騒音被害を訴える老人。衛藤肇(前編)
今朝も
今年定年退職をしてから自宅にいる時間が増え、こんなにも近隣の音が耳に障る地域だと知った。
(以前は静かだった気はするが、多忙のため気づいていなかっただけかもしれないな)
彼の妻は二年前に他界した。自殺だった。当初は自分に至らぬ点があったためかと思ったが、最近はこの騒音が原因で精神的に参っていたのではなかろうかと考えていた。
衛藤は日記帳を机から取り出し、ページをめくる。
*
【衛藤肇の日記】
四月十八日。晴天。
朝に近所の子供の声で目が覚める。躾ができていないのか、物凄くやかましい。
午後、買い出しに行く。家に戻ると、斜め後ろの鈴木家から爆音が聴こえてくる。どうやら、鈴木の息子がロックンロールを大音量で流しているようだ。
四月十九日。曇り。
今朝も近所がうるさい。主婦たちがピーチクパーチクと井戸端会議。通り過ぎるサラリーマンは煙草をポイ捨て。主婦たちがそれを睨みつけていたが、私からすれば、騒音を撒き散らしているという意味で公害なのは変わらない。
昼からゆっくりと過ごした。またしても鈴木の息子が爆音を垂れ流していた。
四月二十日。快晴。
布団を干した。隣家の佐藤家が庭で水撒きをしていたので、それが布団にかかる。謝罪はなし。
鈴木の息子の爆音はないが、どこかから頻繁に聞こえる赤ん坊の泣き声が耳障りだった。
昼過ぎから夕方にかけて主婦たちは井戸端会議をしており、私の昼寝の邪魔をしていた。
四月二十一日。晴天。
朝はどこかの馬鹿犬同士のキャンキャンという鳴き声で目が覚めた。飼い主の躾がなっていない。
日曜日ということもあり、近所の小学生が大声をだして道路で遊んでいた。やかましい。最近の親の躾はどうなっているのだ。
四月二十二日。雨。
でかける気分ではないので家で過ごす。
雨のおかげで、犬も子供も主婦たちもいないので、静かだ。鈴木の息子が出す爆音も、雨で掻き消されていた。
久しぶりにゆっくりと落ち着けた。
*
「さて、今日は四月二十三日だな」
衛藤がカレンダーを見た刹那、ピンポーンと玄関の呼び出しチャイムが鳴った。
「おや、誰だろう?」
衛藤はのろのろと動き、玄関に向かう。
「すみません。隣の者です」
ドア越しに若い女性の声が聞こえた。何か揉め事かと思い、慌ててドアを開ける。
「なんでしょうか」
「初めまして」
女性は二十代前半くらいの目を見張るほどの美人だ。衛藤は年甲斐もなく興奮した。
「昨日、引っ越してきましたので、ご挨拶にお伺いしました」
衛藤は考える。左隣は佐藤家だが、その逆の右隣ということだろうか。都内でわざわざ挨拶してくる人間は珍しいので、気立てのいいお嬢さんなのだなと解釈した。
「中山凛子といいます。よろしくお願いします」
衛藤の舐め回すような視線に気づいたのかどうかわからないが、凛子は会釈した。
「ああ。よろしく。結婚して、こっちに来たのか?」
衛藤は年下に対してぞんざいに喋り、敬語で会話することは殆どない。
「違います。父と一緒に越してきました。私は独身です」
凛子はふふっと魅惑的に笑った。色っぽさを感じる笑みだ。
「こちら、つまらないものですが」
彼女は粗品を渡す。衛藤は「ああ」と受け取った。サイズと柔らかさから察するにタオルのようだ。
「それでは、失礼いたします」
凛子は深くお辞儀すると、去って行った。
(これは一目惚れというやつだろうか……?)
衛藤の胸は病気かと思えるくらい動悸がしていた。何十年かぶりの高揚感だ。
夕方。買い出しのために車に乗った。
衛藤の本来の粗暴な性格とは異なり、事故を起こさないよう慎重に運転する。昨今は老人による自動車事故が多く報道されているので、他人を加害してしまうことより、マスコミやインターネットで晒されたくないという思いが強い。
スーパーマーケットの駐車場に着き、車から「よっこらせ」と降りる。平日の夕方なので比較的すいていた。これなら目的のものを買えば、さっさと帰れそうだなと衛藤は思った。
ピロピロリーンという独特な音の鳴る自動ドアに入った瞬間、店内から出ようとした客とぶつかった。
「ば、ばかもん! 気をつけろ!」
衛藤は相手に罵声を浴びせた。
「すみません」
小太りな眼鏡の高校生くらいの少年だ。よく見ると、彼の持っていたビニール袋は破れており、そこからぬるぬるとした黄色と黒の液体が垂れていた。
狼狽した様子で少年が言う。
「すみません。汚しちゃったみたいです」
「なに!?」
衛藤は自分の着ている服を確認すると、シャツとズボンにべっとりとその液体がついていた。鼻を近づけて匂う。どうやら、プリンのようだ。
「すみません。近くに私の住む場所がありますので、そこで着替えと洗濯を」
少年は腕をつかみ、強引に衛藤を連れていく。
*
「あら、いらっしゃい」
骨董屋風の建物に入ると、中にいる中学生くらいの少女が言った。
「ほお」
衛藤は妙に感心した。一日に二度も美女を見るとは思ってはいなかった。こちらは浮き世離れした魅力の美少女だ。
「この方のお召し物を汚してしまって。さきほど、そこのスーパーで」
少年は汗を拭いながら説明した。
「何やっているのよ! すみません。うちの
少女は深くお辞儀をした。
(少年が太という名前のようだ。年齢は彼女より彼のほうが上に見える。このような態度をとるということは、何らかの理由で立場が上なのだろうか)
衛藤の疑問を見透かしたように、続けて少女は言う。
「私の名前は
「店主……」
「ええ。ここはお悩み相談所です。私がカウンセリングしております」
纏は蠱惑的に笑った。意味ありげで背筋が凍るような笑みだ。
「悩みね。ふむ」
「何かお悩みがあれば、聞きます。けれど、その前に、衛藤様のお洋服を綺麗にしないといけないですね」
タイミングよく、太が上下揃ったジャージを持ってきた。この少女はどこで私の名前を聞いたのだと不思議に思っていると、
「太に着ているものをお渡しください。十分ほどで綺麗にいたします。代わりに、その間はジャージで着ていただければと思います」
纏が促す。衛藤は渋々と目の前で服を脱ぐが、彼女は臆することなく見ていた。
着替えが終わり、衛藤は近くにあった椅子に着座する。太によってコーヒーが運ばれてきた。
「それで、お悩みがあれば、お伺いします。ご迷惑もおかけしたことですし、もちろん無料です」
纏は接客業にありがちな作り笑顔を見せた。
「悩みねぇ……」
衛藤は首を捻り、考える。
「そういえば、うちの近所の騒音がひどいな」
「騒音ですか」
纏は目をパチクリとした。
「音楽だったり、子供の泣き声だったり、主婦たちの井戸端会議だったり、ひどいもんよ。一度、役所に問い合わせたが、全然対応しない」
世も末だといったふうに、衛藤は肩を竦めた。
「それにピッタリの道具があります。――太、持ってきて」
纏が奥の部屋にいた太を呼び出すと、彼は手にラッパのような形の物体を抱えてきた。
「こちら、『終焉のラッパ』といいまして、周りの騒音をかき消す道具です。永久無料でお貸しします。いつでも返品可能です」
纏は張りついた笑顔で言った。
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