臭いを消したい女。矢上陽菜(前編)
混雑が苦手なのではない。彼女は体臭が人一倍強いため、周りの乗客はあからさまに顔をしかめていくので、心理的な負担になっていた。
対応策として香水をつけてみたが、体臭と香水が絶妙に絡まり、悪臭を放つことがわかった。本人は大丈夫だろうと思ったが、同僚の指摘で間違った対策であることを知る。
自身が発している臭いは気づきにくい。家族からも友達からも指摘されなかったので、小学六年生になるまで気づくことがなかった。
「あいつ、臭いよね」
帰り道に、珍しく道草を食っていると、女子児童たちの声が聞こえてきた。彼女たちからはこちらが見えていないようだ。
電柱の陰に隠れつつ、確認する。陽菜の親友・恵梨香とクラスメイトたちだった。
「あの臭い、なんなんだろうね」
「陽菜と喋るのが大変」
「わかるー」
陽菜はひどく傷つく。親友やクラスメイトたちが彼女の悪口を言い合っているのはショックだった。
陽菜はその場を静かに離れ、泣きながら帰宅した。
「どうしたの?」
と母が尋ねるので、陽菜は体臭について言及する。
「私って、臭いの? うんちみたいなの?」
母は苦虫を噛み潰したような顔をして、優しく語りかける。
「陽菜は、人よりも少し匂うだけだよ。お母さんやお父さんは家族だから平気だけど、お友達には違って感じるのかもね。でも、仕方がないことなのよ。人はそれぞれ匂いをもっているわ。それが自分に合うか合わないかの違いだけ」
母は丁寧に言葉を選んでいるが、
(やっぱり、私は臭いんだ)
と改めて衝撃を受けた。
涙が止まらず、一晩中泣き続けた。
その日の出来事をきっかけに、陽菜は同級生たちと距離を置き、恵梨香とも疎遠になった。
人との接触を避けるようになり、陽菜は一人で行動することが増えた。それは現在も変わっていない。臭いがコンプレックスで男性に近づくこともままならないので、恋愛に発展することはない。
社会人になり三年たつが、ロボットのように業務をこなし、業務外は漫然と日々を過ごしていた。
「あの人は仕事の鬼よ」
と噂する同僚もいる。
(鬼なのではなく、どこにも楽しみが見いだせないだけよ。この臭いさえなければ、もっと色々と楽しめるのに……)
陽菜はスーパーで買ってきた惣菜をテーブルに並べ、缶ビールのステイオンタブを動かす。今日も自宅のリビングで独り晩酌だ。
このマンションは唯一の親からの遺産だ。天涯孤独で恋人も友人もいない陽菜にとって、安心する自分だけの場所である。
*
お悩み相談所に客が入ってきた。金髪に青い目、すらりと伸びた手足。
「スミマセン。ツヨイヒト、イマセンカ」
白人男性が、羽織纏を見るなり言った。
「どういうご用件でしょうか?」
「ツヨイヒト。ツヨイオンナノヒト」
どうやら、彼はここを結婚相談所だと思っているようだ。
「纏さんはある意味強いですけどね」
細川太がぽつりと言ったのを聞き逃さず、
「余計なこと言わない」
と纏は太の横腹を突いた。
纏は流暢な英語で、「ごめんなさい。ここは結婚相談所ではないの」と白人男性に伝えた。
「ソーリー」
彼は申し訳なさそうに退出していった。
*
陽菜は三本の缶ビールを空にした。
「あれ、ない」
買い置きがあると思っていたが、冷蔵庫にはない。
「しょうがない。コンビニに行くか」
陽菜はコートをはおり、マンションを出た。外は寒く、三月とは思えない気温でぶるりと震える。
(さっさと缶ビールを購入して戻ろう)
5メートルほど歩くと、酔っ払いと思われる中年二人が対面で歩いている。一ヶ月前の出来事を思い出す。
「くっせ。誰か漏らしたか?」
陽菜が通り過ぎた刹那、酔っ払い男性グループが叫んだ。あの時のような苦々しい思いは嫌だ、と彼女はコンビニまで遠回りすることに決めた。
これが不運の始まりだった。慣れない道を通ったことによって、街灯が乏しい道になり、迷ってしまう。昼間のしらふの状態であれば起こらなかったアクシデントだ。
「あれ、なにここ?」
一軒だけ煌々と明かりがついた建物があった。外観は骨董屋ふうの意匠だが、入り口の看板には『お悩み相談所』と書かれている。
「すみませーん」
道を尋ねようと思い、陽菜は建物に入る。
「はい。なんでしょうか」
対応した人物を見て、陽菜は愕然とした。長い艶やかな黒髪の美少女で、佇まいは楚々としている。まるで、自分がドラマの世界に迷い込んだような錯覚をした。
「お悩みって、どんな内容でも聞いてもらえますか?」
コンビニまでの道程を聞くはずが、少女に気圧されて違う言葉を放つ。
「えっと、実は……」
陽菜は不思議がった。少女は目の前に自分がいるのに、まったく体臭を気にしていないようで、顔をしかめる素振りがない。
「気になりますか? そんなにも、ご自身の匂いが」
少女に指摘され、陽菜はまごついた。
彼女は小瓶を陽菜に渡す。小瓶には噴射式のノズルがついており、中の液体を吹きつけると体臭や口臭などが消えるという。
「スットキエールです」
商品名を言うと、彼女は何故か建物奥にあるゲージに向かった。中にはスカンクがおり、スカンクに液体を吹きつける。
「嗅いでみてください」
陽菜は訝しげにスカンクに近づき、嗅いでみる。――無臭だ。
*
翌朝。
リビングの窓を開け、ベランダに出る。爽やかな風が吹き、陽菜の頬を撫でた。
昨夜の出会いは不思議な体験だった。変な勧誘に引っかかったかなと思いつつも、今朝から早速スットキエールをつけてみた。臭いは消えていなくても、おまじない程度のプラシーボ効果はあるのではと前向きに捉える。
小瓶のラベルには『効果は一日。ワンプッシュ程度にし、つけ過ぎ注意』と書いてある。内容物の詳細は書かれておらず、怪しい商品であることは間違いなさそうだ。
「おはようございます」
部屋を出ると、マンション管理員が清掃作業をしていたので、挨拶をした。
「えっ。あっ。おはようございます」
管理員は不思議そうに首を捻っていた。顔を合わせれば挨拶程度はいつもしているのに、今朝は何かタイミングがまずかったのだろうかと陽菜は思う。
誰かが通り過ぎるたびに違和感があったのだが、その正体が何か気づいた。通行人は陽菜を避けたり、苦渋の表情を作ったりなどしない。彼女が発する臭いを感じていないようだ。
(本当に効果がある!)
さきほどまで半信半疑だったが、陽菜は効果を信じ、小躍りしたくなる。人々の反応が明らかに違うからだ。
無臭になったことによって、業務はスムーズになる。
ミーティング中に不快な表情をされることがなくなり、臭いを気にして席の末端に座る必要もなくなった。場の雰囲気もよくなり、いつも以上に意見がでやすいように感じる。
ランチの時間。普段は会社近くの公園でコンビニ弁当を黙々と食べていたが、今回は違う。体臭を気にしなくてもよいので、美味しいと噂のイタリアンレストランに入ってみた。
「おいしい」
噂通りで、陽菜は舌鼓を打った。些細なことだが、この幸せを噛みしめて、目から涙が零れる。
「大丈夫ですか?」
心配してくれたのか、男性の店員が声をかけてきた。
「すみません。平気です。このジェノベーゼ、おいしくて」
陽菜が感想を述べると、
「厨房に、お客様が泣いて喜んでいたと伝えておきます」
店員は爽やかな笑顔を返し、陽菜のグラスに水を注ぐ。
(こういう会話も、臭いがあったら成立しないんだろうな)
陽菜はスットキエールと謎の美少女に感謝した。
夕方に退社する際、同僚の
「なに?」
「あ、ごめん。これ、セクハラになるかな」
三島は申し訳なさそうな表情をした。
「気にしてないわ。それより、何か用?」
「以前伝えていた本社の人間、来週くるらしいよ」
陽菜の勤める会社は外資系企業で、本社はアメリカ合衆国にある。
「あら、そうなの。ありがとう。教えてくれて」
三島はまだ何か言いたげだったが、陽菜はさっさと会社を出てしまう。
「今日は久しぶりに、バーで一杯飲もうかしら」
外で一人酒を楽しみたい気分だ。
*
スットキエールを使い始めて四日が経った。
陽菜は毎日のようにバーで一杯嗜んでから帰宅する生活をしていた。仕事も対人関係も順調で、以前のような暗い表情はなくなり、笑顔で過ごしている。
店を出て夜道を歩いていると、後方から足跡が聞こえた。
(なに?)
相手に気づかれないようにそろりと確認すると、十メートルほど離れて若い男性三名がつけてきていた。二人はキャップを目深に被り、一人は黒のサングラスをかけており、明らかに怪しい風体だ。
歩行スピードをあげると、男性三名も同じく速度をあげる。明らかに尾行だ。
陽菜は立ち止まるフリをして一度停止すると、次の瞬間、駆けだした。
「待て!」
男たちが追いかけてくる。陽菜は体臭が原因で男性が寄りつくことはなかったが、外見は中の上だという自負があった。彼らは暴行を働く気なのだろう。陽菜は全速力で走る。
駅までは距離があるので、途中で角を曲がり、すぐさま雑居ビルの間に身を潜めた。若い男たちはきょろきょろと辺りを見回し、陽菜を探す。
「どこ行った?」
「探せ!」
このまま隠れていれば大丈夫だろうと思ったが、足元に猫がいた。体臭があった時に動物たちが近づくことはなかったが、今は無臭なので猫は無遠慮に陽菜の足にまとわりついていた。
「あっちにいって」
陽菜は手で制するが、猫は去らない。ニャアと鳴き声を出した。
「おい、ここにいたぞ!」
男たちに見つかった。ビルの隙間の奥は行き止まりなので、逃げることができない。
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