妻子に会いたい男。柚木崎郁夫(前編)
八年前に戻ることができれば、どれだけ嬉しいだろうと
八年前は妻子がいて、贅沢はしないけれど貧しいなりに生活に潤いがあった。子どもは当時三歳の可愛い盛りで、愛おしくてしょうがなかった。
(その全てをあの男が奪った)
郁夫は自分の幸せを奪った男を思い出し、顔を歪めた。
(あいつさえ、あいつさえ、いなければ)
*
郁夫は現在フリーターで、その日暮らしをしている。会社である失態をしてしまい、八年前に会社をクビになっていた。
「くそっ」
ティッシュ配りのアルバイトの後、彼はコンビニエンスストアの駐車場に座っていた。独りで缶ビールを飲み、生活やアルバイトの愚痴をブツブツと呟いていた。
金銭的余裕がないので、居酒屋に入らず、おつまみも買わない。缶ビールやチューハイを購入するだけだ。
「どいつもこいつも馬鹿にしやがって」
八年前の仕事を退職して以来、郁夫は次々と職を変えている。同じ職種に就こうとするが、暴力を振るったという事実は界隈で広まり、再就職はままならない。
近くのスーパーマーケットで働いてみるが、慣れないレジ操作や品出しを年下から馬鹿にされ、辞めてしまった。今日のティッシュ配りも、通行人から見下されている感覚があった。
「あのお客様」
三十分ほど居座っていると、コンビニ店員が冷めた表情でいさめる。
「他のお客様のご迷惑ですので……」
郁夫は無言で睨みつけ、舌打ちをして去った。
しばらく、ふらふらと歩いていると、いつの間にか見慣れない風景の場所にいた。
「ここはどこだぁ?」
郁夫は呂律がうまく回らない。通行人がぎょっとして振り返った。
「ん?」
彼は目を凝らした。日付が変わりそうな時間にも関わらず中学生のような少女が立っていたからだ。
「お嬢しゃん、こんな時間に何をしゅているんでしゅか?」
郁夫は尋ねた。身なりといい喋り方といい不審者でしかない。
失うものは何もないので、他人からどう思われようと彼は構わなかった。
「あら、こんばんは」
少女はニコリと笑った。郁夫はハッと息を呑み、少女の美しさに見惚れる。性的なものを感じさせない妖精のような美しさの少女だ。
「私、羽織纏と申します。よろしければ、そちらの建物で酔いをさましませんか?」
纏は骨董屋風の建物を指差した。丁寧だが威厳を感じる言葉だったので、
「はい」
と彼は応じた。
建物の中では、三角巾を被った高校生らしき少年が懸命に掃除をしている。
「いらしゃいませ」
「こちら、
纏が少年を紹介した。
「あ、どうも」
郁夫は会釈した。この建物や少年少女がまとっている独特な雰囲気で、彼は酔いがさめつつある。
この空間はなんなのだろうかと建物内部を見渡していると、
「お座りになって」
と促されたので、郁夫は素直に従った。
「どうぞ」
太が二人分のティーカップを置いていく。まるで自分が来ることを予見していたかのような早さだな、と郁夫は不思議に思った。
「あの、ここはどのような組織ですか?」
郁夫の問いに、纏は微笑みを返す。
「宗教団体とか、いかがわしい風俗店とか、ぼったくりバーとかではないので、安心してください」
「はあ」
「ここはお悩みを聞いて、その悩み解決に最適な道具を提供する場所ですわ。見た目は若いですが、一応、私がカウンセラーをやっております」
纏は名刺を差し出した。『カウンセラー 羽織纏』と書かれていた。
「お悩みはありますか?」
彼女は少し身を乗り出して聞いた。
「悩みというか、心の辛さになるのですが……」
郁夫は自分の過去を話し始めた。
「八年前です。あいつが現れたのは」
酔いのせいで口が滑るのだろうか。それともこの少女がもつ魔力なのだろうか、と郁夫は思いながら喋る。
「私には妻と子供がいました。子どもは当時三歳でした。裕福ではないが、平和な家庭でした」
纏は無言で頷いた。
「その妻が浮気をしたのです。私は怒りと悲しみに打ちひしがれて、家庭は無茶苦茶になりました。結局、離婚することになりましたが……。あの男のせいで」
郁夫は拳を硬く握っていた。思い出すだけで、はらわたが煮えくり返る。
「その男が、なんと私の取引先の社員だったのです。ばったりと出くわして、私は思わず殴ってしまい、責任を取って会社を辞めることになってしまいました」
郁夫の目からは涙があふれていた。
「あなたは復讐したいのですか?」
纏が尋ねると、郁夫は首を振る。
「家庭も会社も奪ったあいつに復讐したいですが、それよりも、あの時に、平和だった八年前に戻りたいです」
「そうですか。それならば、こちらはいかがでしょうか」
いつの間にか、纏の隣に太が立っていた。彼はヘルメットのようなものを持っている。
「最新のバーチャルリアリティー機器です。装着時に、八年前に戻って、愛と平和に満ちた日々を追体験できます」
纏はそのヘルメットのような機器を郁夫に渡した。ヘルメットの前頭葉にあたる箇所には『DF』という文字が刻まれていた。
*
翌朝。
けたたましいアラーム音で目が覚める。音のもとはどこかと探っていると、郁夫は枕の下にあるスマートフォンを発見した。
昨夜はアルコールが原因と思われる睡魔に襲われ、帰宅後にシャワーを浴びることもなく、彼はそのまま敷きっぱなしの布団で横になっていた。
郁夫は舌打ちした。今日は仕事がなく、休みの日だ。二日前に設定したスマートフォンのアラート機能を解除していなかった自分を忌ま忌ましく思う。
(昨日のあれは何だったのか)
郁夫は居間のテーブルを確認した。そこには、美少女から貰ったDF機器が置いてある。
「見た目はヘルメットだが」
手に取り、まじまじと眺めた。サンバイザーみたいようなものがついており、装着したあとに下ろすのだろう。右耳にあたる部分には起動スイッチらしきものがあった。
(八年前に戻れるなんて、そんな馬鹿な)
郁夫は苦笑した。あの建物の中では独特な場の空気があり、気圧されていたが、酔いのさめた現在は冷静になっていた。
「どうせ、暇だしな」
頭に被ってみたところ、何も変化が起きない。郁夫はサンバイザーらしきものを下ろし、右横についているスイッチを押した。
刹那、ぐあんぐあんと眩暈のような揺れを感じた。
「なんだこれは」
慌てて外そうとするが、頭や顎に機器がしっかりと密着していて外せない。
*
郁夫は唖然としていた。
「どうしたの? 不思議そうな顔をして」
目の前に郁夫の元妻の
「お前……本当に、愛美か?」
郁夫は恐る恐る尋ねた。頭に機器を装着している感覚はなく、自分の顔も手もリアリティがあった。
「なにそれ? 働きすぎで、おかしくなっちゃった?」
彼女は愉快そうに笑う。
郁夫と愛美がいる場所は見覚えがあった。八年前に一緒に暮らしていたマンションそのものだ。部屋やキッチンの配置、愛美が飾ったタペストリーなど、まるでタイムスリップしたかのように似ていた。
彼は壁にかかったカレンダーを確認した。2016年8月になっている。
「ああ……」
郁夫は感激し、涙がこぼれそうになった。
「本当に、どうしたの?」
愛美は彼の顔を覗き込んだ。
「な、なんでもない」
郁夫はスーツの裾で顔を拭い、涙を誤魔化した。
「疲れているなら休んでいて。寝室で
愛美に促され、郁夫は寝室にそろりと入る。ダブルベッドには、すやすやと寝息をたてている幼少期の息子の姿があった。
彼は感涙した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます