妻子に会いたい男。柚木崎郁夫(後編)
けたたましいアラーム音で目が覚めた。
前日のように不快感はなく、爽快感がある目覚めだった。
郁夫はゆるりとヘルメット状の機器を脱いだ。どうやら、睡眠をとると現実に戻れるシステムのようである。
(ということは、寝る前にしか使えないな)
郁夫は思考を巡らせた。自分のように現実や過去のトラウマで不安感や恐怖心でいっぱいになり、安眠できない人間のために作られたものだろうという結論に至った。
スマートフォンのアラート機能を止めると、郁夫はDF機器を仔細に見た。どういう構造かは理解できないが、この疑似体験は彼の想像を凌駕しており、何にも替えがたい内容だ。
郁夫はまたしても泣いていた。恋愛ドラマや大人向け動画を観るよりも何倍も充足感がある。
「今日、頑張って働いて、また夜に使おう」
郁夫はいつもより手早くアルバイトに出掛ける準備をした。
*
**
***
二週間後。
郁夫は再び羽織纏のもとを訪れている。道のりはわからなかったが、闇雲に歩くことによって、奇妙な骨董屋風の建物に着くことができた。
「調子はどうですか?」
纏が聞いた。
「おかげさまで、いい感じです」
郁夫は前回会った時よりも肌艶が良くなっている。
「それで、今回はどのようなご用件で?」
纏は首を傾げた。
「その、例の機器なのですが……」
「はい」
「もう少し、お貸していただけないでしょうか。あと一ヵ月くらいは」
郁夫はおずおずと言った
「はい。よろしいですよ。一ヵ月でも一年でも無料でどうぞ」
「えっ! 本当ですか? ありがとうございます」
金銭を要求される覚悟だったが、予想外な返答で郁夫は驚く。用件は使用延長の許可のみなので、郁夫は椅子から腰を浮かせた。
纏と太は会釈する。
「気をつけてお帰りください」
「本当にありがとう!」
二人は建物の外で、意気揚々と歩く郁夫を見送っていた。
徐々に小さくなる背中を見ながら、太が言う。
「計画通りですね」
「ええ」
纏は蠱惑的に微笑んだ。
*
**
***
一月後。
郁夫はDF機器を見つめながら嘆息する。
家族への想いが強くなっていた。実物の愛美と息子に会い、この指先で感触を確かめたい。
また、機器への不満感がある。八年前という設定なので昔の職場が出てくるのは当然なのだが、そこに妻の浮気相手かつ取引先のあいつが登場してくるようになっていた。一度ならず、何度も出てきており、頻度は高くなっているように感じていた。
(そろそろ、返品かな)
この機器に登場する妻子には充分満足したが、その分、現実に戻ると虚無感に襲われるようになっていた。
*
郁夫が呆けた顔でティッシュ配りのアルバイトをしていると、鼓動が高鳴る出会いがあった。
「ま、愛美……」
すれ違った女性が元妻にそっくりだ。一瞬、見間違えかと思ったが、DF機器で繰り返し見た顔は彼女そのものだった。
郁夫はティッシュを街の片隅に放り投げ、彼女の跡をつけて行く。腕時計を確認すると、時刻は十一時だった。現在小学生の陸人は学校で、その合間に買い物でもしているのだろうか、と郁夫は考えた。
しばらく、彼女の跡をつけていると、その考えは違っていることに気づく。彼女は男と駅前で落ち合い、腕を組み始めた。
郁夫は歯ぎしりした。DF機器で何度も勝手に登場した顔は覚えがあった。
(妻の不倫相手のあいつだ……)
カップルは数分ほど歩いたところで、賃貸マンションらしき建物に入っていった。じっくりと観察し、彼らが何階の何号室に入るかを確認する。
郁夫はマンション住人と思われる中年男がオートロック式のエントランスに入る時、同じく住人を装ってマンション内に潜りこんだ。中年男は非難めいた表情をしたが、郁夫を責めることなく、ロック解除の手間を省いた住人だろうと解釈したようだ。
エレベータに乗り、目的の階層である四階で降りた。端の部屋まで歩いた。カップルの入った部屋だ。
ピンポーンと呼び出しボタンを押した。
「はーい?」
不興げな女の声が返ってきた。
「宅配便でーす」
ドアスコープで正体がバレないように目を伏せながら言った。ドアチェーンが外され、玄関が開く。
「あの、部屋を間違えていませんか」
戸惑った女の顔が見えた瞬間、郁夫はドアに足を突っ込み、閉まらないようにした。
「愛美!」
郁夫は叫んだ。何度もDF機器で再会した顔だ。間違いない。
「ひい!」
女は後退した。
「どうした?」
部屋の奥にいた男が慌てて駆けつける。
「し、知らない男が」
女が郁夫を指差した。
「何を言っているんだ! 愛美!」
郁夫は女の顔を見つめて叫んだ。
「こいつ、お前の騙した男か?」
男が女に聞いた。
「し、知らないわよ! こんな男!」
*
夕方のニュースをアナウンサーが伝えている。
「本日の昼頃、都内のマンションで男女二名が死傷する事件が発生しました。被害者の男性は市川直樹さん、女性は谷村弘子さんと思われます。警察が現場に駆けつけると、血まみれの男が意味不明なことを口走っており――」
*
*
*
「本当にありがとうございました」
「いえいえ」
と纏は応じた。
「ほんと、なんと言っていいのやら……」
愛美は言葉に詰まった。
「予想以上にうまくいってよかったですね。想定では、もう少しかかる予定でしたが」
太が言った。余計なことを喋るなとばかりに纏は彼の腹を小突く。
「お手数かけしました」
愛美は再度お辞儀をした。
「いえ。愛美さんが元夫の柚木崎郁夫からストーカー被害にあっていると聞いて、居ても立っても居られなかったので対処しただけですよ」
纏は胸を張った。無い胸を張らなくてもと太は思ったが、視線に気づいた纏が睨む。
二ヶ月前。
愛美が骨董屋風の店に駆け込む。
「助けてください。元夫がストーキングしているんです」
元夫の郁夫が愛美にストーキングしていること。元夫は家庭内暴力を振るうタイプで、何をされるかわからない恐怖を切実に訴えた。
郁夫の暴力に悩んでいた愛美は知人男性に相談していた。それが郁夫の取引先社員かつ現夫でもある
嫉妬深い郁夫が勘違いし、暴力が激化し、その暴力は浩市にも向かっていった。夫婦仲は修復することなく離婚に至る。
「それならば」
纏は提案する。
「別人を、愛美さんや浩市さんと思いこませてみるというのはいかがでしょうか?」
「えっ? そんなこと、可能なのですか?」
愛美は困惑した。
「可能ですよ。これを使えば」
纏は太が持ってきたDF機器を見せた。
「ここにDFって書いてありますよね。ディープ・フェイクの略称で、簡単にいうと他人の顔を合成した映像を見せることができる機器です。これで顔を誤認識させ続けます。リアルリティが市場に出回っているものとは全然違いますよ」
「へえ」
と愛美は納得しかけたが、
「でも、見慣れた顔が違う顔になっている別人だって、わかりませんか?」
当然の疑問を言った。
「大丈夫です。郁夫さんには、毎日これを使ってもらいます。スタートは愛美さんですが、そこから徐々に他人の顔に変えていくんですよ。これだと、バレずに、まったく違う人物をあなたと認識するようになります。それに、これに夢中な間は、ストーキング行為もなくなると思いますので、ストーカーを再開する頃には顔がわからなくなっていますよ」
纏の微笑みに不気味さを感じ、愛美の肌は粟立つ。
「でも、大丈夫なのでしょうか? 見ず知らずの人間に悪意をぶつけるようなことをして」
愛美はおののきながら尋ねた。
「大丈夫ですよ」
纏はあっさり答える。
「その別人さんたちは、結婚詐欺をやっているカップルですから、誰も悲しまないと思います」
纏は冷笑した。
そこに悪魔的なものを感じ、愛美は戦慄した。
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