第十八話 歌声の魔法

「君は、裏声は分かるよね?」とマイルス。

「ええ...」と奈々。

「裏声は細いから嫌いだ、と思っている?」

「嫌いじゃないけど、太い声も出せたらいいかなって...」

「思ってる」とマイルス。

「はい」と奈々。

「まず無理せずに、裏声で歌ってみる」

 と言って、マイルスは“Honesty”の一節を、歌ってみせた。きれいな裏声だった。

「こうして軽く正確に歌えるようにしてから、太くなったイメージを持つ」と言って、もう一度“Honesty”の一節を歌ってみせた。

今度は裏声じゃない。太い。

「今のは裏声じゃないですよね」奈々が尋ねる。マイルスは「裏声だよ」「でも裏声に聴こえない、だろう?」と言って、更にもう一度“Honesty”のサビを、歌ってみせた。

 更に太い。十分に太い。

「今のが裏声ですか?」と奈々が不思議そうに聞く。奈々はありえないと思った。


「裏声だよ。じゃあこれは?」

と言って、マイルスは裏声から始めて、Pianoのかなり低い所まで、歌って降りていった。

「これは何声?」マイルスが訊く。

「地声」奈々が答える。

「いつ裏声から地声に切り替わったの?」とマイルスがにやにやして聞く。

「分からない...?」と不思議そうな奈々。

「切り替わってないなら、裏声でしょう」とマイルスはしたり顔だ。

「裏声?...」訳の分からない話に奈々はパニクっている。

「そうだよね。低すぎて、裏声と言われても、イメージが湧かないよね?それで、今度から裏声のことを、『歌声』と呼ぼう」

「歌声?」何の事?

「そう歌声」「歌声と地声しかなくて、地声は歌にならない声なんだ」

「ミックスボイスと言うのを、聞いたことがあるかい?」「ミックスボイスは、裏声と表の声をミックスした、と世間では言うんだけれど、実際には表の声、いわゆる地声はない」「あるのは表の声のニュアンスなんだ。そしてそれは裏声のイメージを変えると出るんだ」

 これをマイルスは、ニュアンスと呼んでいる。

 マイルスは続ける。「ニュアンスなので、もうシャウトしちゃえと思うと、こうなる」

と、言ってマイルスは“Honesty”をシャウトして歌って見せた。奈々は凄いと思った。

 マイルスは「怒鳴っていると思うかい?怒鳴っていたら、今頃、咳き込んでしまって止まらないよ」「と、言うわけで、ミックジャガーもこんな感じで歌っている」

「それで歌声なんだ」

「歌声ですか...」

 マイルスは「歌には腹筋って大切ですよね」と言う村木に説明していた。

「『ふっ』と言ってみるとお腹が動きます。これが腹筋です。これは勝手に動くのであって、押してはいけません。動いたか動かないか位、微妙で良いのです」

「一方、胸は息を吐いたのに膨らむ感じがします。瞬時に、自動的に、息継ぎをしたのです。口は開けたままですよ」

「しゃべっている時はこの動作が自動的に行われます。投げて伸ばさなければ上手く行きます」

 確かに息が戻ってくる感じがする。苦しくない。と村木は思った。

「歌は言葉ですよね。なのに何故言葉に無いものを、歌でやってしまうのでしょう」

「この場合は、『息は取らない』と言うことです」と、マイルスが言った。

 お腹を使って発声するのではなく、お腹が勝手に動くような発声をする。


「腹筋は良い歌に欠かせないと思っていますか?腹筋はそれ自体を動かして何かするということではなく、何かの力を受けて支えるための筋肉です。また腹筋が全くない人は存在しません」


「英語を正しく発音すると、腹筋が勝手に動いているのが分かります。また日本語をだらだらと発音すると、腹筋は全く動きません。英語は腹筋が自然に動く発声、喉の奥からの発声が、響いて聞こえ、体を使った良い発声になっているのが分かります」


「アメリカ人の英語が良く透り、響いて聞こえるのはこのせいでもあるのです。大きく聞こえる彼らの声も決して怒鳴っているのでなく、よく通って(透って)聞こえるのです。電車の中で、向こうで話しているアメリカ人の声が、明瞭に聴こえるのを、感じた事はありませんか?」

「日本人同士は、目の前での会話も、良く聞き取れなかったりしませんか?」

 村木は、帰りの山手線の電車の中で乗ってきたアメリカ人らしいビジネスマン同士の会話に、耳を傾けてみた。

 なるほど会話の意味はいまいち理解が出来ないが、単語は聞きやすく感じる。面白くて聞いていて、つい降りる駅を見失った。

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