友達という輪は、学年が、学校が変わるだけで消え去ってしまうものだということは小さいころから無意識に理解していた。だから耐えることはできたし、また新しいグループもすぐに作ることができた。

 だけどあの日、もう二度と戻らない関係を知った。

 父さんと母さんが死んだ。

 病院に着いた時にはすでに母さんは死んでいて、父さんは危篤状態だった。居るのが当たり前だった親のそんな姿を見ていられず、手続きをするからと美蓮を一人病院に残して家に戻った。本当は俺なんかが居なくたって唯一の親類である叔母さんがやってくれるということは分かっていたし、実際に俺がしたことなんて、用意されたペンとハンコで数枚の委任状に記名と捺印することだけだった。

 そしてそんなことをしている間に父さんは臨終してしまい、最期を看取ることもできなかった。その日から一人でいることよりも、戻らないものを失ってしまうことが怖くなった。正確には、そのことがとても怖いということを識った。

 結婚すれば家族はできる。だけど命をくれた親も、血を分けた妹も、増えないし失くしたら返ってこない。

 引き算は嫌いだ。



 家の玄関を開けるのとほぼ同時に、庭よりも外から澄んだ声が飛んできた。

「広務!」

 梓だと声だけで分かり、振り返るとふんわりとした赤いスカートと白のティーシャツを着た梓が、心配と驚愕の混ざったような表情を浮かべていた。

「あー」

 少し考えてから田所さんに、

「玄関で待ってて」

 そう告げてから梓の元へ向かった。

「誰よあの女!」

「え?」

「広務、美蓮と付き合ってるって言ってたわよね? そのことは一万歩譲って認めても、誰なのよあの女!」

「彼女は」

「美蓮はこのこと、知ってるわけ?」

 梓は勢いよく門に掴みかかって怒声を上げた。

 梓は基本、お淑やかという言葉が服を着ているような人間だけど、興奮すると豹変することがある。どちらも本物の梓なのだが、正直なところ扱い難さはある。

「美蓮は知らないし、美蓮にこのことを言うつもりはない!」

「はぁ? なによそれ!」

「落ち着いてくれよ。別に浮気とかじゃないから」

「そ、そう、なの? だったら、なんなのよ!」

 一瞬落ち着いたかと思ったが、そうでもないらしく、何も教えなければ今にも乗り込んできそうな勢いで詰問された。

 梓にはこれまで美蓮のことも含めて色々と助けられてきたし、できることなら今後も良い友人関係を続けたい。そして、だからこそ梓には嘘を吐きたくない。適当なことを言って誤魔化す訳にはいかないだろう。

 そう思い、俺は告げた。

「あの子は。田所恵の娘だ」

 梓は目を見開いて、口を閉じるのを忘れたまま固まった。

 言いたいことがあり過ぎて言葉が出てこないといった様子だった。

 数秒経ってようやく言葉が纏ったようで、一度、大きく瞬きをした。

「なんで! 一体、何の用で!」

「さあ。俺に話があるらしくて。内容は、まだ」

「私も一緒に」

 まあ、梓ならそう言ってくれるだろう。

 その気持ち自体はとても嬉しい。

 だけど今回は俺と田所さんの二人にして欲しい。

 俺は基本的に、どんな相手でも傷つけたくないと思っている。

 自分が辛いのは、他人を傷つけてもいい免罪符じゃあないからだ。

 そう。

 相手が誰であれ、何をされたからといって、傷つけても良い理由になんてならない。

 けれど理性ではわかっていてもあの子相手には、感情が我慢ができずについ、汚い言葉が口を吐いてしまうかもしれない。

 そんな俺を、大事な幼馴染である梓に見られたくない。

「もし、広務が嫌な気持ちになれば、私がさっきの子を張倒すから。だから一緒に!」

 そんな物騒なことを言ってくれる梓に力が抜けて、笑顔で応えた。

「梓、ありがとう。でも俺は、大丈夫だから」

「そ、そう? でも」

 梓は気持ちが落ち着いてきたようで門から手を放したが、心配そうな表情を浮かべていた。

「俺は大丈夫、だから」

「分かった。でもなにかあったらスマホで呼んで。すぐに駆け付けるから」

「大げさだなぁ」

 梓は俺のことになると、いつも大げさになってくれる。

 怒ってくれて。

 泣いてくれる。

 本当にありがたい存在だ。

「ありがとう」

 俺がお礼を言うと梓は首を横に振った。

「私は広務に救われた。広務がどう思っているかは分からないけど、私は……私が広務を助けるのは当然よ」

「救った? 俺が? 俺の方こそ梓には助けられてばかりだろ?」

「そんなことないわよ。私、両親からずっと女の子らしく育てられてきたけど、無意識に粗雑になってしまう部分があって……その頃の私は、生きていてとても窮屈だった。私らしさっていうものが分からなくなっていたの。そのときに広務が『そういうのひっくるめて全部本当の梓だ』って言ってくれたでしょう? あの言葉で、私はどんな自分も認められるようになって、救われたの。だから今度は私が広務の力になりたいの。だから、なんでも言って。私は、広務の為ならなんだってやるから」

 梓はニコリと笑ってそう言ってくれた。

 あの言葉が梓にとってそんなに大きいものだとは知らなかったけれど、どんなものでも梓の救いになったというのなら、それは良いことだろう。

「ありがとう。俺は本当、良い幼馴染を持ったよ」

 俺の幼馴染という言葉に一瞬、梓の表情に陰りが生まれたように見えた。

 だけど梓は、すぐに満面の笑みを浮かべ、

「それじゃあ」

 顔の前で小さく手を振りながら帰って行った。俺の方も見えなくなるまで手を振り返してから、家に向かった。

 玄関に入ると田所さんは上がり框に腰掛けてスマホを弄っていた。

「終わりました?」

「ああ、お待たせ」

 我が家に客間なんて上等なものはないので、田所さんをリビングに案内し、テーブルの短辺側の席に座ってもらった。

「麦茶とかアップルジュースならすぐに出るけど、何か飲む?」

「じゃあアップルジュースください」

「いいよ。氷はいる?」

「薄くなるので要りません」

「そう」

「あ、ストローあったらください」

「分かったよ」

 キッチンに向かってグラスを二つだし、冷蔵庫で冷やしておいたアップルジュースを注ぎ、ストローを挿した。

 俺の方は別に飲み物を飲みたい気分ではなかったが、客人にだけ出すと遠慮させてしまうかもしれない。今のところの心象ではそういった遠慮をするタイプには見えないけれど、一応客は客だ。

 グラスを一つ田所さんの前に置き、もう一つを正面の席に置いてから俺も腰掛ける。田所さんはストローに口を付けると喉が渇いていたのか一気にグラスの三分の一程飲み、思い出したように、

「あ、ありがとうございます」

 そう言った。

 別にお礼を言って欲しいわけではないが、思い出したかのような態度を表に出さない方がまだマシだろうに。大丈夫かこの子と思ってしまい、出かかった溜息を寸前で止めた。

 俺もグラスを手に取って一口飲んだ後に、本題を切り出した。

「それで、話って?」

「はい。単刀直入にお聞きします。七搦先輩はお母さん――田所恵のこと、どう思っていますか?」

 それは単刀直入どころか辻斬りレベルの質問で、思わずグラスを落としかけた。慌てて握り込んでテーブルに置き、対面に座っていてよかったと安堵した。

 もし手の届く距離に居たらきっと、髪の毛を鷲掴みにして「こう思っているよ」と頭をテーブルに叩きつけていた。実際にできるかは別として、そうしようとしてしまっていただろう。

 しかし、それは咄嗟にそうしてしまっていただろうということである。俺は実際のところ田所恵をそれほど深く恨んでいるわけではない。

 そもそも、なんでそんなことを、今になって聞くのか。それが分からない。

 分からなさ過ぎる。

 なので、質問を質問で返すことにした。

「どう、とは?」

「実はお母さん、事故のことをずっと引きずっていまして、精神的に病んでしまっているんです。それで、この間リストカットしちゃいました」

「は? え、死ん、亡くなったのか?」

「いえ、幸い命に別状はありませんでした」

「そうか、それはよかった」

 安堵のため息が漏れると、田所さんは意外なものを見るような表情を浮かべた。

「なにか?」

「いえ。正直、七搦先輩はお母さんのこと、殺したいほど憎んでいると思っていたので、なんだか先輩の反応が意外で」

「それは。自分でも、意外だと思う」

 両親が死ぬより前は、ニュースやドラマで人が殺されているのを見て、もし家族や友達が殺されたら犯人を絶対許せないし憎むだろうな、なんて想像をしたことはあった。

 だけど実際にその立場になると、事故であって殺人ではないからかもしれないが、憎みきれないというのが実情だ。だからといって田所恵をこれぽっちも恨んでいないかといえば、そんなことはない。

 とはいえ、人の命が失われないで済んだことに良かったと思ったのは本心だ。

「そーいうもの、なのかなぁ」

 田所さんは視線を横にずらし、ボソリと独りごちた。

「それで? その後どうなったの?」

「あ。えっと、それでですね。実は元々精神病院に通院していたんですが、リストカット以降、自殺防止も兼ねて入院することになりまして。お医者が言うにはお母さん、ずっと許しを求める気持ちと、自分は許されないことをしたっていう気持ちで一杯一杯になっているらしいんですよ」

「あれ。ちょっと待ってくれ」

「なんですか?」

「さっき、家にはお母さんがいるからって言っていたよな?」

「実は自分、生まれる前にお父さん失踪していて、今は伯父さんとお母さんの三人暮らしです。なので今は家に誰も居ません。でも、七搦先輩はお母さんを恨んでいると思っていたので家に来てもらうのは避けたくて嘘を吐いてしまいました。ファミレスとかでできる話でもないので」

「もう一回待ってくれ。俺が恨んでいると思っていたなら、なんでこんなこと聞きに来たんだよ? そんなことしないけど、もしかしたら、俺が君に暴力を振るうかもしれない訳だろ?」

「そんなの別に、大した問題じゃないですよ」

「えっ? それは、どういう意味?」

「その。お母さんは、ストレスで白髪まみれになってしまい、所々剥げて、表情には活力がなくてですね」

 そこまで言ってから「いえ」と首を左右に振った。

「違いますね。そんなことを言いたい訳ではないです」

 田所さんは数度、深く深呼吸をしてから何かしらの覚悟を決めたように表情を引き締めた。

「ぶっちゃけちゃいますが、自分、七搦先輩を少し恨んでました」

「え?」

「だって先輩は学校で結構有名人で、女子の間で噂話をよく聞きますし、幼馴染の人と仲良さそうで楽しそうに生きていたので。なんでお母さんが不幸にならなきゃいけないんだって。でもお母さんがリストカットした日、死んじゃうかもって考えるととても怖くて自分は病院でずっと泣いていたんです。手術は終わって、お母さんの命に別状はないって聞いて安心したと同時に、七搦先輩たちはもっと怖くて不安で悲しくて苦しんだんだろうなって思いまして。それで逆恨みしていた自分が恥ずかしくなりました。それで、七搦先輩は、楽しそうに振舞っているだけで、きっとお母さんのことを殺したいくらい恨んでいるだろうって思っていたんです。でも、ですよ。それでも、精神科のお医者の話を聞いて自分、お母さんのために何かしたくて。七搦先輩に迷惑をかけるだけだって、ぶん殴られるようなことをしているって分かっていました。だから、殴られたりするのも想定はしていました」

 両瞼には涙が溜まっていた田所さんは、歯を噛みしめて、勢いよく頭を下げた。

「ごめん、なさい」

 きっと、迷惑をかけると分かっていても、何もしないということさえできなかったのだろう。そして田所さんは、そんな弱い自分が情けなくて悔しいのだ。

 その気持ちは、よく分かる。

 両親が死んでからしばらく、なんなら今でも時々「俺はこんなこともできないのだ」と悔しくて泣きそうになることだらけだし、実際に枕を濡らしたのは一〇〇や二〇〇なんて数ではない。

 だから、田所さんの気持ちはよく分かる。

 よく分かるが故、残念に思うことが一つある。

 正直なところ、田所恵に苦しんでほしいと願っているわけではない。寧ろ父さんと母さんのことをいつまでも気に病む必要はないとさえ考えてはいる。

 だが。

 俺が田所恵を許せるかどうかは別問題だ。

 田所恵が苦しむことはない。なんならあの事故のことを忘れてしまえばいい。

 それでも俺は田所恵を許さない。

 そのことが、とても残念でならない。

 許せなくて申し訳ないという気持ちすら、微塵も湧いてこない。

 そしてそんな自分が、惨めでならない。

 田所さんを気の毒に思う分、余計に自分が憐れに思えて。

 俺は何も、言えなかった。



 自分の心の傷や弱さを見せることは裸を見せるようなものだと俺は思っている。

 今日の田所さんは一切着飾る事のない裸を俺に見せてくれたのだ。だというのに俺は、気の利いた一言もなく、再び服を着るまで黙って見続けただけだった。

 ほんと、最低だ。



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