臭いを消したい女。矢上陽菜(後編)

 陽菜は追い詰められている。

「いい女だな。どうしようか」

「たっぷり後悔させないとな」

 サングラスの男たちは不穏な言葉を口にしていた。

 その時、

「アナタタチ、ナニ、シテイルンデスカ?」

 片言の日本語だ。男たちの背後に、身長185センチメートルの白人男性が立っている。

「ジョセイヲボウコウ、スルノデスカ?」

 白人男性は睨みをきかせて彼らに近づく。

「ちっ。退散するぞ」

 彼らは舌打ちしながら去っていった。

「あ、ありがとうございます!」

 陽菜は深々と頭を下げた。

「イエイエ。アブナイノデ、ステーションマデオクリマス」

 白人男性は笑顔で彼女をエスコートした。


 *


 翌日。

 不機嫌な顔で陽菜は目を覚ます。昨夜の暴行未遂のことを思い出すたびに震え、睡眠がろくにとれずにいた。

 勤務先近辺にいたらどうしようと焦燥感がつのる。小一時間ほど、ぐずぐずしていたが、意を決し出勤した。

 会社に遅刻間際で到着する際に、陽菜は重大な事実に気づいた。今朝、スットキエールを使用していない。色々な考え事や思い煩いが起きたせいである。

 なるべく人と関わらないようにしようと思いながら、タイムカードを押していると、

「矢上、ちょっといいか?」

 同僚の三島が呼びかけてきた。

「なに?」

 陽菜が近づくと、三島は少し眉をひそめた。体が消臭されていない時の反応だ。

「本部から、人がきたので、紹介するぞ。来週の予定だったが、早めにきた」

 三島が手を振ると、社内の奥から男性が近づいてきた。

「あっ」

 昨夜、陽菜を助けてくれた白人男性だ。

「オー」

 彼も驚いていた。三島は何事かと二人を交互に見る。

「あれ、すでに知り合い?」

「昨日、たまたま会っただけです」

「ハリーデス。ヨロシク」

 白人男性ことハリーは手を差し出した。陽菜は握手をする。

「矢上陽菜です。よろしくお願いします」

「ヨロシク」

 ハリーは爽やかな笑顔を作った。


「へえ。そういうことがあったのか。偉いぞ、ハリー」

 昨夜の出来事を陽菜がかいつまんで説明すると、三島は感心した。

「ツヨイヒトダ……」

 ハリーはぽつりと呟いた。

「なに? なんか言ったか、ハリー?」

 三島が問うと、

「ナンデモアリマセン」

 ハリーは素っ気なく返した。

「あの、ハリーさん」

 陽菜は言う。

「昨日のお礼ですが、今晩にでもディナーを一緒にしませんか?」

 陽菜の誘いの言葉に、三島が冷やかすように口笛を吹く。

「ゼヒ!」

 ハリーは快諾した。


 *


 *


 退社後の20時。

「乾杯」

「カンパイ」

 行きつけとなったバーで、陽菜とハリーはグラスを合わせた。陽菜は一度帰宅し、スットキエールをつけている。

「フシギデスネ」

「なにが、ですか?」

「こうやって、お話しできるのが」

 突然、ハリーは流暢な日本語になった。

「日本語、実は上手なんですね……」

 陽菜は愕然とした。

「何故、いまは臭いがしないのですか?」

 ハリーが体臭のことを尋ねた。

「実は、体臭を消す特殊な香水があって、それをつけています」

「なるほど。ということは、今朝の臭い、あれが本来のあなたの体臭なのですね?」

 ハリーは顔を近づけ、真剣な眼差し。嘘を見破るような、人を射抜くような眼光である。

「はい。その通りです。――それでは、こちらからも質問よいでしょうか?」

 まるで謝罪会見の記者のようだと、陽菜は内心おかしく感じる。

「何故、日本語が流暢なのに隠していたのでしょうか?」

 彼女の問いに、ハリーは肩を竦めた。

「僕には日本人のフレンドがいた。だから、日本語はペラペラだ。その日本人のフレンドが、一ヶ月前に死亡した」

「えっ」

 唐突な告白に陽菜は目を剥いた。

「そのフレンドは、性的なフレンドだ。若い女性だ。彼女のように若い日本女性は、僕のような白人男性だと、すぐに尻尾をふってついてくる」

 ハリーは引きつり笑いをする。

「おっと、誤解しないでくれよ。彼女も日本に何人もボーイフレンドがいたんだ。お互い様ってやつだよ」

 彼の告白を聞きながら、最低な人種と関わってしまったと陽菜は後悔していた。

「なぜ、君にこういう話をしたと思う?」

 ハリーは蔑むような表情で陽菜を見ていた。

「なぜって、私ともセフレになりたいから、じゃないの」

 陽菜は敬語を使うことをやめた。尊敬できるような相手ではないと判断したからだ。

「はは。いいね。是非ともフレンドになって欲しいが、そういうことではない」

 意図がわからず、陽菜は沈黙した。

「昨夜、君を襲った男たち。なぜ、彼らは君を狙ったと思う?」

 この男の目的はなんだろうかと陽菜は訝る。

「彼らは、君が殺した恵梨香のセフレたちだよ。そして、僕もその一人さ」

 愕然とする陽菜を見ながら、ハリーは首を竦めた。

「彼女は以前、冗談めかして、こう言っていたんだ。『小学生の時、体臭の強い女がいた。彼女は私を恨んでいるから、再会したら殺されるかも』ってね」


 ***


 **


 *


 一ヶ月前。

 陽菜が公園でゆったりと散歩していると、横をカップルが通り過ぎて行く。

「あら?」

 カップルの女がすれ違いざま、反応した。また私の臭いで馬鹿にしているのだなと思ったが、意外な発言が聞こえてくる。

「矢上陽菜でしょ?」

 振り向くと、女がいやらしい笑みを浮かべていた。顔に見覚えがある。

「えっ! まさか、恵梨香?」

 懐かしさと共に、ムクムクと憎しみが蘇る。クラスメイトと共に陰口を叩いていた張本人だ。

「そうよ。偶然ね。久しぶり」

 恵梨香は面影を残しているものの、すっかり大人の女になっていた。月日が流れているので当たり前だが、都会で洗練された女性という感じがする。

「また、今度ね。連絡するわ」

 恵梨香は連れのサングラスの男に別れを告げた。彼は不機嫌そうな顔をしたが、渋々とその場を離れていった。

「ちょっと歩きながら、話しましょうか」

 陽菜は乗り気ではなかったが、恵梨香の提案を受け入れて歩く。この女は何を考えているのだろうかと疑念が湧いた。

「何年振りかな。小学生以来だから、13年ぶりくらいかな」

「そうだね」

 陽菜は頷いた。

「しかし、相変わらずよね」

 恵梨香はニヤニヤと笑う。

「顔も服装もそうだけど、相変わらずの臭いで」

「……」

 陽菜は彼女の意図がわかった。自分をからかって楽しんでいるのだと察した。

 横断歩道が赤信号なので止まる。このまま真っすぐ行くと有名なカフェのチェーン店があり、そこに向かっているようだ。

「その様子じゃあ、ろくに男性は寄りついてなさそうね。もしかして、処女?」

 恵梨香は右頬の口角だけを上げ、嘲笑った。陽菜はこの独特な笑い方が嫌いだ。

「――だったら、どうしたっていうのよ」

 泣き出しそうなのを我慢し、声を振り絞った。

「あら、図星? ぷっ」

 そのセリフで、陽菜の何かが壊れた。両手を突き出し、恵梨香を車道に押し出していた。

「えあっ」

 恵梨香が素っ頓狂な声を出した刹那、彼女は直進してきたトラックに轢かれた。


 *


 **


 ***


「脅迫しているつもり?」

 陽菜はハリーを睨みつけた。彼は動じることなく、諸手をあげる。

「いや、そんなつもりはないさ。顔が怖いよ、陽菜ちゃん。まあ、酒を飲んでくれ」

 陽菜はグラスに口をつけた。さきほどと異なり、味を感じない。

「お願いがあるんだよ」

「お願い?」

「さっき言っていた消臭する香水、貸してくれないか。厄介事があってね」

 ハリーは左目でウィンクした。

「厄介事?」

「詳しいことは、僕の自宅マンションで話そうか」

 彼は舌なめずりをした。嫌な予感がして、陽菜は身震いする。


 *


「どうぞ」

 ハリーはスリッパを差し出した。陽菜は警戒を解かない。彼のマンションなので、いつ襲われるかわかったものではない。

「お邪魔します」

 陽菜がスリッパを履くと、ハリーは手招きをする。こちらへ来いという意味だ。

「この奥が寝室なんだけど、ちょっと困ったことがあってね」

 ハリーがドアを開けると、異様な臭いが鼻腔をくすぐった。

(これは……)

 ベッド上は布団がこんもりと盛りあがっており、誰かが隠れているように見える。

「実は、こいつが厄介事なんだよ」

 ハリーが布団をめくった。そこには若い女性がいた。ピクリとも動かず、一点を見つめたままだ。

 陽菜は息を飲む。

(この男、人を殺している!)

 不安と驚きがない交ぜの表情になった。

「おいおい」

 彼は弁明する。

「この子は、来日したての時にナンパしたんだ。ところが、アメリカから持ち込んだドラッグを少し使ってみたら、この通り、イク前に逝ってしまったんだよ。殺しではない」

 何がおかしいのだろうか。ハリーは笑っていた。

「そこで、陽菜に頼みたいんだ。まずは、この部屋を消臭してほしい。あと、こいつの処理を一緒にやってくれないか?」

 陽菜は肩に掛けているバッグの中身を確認する。用心のために持ってきた物体を使うことになりそうだ。

「ええ。わかったわ。――その前に、彼女に使ったドラッグがどんなものか、見せてくれないかしら?」

「意外だね。興味があるんだね」

 ハリーは跪き、ベッド横にある衣装ケースを探り始めた。陽菜に背を向けている。

(チャンスだ)

 バッグの中にあるハンマーを握りしめ、彼の側頭部に振り下ろす。


 *


 **


 ***


「こんばんは」

 羽織纏はおりまといのもとに、サングラス男・浅尾智弘あさおともひろが訪れた。

「あら、こんばんは」

 纏が椅子を勧めると、彼は素直に座る。

「おかげで、うまくいきました」

「よかったわ。お役にたてて」

 纏は不敵に笑い、「太! 紅茶!」と細川太ほそかわふとしに命令した。

「それで、これをお返します」

 浅尾はサングラスをテーブルに置く。

「返品ありがとうございます。この品の使用感、いかがでしたか?」

 纏が聞くと、彼は息苦しそうに答える。

「ハッキリ見えました。あの女に憑りついていた恵梨香の霊。これがなければ、犯人に辿りつけませんでした」

「よかった」

「それに、一度、白人の男に追跡を邪魔されたのですが、そいつにも霊が見えました。若い日本人女性でした」

「あら、そんなことが」

「でも、再び、矢上陽菜を見つけました。このサングラスで」

 浅尾はわなわなと震えていた。纏はサングラスを手に取り、かける。

「あら、

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