第4話 夢を追う羊と変わらない町


「ふぅー、今日はここまでかな」

 目頭を押さえ、ブルーライトカット眼鏡を外す。マグカップに残っていたコーヒーを飲み干す。

「うっ、まずっ…… 」

 ぬるくなったコーヒーは、なぜこうも不味いのだろうか。

「あっとデータ保存、保存っと」

 前に保存するのを忘れて、全原稿データが消えたという悲惨な思い出があるので、それを教訓にして、毎回保存してバックアップを取るようにしている。

「作家にとってデータは命と同義だからな…… 」

 バックアップを取り、パソコンの電源を切る。アイマスクをして、床に就く。

「なんか忘れているような…… なんだっけ」

 明日の打ち合わせは手帳で確認したし、メールも全て返した。

そういえば、トイレットペーパーが切れるんだった。明日買いに行かないと。

辺り一面、真っ白空間に俺は立っていた。

目の前には少女が立っていたが、顔には靄がかかって首から下しか姿が認識できない。

「君は、誰だ…… ?」

 少女に問いかけるも、答えることなく、ただそこにとどまっている。

少しすると、少女は消えていった。


 2

 

「……… 変な夢だったな」

 枕は汗でびっしょりだった。窓を開けると、蝉時雨が聞こえる。

冷房を付けずに寝てしまったから、変な夢を見たのだろう。

一つの物事に集中すると、それ以外は見えなくなるのが俺の悪い癖だ。

次からは、付箋にメモするなりしよう。

まだ、初夏だというのに真夏日並みだ。立ち止まっていても汗がダラダラ流れ出る。

額の汗を拳で拭う。服を脱ぎ、浴室へ向かう。

 シャワーで汗を洗い流す。

思考がクリアになっていく。

今日は打合せが午後からで、その後は予定が何もないので、原稿の続きができる。〆切も近いので急がなければ…… かといってクオリティーを下げて間に合わせるのはごめんだ。

「作家ってのは、辛い生き物だよなぁ」

 でも、それを選んだのは自分だ。泣き言は言っていられない。

原稿の続きを思案しながら、浴室から出る。

タオルで頭を拭いていたら、インターフォンが鳴る。

画面を確認すると、担当の小牧が立っていた。

「先生~! おはようございます~!」

「…… 打ち合わせはまだですけど」

 時計を見る。今はまだ、朝の八時だ。打ち合わせは午後十三時からのはずなのでかなり早い。

小牧に限って時間を間違えるなんてことないはず、だが…… 。

「いや、打ち合わせの前に先生とお話したいことがありまして、ですね~!」

 猫のような細い目で満面の笑みを浮かべている。

小牧がこの表情をするということは何かい

いことがあった証拠だ。

「まあ、とにかく中に入ってください」

 鍵を開けると、ニタニタした笑みを浮かべる小牧が家の中に入ってくる。

「で、話ってなんなんです?」

 小牧は、俺の言葉を待っていましたと言わん勢いで大仰に手を広げる。

「ふふーん、実はですねデビュー作の“世界よりも君を選ぶ”がアニメ化決定しました!」

 どこらかともなく取り出したクラッカーを鳴らす。

俺の書いた物語が映像になるのか? 本当に?

「え、アニメ化?本当に?噓じゃないんだよな、小牧さん」

「ああ、本当さ! 僕もさっき知ったばかりで、いても立ってもいられなくて先生のところに来たんだよ!あと、ついでにコンビニでクラッカー買った」

 クラッカーはついでなのか。まだ信じられなくて、夢なんじゃないかと疑いたくなる。

 頬をつねってみると痛みを感じる。うん、現実だ。

「随分と古い確認の仕方だね」

「うるさいやい! で、そのアニメ化っていつ開始?」

 頭に乗っかっていた紙吹雪を手で払いつつ小牧の様子を伺う。小牧はスマホで何かを打ち、

俺に見せてくる。

小牧と偉い人とのメッセージのやり取りだった。

「まだ、メッセージだけで正式な発表はまだだけど、来年の夏にアニメ化予定で、制作会社はニトロだ」

「ニトロってあのニトロ?!」

 一オクターブ高い声で聞き返す。ニトロと言えば、数々の覇権アニメの制作をしている会社であり、納期には必ず間に合わせ、高いクオリティーを出すので有名な会社だ。

自分の創作物を、ニトロで映像化してもらう。創作するものであれば誰しも抱く夢だ。

「現実なんだよな」

「ああ、現実だよ。先生の書いた作品にそれぐらい期待しているってことさ」

「ああ…… 」

 舌が張り付いて上手く言葉が出て来ない。俺の書いた物が認められたのか。

「米国の大統領が先生の本を読んで、感想を日本語で送ってくれたのも大きかったんじゃないかな」

「そんなこともあったな」

 今の米国の大統領は、日本文化が好きで、映画や本を翻訳せず原文のまま読んでいる。たまたま俺が書いた本も読んでみたら、とてもよかった。もう一度人を信じてみる。と書かれた手紙が俺宛てに届いたのだ。

当初、俺は大袈裟な…… と思っていたが、俺の文章は本当に人を変える何かを持っているのかもしれない。大統領からもらった手紙は机の一番下に鍵を掛けてしまっている。

小牧には、そっけない風に言ったが、あの手紙のことを忘れたことはない。

どんなに苦しくて、辛い時あってもあの手紙を見れば初心を思い出せる。

誰かの心に響く物語を書くこと。それをずっと目標に書いてきた。

「届いていたんだな、俺の言葉」

 制作会社がニトロなのは嬉しいが、何より嬉しいのが、俺の頑張り、ここまでやってきたことが肯定されている気がした。

「良かったね先生。あの時、筆を折らなくて」

「ああ、そうだな」

 あの時、幼馴染の子に「小説なんてつまらないもの書いていても仕方ないじゃない」と言われて、俺の心は壊れそうだった。

好きだった子に否定され、自分がなんなのか分からなくなった。

小説家になったことを後悔しそうになった。このまま逃げてしまおうかとさえ思った。

 だけど、それはしなかった。不思議な感覚だけど、それを願ってはいけない、書き続けなくちゃいけない。胸の中のそんな想いと、ファンの人達の手紙を読んで、俺は二年間書き続けた。幼馴染の子の顔と名前は未だに思い出せないけど。

「ここまで来たんだなぁ」

 紫煙を吐き出すように、しみじみと呟く。

「先生、まだまだここがスタートラインですよ!」

 小牧はいつもの担当モードになる。

「ああ、そうだな。で、小牧さんはこれからどうするんです?」

 俺も作家モードに切り替える。

「そうですねぇ。張り切って来たのはいいものの、次の仕事まで一時間あるんですよね。会社に戻って、行くとしても二度手間だし……一時間だけここにいてもいいですか?」

「まあ、いいですけど。でも時間に計画的な小牧さんともあろう人が珍しいですね」

「それぐらい嬉しかったんですよ。先生の作品がアニメ化されるってことが」

 普段なら、絶対そんなこと言わないことをサラリという小牧の言葉に呆然とし、口が半開き状態になった。

「ちょっと~! 先生~! その反応は傷つきますよ~!」

「いや、びっくりしてさ。その、ありがとうございます」

 恥ずかしくて語尾が徐々に小さくなる。それを見て、小牧はニヤニヤしている。

「あー! そうだ。俺は原稿の続きをするので、小牧さんはどうぞご勝手にくつろいでいてください!」

「せっかくの祝いだし、一日くらいサボっても大丈夫ですって~」

 担当編集がそんな悪魔のささやきをしていいのか。

「いや、俺の物語を待っている人がいる限り書かないと」

 今さっきの小牧から聞かされたアニメ化決定で、俺は理解した。俺は期待されているんだ。

だからこそ、こんなところでサボってはいけない。

もらったものを返すためにも、いつ如何なる時でも書き続けなくちゃいけないんだ。

それが小説家だから。

「それでこそ先生です。では、私はここでのんびりしていますので」

 コイツ、わざと発破をかけたな。そういう手腕が敏腕編集者と言われる所以なんだとうな。

「うん、俺は自分の部屋にいるから」

 返事を待たずに俺は自分の部屋に戻る。

「さて、どうしたもんかね」

 書き続けるとは言ったものの完全に行き詰っている。

「……… ネタ帳でも見るか」

 こういう時のためにネタを書いたデータがパソコン内にある。ほぼ日記みたいなものだが。

「ああ、そういえば、メールチェックしないとな」

 毎日の朝はメールチェックから始まる。通販サイトからのメルマガ、クレジットカードの明

細書などが届いていた。

「他はなしか」

 何気なく、迷惑メール欄をチェックすると、二年前のメールが届いていた。

件名から察するに俺のファンの子からみたいだ。

「どれどれ…… 」

メールを読んでみる。

【こんにちは、私は先生の作品が大好きです。でも、周りは先生の作品を知らないのが悲しいです。私は先生の書く物語のファンです。もっと、もっと先生の世界を見てみたいです。だけど、それは叶いません。私は昔から身体が弱く入院、退院を繰り返していました。薬を飲んで頑張ってきましたが、医師の人に余命幾ばくも無いと言われました。

死ぬのは怖くないです。ただ、先生の物語が見られないのが心残りです。なので、もし先生さ

えよければ、少しでも先生の物語が見たいです。ワガママ言ってごめんなさい。今まで生きてきていいことがなかった、だからこそ最期に私のワガママを叶えて欲しいです。

ペンネーム朱夏シオン】

 ペンネームの名前を見た瞬間、心臓がドキンと跳ねた。

なんだ、この感覚…… 懐かしくて暖かい…… どこかで、聞いたことがある気がする。

「最近、何かを忘れていた感覚はこれか…… ?」

 朱夏シオン…… 名前を反芻してみるが、思い出せない。

「いや、そもそも俺は二年前に来ていたメールにも気付かず、この子の最期の願いにもこたえ

ることができなかったのか…… 」

 二年前は、俺は小説家を諦めかけていた時だ。

「余裕がなくて、迷惑メールも見る暇さえなかったのだろうな」

罪悪感が肩に重くのしかかる。なんとかして思い出そうとするも、記憶に鍵が掛かっている。

「くそっ、どうすればいいんだ…… 」

 ピンポーン! 思考を打ち消すかのようにインターフォンが鳴る。

「誰だ…… ?」

「あー、大丈夫! 僕が出ますので! 先生は引き続き原稿を続けてください!」

 いや、原稿は書いてないんだけどな。

玄関の扉が開く音が聞こえた。

小牧の叫び声が響き渡る。

俺はすぐに立ち上がり、玄関の方へ向かう。そこには腰を抜かして動けなくなった小牧と、無精ひげを生やした刑事が銃を持って佇んでいた。

「だ、誰だアンタ!!」

刑事は鋭い目つきで俺を睨んでくる。

「金元椿、お前に用がある。お前は帰れ」

「い、いや僕は先生を守る…… !」

 小牧の足はガタガタと震えつつも、俺の前に座り手を広げる。

「意志は大変ご立派だが、腰が抜けていたら何もできんよ。大人しく帰れ」

「そ、それはできない! 僕が帰ったら、先生を殺す気だろう!」

「それはしない、俺はコイツと話がしたいだけだ」

 俺はこの刑事のこと知らない。だが、どこかで見覚えがある。

「じゃあ、僕はここにいます」

「それは駄目だ。帰れ」

 刑事は小牧に向かって銃を突き付ける。

「ひいぃ…… !」

 小牧は情けない声を出して、後ずさる

「小牧さん、大丈夫。ここは俺がなんとかするだから行ってくれ」

「でも」

 小牧は不安そうに俺のことを見つめる。それに対して親指を立てるジェスチャーをして、安

心させる。

「大丈夫。俺を信じてください。ただ、話すだけですよ」

 目の前の刑事。目つきは悪いし、圧も凄いが、殺意は感じ取れない。銃もこけおどしだろう。

「分かった。死ぬなよ…… 」

小牧は、しゃがみ込んだままドアノブの取っ手を握り、外へと出て行った。

「さて、お前、俺のこと覚えているか?」

「多分、会ったことないと思いますけど、あなた誰です?」

 こんな奴、一目見たら忘れないだろう…… だけど、さっきから胸の奥がもやもやしている。

あのファンレターと、この刑事。見たことはないはずだが、既視感がある。

「やっぱり、覚えてないか。まあ、今から思い出させてやる」

 刑事が手を伸ばして、俺に近づいてくる。俺は後ろに下がる。

「な、なにをするつもりだ!」

「だから、言ったじゃないか。思い出してもらうって。ただ、この手で頭を触るだけだ」

 敵意は感じられない、乗ってやるか。

「分かった。でも変なことしたら直ぐに通報するからな」

「おかしなことを言うんだな、俺は警官だぞ」

「そんな噓、誰が信じるってんだ。その制服も偽物で、何か目的があってここに来たんだろ!」

 ポケットの中で、スマホで操作をしつつ目の前の刑事を威嚇する。

「目的は、お前に思い出してもらいたいだけさ」

刑事は、強引に俺の頭を鷲掴みにする。

「な、なにを!」

瞬間、脳のシナプスが活性化され、繋がった。

加奈、ブーケンビリア、そして目の前の刑事。

忘れてはいけないことを、俺は忘れていた。

「俺は、忘れてはいけないことを忘れていた…… 」

「やっと、思い出したか」

 目の前の刑事はニヤリと口角を上げた。だが、この刑事は俺達のことを追っていたはずだ。

なのに、なぜ?

「今、お前は不思議に思っているな。目の敵にしていた俺が何故、味方をしているのか」

 怪訝な表情で、刑事を見つめる。

「…… 元はといえば、俺がお前達を追い込んだ結果でこうなってしまった。申し訳ないと思っている」

 刑事は頭を下げた。

「なんで、俺達を追い詰めた刑事が心変わりしたんだ!」

「俺の家族は麻薬中毒者に殺された。それ以来、薬物をしている奴を見ると、あの時の気持ちが燃え上がってきて、周りが見えなくなる。お前も、きっと薬物をやっていると違いない決めつけてしまった。その結果、あの少女を殺してしまった。本当に申し訳ない」

 刑事は、頭を下げたまま滔々と語る。それなら、なんでもっと早く、気付かなかったんだ。

なんで、なんで! そうしたら加奈は死なずにすんだのに!

奥歯を嚙みしめながら、刑事を睨みつける。

「なんで、俺の中に加奈がいることを知っているんだ。なんで、最初から間違いに気付けなかったんだ!」

 刑事の頭に向かって怒鳴る。なんで、なんで今更来たんだ。

「すまない。本当にすまない。市民を守る刑事がこんなこと…… 」

「分かっているなら、最初からそうしろよ! それになんで今更になって来たんだ!何が目的なんだよ! いい加減頭上げろよ!」

 怒りで刑事の後頭部を殴ってしまう。刑事はよろけて、倒れる。

「復讐は心を蝕む…… 」

「ああ?!」

 俺はもう一発、刑事を殴った。公務執行妨害とかどうでもいい。今はこの感情任せにコイツを殴りたい。

「俺は、お前達を見てきた。そこでお前の中に少女の人格があることを知った。お前と共にあの戦争状態の世界を見て、復讐心もなくなった。そして、如何に自分が酷いことをしてしまったか気付いた」

「だからなんだってんだよ!! そんなこと知るか! 加奈はもういないんだ! もう戻らないんだ!」

拳を強く握り締め、もう一発刑事を殴ろうとすると、刑事が口を開く。

「もし、戻す方法があるって言ったらどうする?」

「は? そんなことあるわけ…… 」

 口ではそう言いつつも、期待している。拳を握る手が緩む。

「俺達は未来改変者だ。未来改変者は自身の意志で過去にいける」

 そうだった。加奈に説明されたんだった。いや、待て、今この刑事俺達って言ったか?

「待て、俺達?」

「ああ、俺達だ。不思議に思わなかったか?改変された世界なのに改変前の記憶を持ちつつ、

記憶の譲渡できる。それは未来改変者だけだ」

 刑事の言い方にイラッとしつつも、納得できた。

「未来改変者は俺だけだと思っていた…… そもそも記憶の譲渡なんてできるんだな」

「ああ、俺もそれはさっき教えて貰って知った」

「教えてもらった?」

 刑事の妙な言い方に眉をひそめる。

「ああ、いやなんでもない。さあ、君の加奈を救う作戦だが、どうする?」

 わざと話題を変えたな、そもそも無計画かよ。

まあ、いい。加奈を救う方法。朱夏シオン=加奈であることは間違いないと思う。だけど、加奈は医師に余命幾ばくもないと言われていた。それをどうやって救う?

特効薬…… いや、ないからそうなっているんだろ馬鹿か。考えろ、加奈を救う方法がないか考えろ…… 今から過去に戻っても病気を治す方法なんて不可能だ。だったらどうする?

「過去じゃないなら…… 未来から…… 」

 何気なく呟いた一言に電撃が走った。自分でもびっくりした。この方法なら…… 。

「なあ、未来改変者って、過去に行くだけじゃなく未来に行くことって可能か?」

 俺の問いに刑事は、手を叩く。

「そうか、過去で駄目なら未来で、か。考えたな!」

 刑事は、ゴツゴツした手で俺の背中を強く叩く。不快だが、ギュッと我慢する。

「で、可能なの?」

「ああ、理論的にはな。ただ、まだ誰もやっていないから、予想不能のことが起こるかもしれない」

「上等だ。加奈を助けるためならこのぐらい」

 武者震いがしてきた。これで加奈を助けられる。

「なるほど、じゃあ俺も手伝わせてもらうよ」

「…… 癪だけど、今回だけだ」

「ああ、こちらとしてもそのつもりだ」

 俺は憎き相手と握手し、少しの間、協定を結んだ。


 3


「なるほどな、奇想天外な発想だが、面白い」

 刑事は、俺の話を聞きながらメモを取っていた。

「つまり、俺が二年前の過去に戻り、病名が分かり次第、メールで下書き保存する。そして、お前が未来に行って、メールを確認して、特効薬を探す。と、こんな感じか」

メモを見ながら、俺が考えた計画を繰り返す。俺は、頷いた。

自分でも無茶苦茶な作戦だとは思っているが、今はそれしか加奈を救う方法が見つからない。

「もし、特効薬がなかったらどうするんだ?」

「それは…… その時考える」

 痛いところを突かれて、現実逃避をしたが刑事は逃がさない。

「その時に考えて、答えが出るのか?それに未来に行って、今ここに戻ってこられる保証はあるのか?」

 刑事は矢継ぎ早に質問をする。まるで尋問だな、ここでの答えを間違えたら二度と、加奈を救うチャンスは巡ってこない。

「そんなの、分からない」

「はぁ?」

 予想外の言葉に刑事は、素っ頓狂な声を出す。

「分からないからこそ、行くんだよ。分からないからこそ、進むんだよ。論理的に考えるのも必要だけど、そうやって前に進むことが大事なんだ」

精神論もいいところだ。こんなので刑事が納得するわけがない。

でも、俺はやっぱり、この方法しか知らない。

「…… 少女は死に、お前は小説家を続ける。これが正史だ。それを覆しても少女を救いたいのか?」

「ああ」

 俺は即答した。

「そうか…… ああ、いや悪い。お前の気持ちを確かめたかっただけだ。元より計画には乗るつもりだった」

 刑事は髭を撫でながら語る。コイツ、俺を試したのか。

「そう睨むなって、これも必要なことだったんだ」

「はぁ…… もういいよ。じゃあ、行こうか」

「もう行くのか? あの担当に連絡しなくていいのか?」

 そこまで頭が回らなかった。というより、加奈のこと考えるので、いっぱいだった。

「まあ、帰ってからでいいよ。今はとりあえず加奈を救うことが先決だ」

「了解。乗り掛かった舟だ。どこまでも付いていく」

 俺は腕時計の長針と短針を回して、石を取り出す。

「お前も拠り所はそれか、俺のは、妻が買ってくれたネクタイだ」

 刑事は白と黒の縞々模様のネクタイを解き、手に巻き付ける。

「そういえば、名前聞いてなかったな。俺は鳴宮真人だ」

「俺は、金元椿だ」

 俺も自分の名前を告げる。

「ああ、知っているよ」

 鳴宮はニヤリと笑い、目を閉じた。それに倣い、俺も目を閉じて強く願う。

未来へ、今から遠い未来。加奈の特効薬が作られている未来へと。


 4


 目を開けると、そこは薄く暗い廃ビルだった。

「つくづく廃墟に縁があるな」

 愚痴をこぼしながら、出口へと向かう。幸い、出口は直ぐに見つかった。

まばゆいネオンの光が大都会を照らしていた。

「眩しい…… 」

 目を細めながら、ネオンの中心へと向かう。都心部の真ん中なら病院もあるだろう。

「にしても、これが未来か」

 まだ誰にも確認を取っていないが、なんとなくここが未来で、成功したのは分かる。

未来は想像していたよりも。もっと、明るいものだと思っていたがそんなに変わらない。むしろ悪化しているように感じた。廃墟ビルは薄暗く闇、といった感じだがビル群を照らすネオンは光だ。光と闇がこんなにもはっきりと強く現れている。こうも闇と光がしっかり現れている

と早かれ遅かれ、この都心のインフラが機能しなくなり、暴動がおこるだろう。だが、そんなこと知ったことじゃない。

俺は世界を救うために来たんじゃない、加奈を救うために、ここに来たんだ。

誰も何十年先のことなんて考えちゃいない。皆、身の回りの幸せを守ることだけで精一杯だ。

それを心配するのは政治家か、ヒーローの仕事だ。俺はそのどちらでもない。

「ねえ、君。どこに行くの?」

  背後から、女性の声が聞こえる。気配を全然感じなかった。振り返ってみると、黒髪ロングで白衣を着た女性がポケットの中に手を入れて歩いてくる。

「あなた、誰です?」

「私はユートピアの人間アリサよ。単刀直入に聞くわ。貴方、過去から来たわね?どうやって来たの?」

 アリサと名乗った女性は鋭い目つきで、俺を射る。蛇に睨まれた蛙のように萎縮してしまう。

なんで、それを知っている?何者なんだ?

「答えなさい」

 アリサは銃を構えて、俺に向ける。偽物ではないだろうな。この状況下でその可能性は低い。

どうする? 正直に言うか? いや、それで言ったとて、人体実験されるかもしれない。そうなったら加奈と二度と会えない。

「どうしたものか…… 」

「早く答えなさい!」

 考えていたことが口に出てしまった。悪い癖だな。アリサは銃を下げる様子はない。

仕方がない。俺は肩を竦めた。

「アンタの言う通り、俺は過去から来た。だが、俺はアンタ達が何をしたってどうでもいいし、興味もない。ただ、加奈の特効薬が欲しいだけだ」

「特効薬? 病名は?」

 アリサは、ゆっくりと銃を下ろす。

「スマホ、見てもいいか?」

 アリサは頷く。スマホのロックを解除し、メールの下書きを見る。

届いていてくれよ…… 祈りつつ、中を見ていくと件名に【重要!!!】と書かれている下書きがあったので、それを開く。

【前置きはなしで書く。彼女は難病。筋萎縮性側索硬化、通称ALS を発症している。担当医に聞いたので間違いない。彼女の父親はそれを知っていたが、彼女には頑なにそれを知らせなかった。余命幾ばくもないと言われていた。本来なら、二年だったようだが発症から五年生きていたようだ。ここからは俺の憶測でしかないが、父親は病名を伝えたらそれが現実になってしまう、逆に言わないことで彼女がこのまま生きていることを祈っていたのかもしれない。後は頼んだぞ金元椿。追記これで最後になるかもしれないから言っておく。お前達を追い詰めて本当にすまなかった。お前達が幸せになれることを祈っている鳴宮真人ちなみに、病院名は平松中央病院、一〇七号室に彼女はいる】

「あいつ、最後で粋なことをしやがる…… 」

 自然と口角が上がった。

「で、病名は?」

アリサはハイヒールで地面を叩き、急かしてくる。

「病名はALS だ」

「ああ、それなら特効薬があるよ。付いて来な」

 アリサは、ヒールを鳴らしながら歩いていく。

「ち、ちょっと! 本当にいいのか? アンタは敵じゃないのか?」

俺が問うと、アリサは足を止め、そのまま背中で語る。

「特効薬が欲しいだけなんでしょ? 私の邪魔さえしなければ何もしないわ。いいから付いてきなさい」

 警戒しつつも、アリサについて行く。

しばらく歩いていると、この都心部の中心核ともいえるタワーに着いた。

タワーは東京タワーよりも、大きく、雲を突き抜けている。

「まるでバベルの塔だな…… 」

 タワーを見上げながら呟くと、アリサが口を開いた。

「確かに、私達は神に抗おうとしている。そういう意味でバベルの塔なのかもね」

 どういうことだ? とアリサに疑問をぶつける前に、疑問を遮って「ここがユートピアの本拠地よ」と言った。

ユートピアの本拠地? くそっ俺は嵌められたのか。踵を返そうとしたところアリサに腕を掴まれる。絶体絶命だ…… ここまでか…… 目を閉じ、最後通牒を待つ。

「待って、特効薬はいらないの?」

「え?」

 ところが、返ってきた言葉は俺に想像に反したものだった。

「いや、え、じゃなくて。特効薬いらないのかって聞いているんだけど」

 アリサは白衣のポケットに手を突っ込んで間延びした声で喋る。

「そりゃ、欲しいけど…… ここはユートピアの拠点なんだろ? 俺をどうにかするつもりじゃないのか?」

「馬鹿ね、アンタなんかユートピアの脅威でもなんでもないわ。本当の脅威は…………… いや、なんでもない」 

 アリサは一瞬、言葉を詰まらせる。他の脅威がいるのだろうか? まあ、今はそんなことどうでもいいか。

「今言いたいのは、私はあなたに危害を加えないし、私と共にこのタワーに入れば何も持ってなくても中に入れて、特効薬が手に入る。好待遇でしょ? その代わり約束して欲しいことが一つある」

アリサは人差し指を出して、俺に見せてくる。

「それは、なんだ?」

「目的が済んだら、さっさとこの世界から出てって欲しい。ただそれだけのことよ」

 俺が特効薬を手に入れ、ここを去ったらコイツは世界征服でもするのだろうか? 正義のヒーローや、漫画のキャラクターならここで断って、アリサと対決するんだろう。だが、生憎俺はヒーローでも、主役でもない。社会に属している単なる一般人だ。俺が去った後、この世界がどうなろうと、どうでもいい。加奈さえ救えれば他には何もいらない。

それに、こんな近未来まで生きていないだろう。

「ああ、いいよ。俺はアンタがこの世界を滅茶苦茶にしようと興味はない。俺が興味あるのは加奈だけだ」

「契約成立だね。じゃあ、ついてきな。ああ、中に入っても何も触るな、質問するな、誰かに話し掛けられても無視しろ。この三つ守れるかい?」

「子供じゃあるまいし、約束は守れるよ」

「そうか、なら良かった」

 アリサは俺に手を差し伸べた。俺はそれを握り返した。

「未来でも、握手ってあるんだな」

「馬鹿にしてる? そこまで退化してないわよ。あ、連れは私の助手ね」

 何人かが銃を構えているセキュリティーゲートで言うと、簡単にゲートが開いた。

「アンタ何者なんだ? それに銃って、物騒すぎんだろ」

「質問するなって言ったよね? 子供じゃないんじゃなかったっけ?」

 アリサの鋭い眼光が、俺を捉える。

「ああ…… 分かったよ」

 聞きたいことは山ほどあったが、しぶしぶアリサの後を追った。

 タッチパネル式のエレベーターに乗ると、アリサは十七階を押した。エレベーターの床は透明で出来ていた。

高い所が苦手な人が乗ったら、間違いなく失神するな。ちなみに俺は苦手だからさっきから、目を閉じ、無心でいる。このシステムを作ったやつマジで呪ってやる。

数分が永遠のように感じた。額と脇から異常に汗が出る。

「十七階です」

 間抜けなアナウンスとともに、ドアが開く。

外に出て、空気を一気に吸い込んで肺に入れた。フローリングされた床に手をつく。ひんやり

とした冷たさが伝わってくる。

「あなた、高いところ苦手だったのね」

 アリサは意外といった表情で見つめてくる。

「悪いかよ」

「いえ、意外だっただけ。先を急ぎましょう。この研究室の奥に保管されているはずよ」

 アリサの言った通り、エレベーターを降りた先では研究室と思わしきものが広がっていた。

フラスコ管、理科の実験でよく見ていた実験機器が机の上に散乱していた。

床には着色料の付いた白衣が何着も脱ぎ捨てられていた。

「ここ、誰も来ないのか?」

 あまりの乱雑さに顔をしかめる。

「ここは、私専用の研究室だからいいの。あ~、そろそろ洗わないと」

 床に置かれていた、白衣の匂いを嗅ぎながら呟く。

「もしかして、ずっと着てたの」

「っと、この部屋の先にある」

 アリサは俺の言葉を無視して、ID カードを部屋の前の機器にかざす。

解除音とともに、扉が開く。部屋の中は冷凍庫のように寒い。吐く息が紫煙のように漂って消える。奥に透明な冷蔵庫が鎮座してあった。

「うう…… 寒い…… 」

「我慢しな、あの中に様々な薬があるわ。確か、ALS の特効薬もあったはずよ」

 アリサは震え一つせず歩いていく。俺は身体を揺らしながら後に続く。

冷蔵庫から、透明なピルケースに入った特効薬を取り出して俺に渡した。

「これを飲ませれば、治るわ」

「ありがとう、色々世話になった」

 腕時計から、石を取り出す。

「興味深い…… それで時間移動ができるのね」

 顎に手をやり、まじまじと石を見つめるアリサ。

「いや、やらないぞ?」

「冗談よ。ほら、さっさと行ってきな」

アリサは俺の背中を軽く叩いた。彼女にも大切な人がいるのだろうか?そうだといいな。

俺は頷いた。彼女の奥底まで知ることはできなかったが、悪い人間ではなかった。

瞑目し、過去に戻ることを強く念じる。二年前…… 平松中央病院、一〇七号室。

今回ばかりはあの刑事に感謝だな。


 5


 キーンと立っていられない耳鳴りに襲われた。

「能力の使い過ぎか…… 」

 何度もやると、反動がくるようだ。頭もひどく痛い。しばらくは跳べそうにないな。

心音、脈ともに早くなっている。このまま死ねるか、この特効薬を加奈に飲ませるまでは。右手に持っていたピルケースが床に落ちた。拾い上げようとするも、うまく足元が覚束ない。そのまま床に倒れる。

「全く、世話が焼けるな」

 あの刑事が肩を貸して、起き上がらせてくれた。

「お前! 帰ったんじゃないのか!」

「ああ、そのつもりだったんだが、少し一服したくてな」

 胸ポケットからはみ出した煙草箱を軽く叩く。

「一服した後で、最後に彼女の顔を見てから帰ろうとしたらお前が倒れていたんだ」

「なるほど…… とりあえず加奈のところまで連れていってくれ」

「特効薬は手に入ったのか?」

 俺はピルケースを見せた。

「成功したのか、これで全て元通りだな」

 本当に元通りなのだろうか?俺は歴史を弄った。本来なら俺と加奈は交わることのない人生だ。俺が書くのを諦めたから加奈が俺のところに来た。だが、書くのを諦めなかったら、加奈は俺を知らないままだ。

本当なら、知っていて欲しい。だけど、これが正しい人生なんだ。加奈にとっても。

「ああ、全て元通りだ」

 これで、全て終わる。刑事の肩を借りながら、加奈が寝ているところまで歩く。

「大丈夫か? 無理そうなら俺が渡してくるが」

「いや、大丈夫だ。これは、俺の役目だ」

 掌に跡握りができるくらい強くピルケースを握る。俺が勝手に自分を諦めてしまって、加奈の人生を歪ませてしまった。自分で乗り越えなければならない壁を加奈に押しつけてしまった。

一歩踏み出しながら、自分の罪を数える。刑事は何か言いたげな顔をしていたが、何も言わなかった。ベッド柵に手を掛ける。ガチャンと大きな音がして、加奈は目が覚めた。

「だ、誰…… ?」

 布団を鼻まで被せて、身体を震える加奈。

「俺達は怪しい者じゃないんだ」

 無精ひげを生やした目つきの悪い刑事と、ベッド柵を持ち、不気味に笑っている男が目の前にいたら説得力ないよなぁ。加奈はナースコールを押そうとする。

「ま、待って! 押さないでくれ! 俺達は……… 君の病気を治す薬を持ってきたサンタクロースなんだ!」

 今夏だし、どう考えてもサンタクロースって出で立ちじゃない。

刑事が耳打ちする。

「もっとマシな噓つけよ」

「分かってるよ……それしか思い付かなかったんだ」

 これまでか…… そう思った時、加奈が口を開く。

「うん、分かった。信じる」

「本当に? 自分で言うのもなんだけど、絶対怪しいよ?」

「うん、確かに怪しいけど、そんなに真剣に話してくれているんだもん。信じるよ!」

 加奈は太陽のような笑顔で笑った。

ああ、俺はこの笑顔をみるためにここまで頑張ってきたんだな。自然と笑みがこぼれた。

「で、その薬はあるの?」

「あ、ああ。これだ」

 加奈にピルケースを渡す。

「へ~、透明なんだ~綺麗」

 加奈の無邪気な笑顔を見ていると、まだここにいたい気持ちにさせる。

「おい、そろそろ」

 刑事が肘でこつく。

「ああ、分かってる」

「ごめん、そろそろ行かないと。ああ、俺達のことは内緒でお願い」

「うん! サンタクロースだもんね! ね、また会える?」

「…… ああ、会えるよ」

 噓を付いた。加奈にはもう二度と会えない、会ってはいけない。

踵を返し、病室を後にする。

「じゃあ、またね」

 加奈の声が後ろで聞こえる。後ろ髪が引っ張られ、ドアの前で立ち止まる。

「おい?」

 刑事が心配して俺を見る。

「大丈夫、大丈夫だ。今行く」

 今後こそ、病室を出る。扉のパタンと閉まる音が聞こえるのと同時に溜息を吐いた。

「これで、終わりだな」

「何もかもな」

 周囲に誰もいないことを確認し、俺腕時計から石を取り出して、元の場所に帰ると強く念じた。だが、右手を強く握られて、集中力が途切れた。

「なに?」

 苛立ちを抑えつつ、刑事に問う。

「お前、あの少女と二度と会えないんだろ。それで本当にいいのか? その為にここまで来たんだろ?」

 俺が動揺していると刑事がなおも続ける。

「なんで分かった? って顔しているな。俺は刑事だ。人を見る目はあるんだよ」

 煙草で茶色になった汚い歯を見せて笑った。

 ああ、そうだった。コイツ刑事だったな…… 出で立ちでたまに忘れそうになる。

「ああ、そうだったな」

「それで?お前は本当にそれでいいのか?」

「いい…… わけあるか!!ここまで加奈のためにここまで来たのに忘れ去られるなんて嫌だ!ずっと俺のことを想っていて欲しい!でも俺がしてしまったことだから仕方ないんだよ…… 」

 滝のように感情を吐露した。溢れ出て止まらなかった。ずっと心の奥底まで、しまっておく

つもりだったが、刑事の煽りで隠していた感情がとめどなく流れた。

「言えたじゃねぇか…… それでいいんだよ」

「でも、元に戻っても加奈は俺のことを覚えていない…… !」

「忘れたとしても、新しい思い出を作ればいいんだ。大丈夫、お前の愛する人はまだ生きているんだから」

 刑事は儚げな表情で自身の掌を見つめる。

「新しい思い出か、確かにそうだな」

「ああ、それとな。お前のことを待っている人はまだいるぜ」

「えっ、それってどういう?」

「俺から出せるヒントはここまでだ。じゃあな」

 刑事は言うだけ言って、消えた。

「なんなんだ一体…… せめて質問に答えてから戻ってくれよ」

 刑事の言葉が気になるが、とりあえず俺も戻ろう。

心の中で強く念じる。また頭痛に襲われるが、前の時よりかは幾分かマシになった。

ゆっくりと目を開けると、俺はパソコンの前で座っていた。

パソコンには書きかけの原稿が表示されていた。

「少し、疲れたな」

 目頭を押さえて、身体を伸ばす。ここ最近、目まぐるしいほど動き続けていた。少しの休養は必要だろう。そのまま仰向けでベッドにダイブした。

枕に顔を埋めて、うとうとしていたら携帯の着信音が鳴り響く。音のする方へ目をやると、デスクの上で携帯が震えていた。それを手に取り、応答のボタンをタップする。

「はい、もしもし」

「今どこ?!」

 担当の小牧さんだ。声音は少し焦っていた。

「ああ、小牧さん。今は家にいます」

「家ぇ?! 噓でしょ!?今日、向日葵ゆうまさんとの対談だって忘れていたわけじゃないですよね?」

「え、あっと… そ、そうでしたねー」

 通話しながら、パソコンでスケジュールを確認すると、午後二時から向日葵ゆうま先生と対談(赤坂)と書かれていた。ご丁寧に、対談場所の地図まで詳細に書かれていた。

時計を見る。今は午後一時半。結構ギリギリだ。

「とりあえず、来て! 今出たらまだ間に会うから! 場所は分かる?」

「はい! 大丈夫です! 準備していきます!」

「まだ準備してなかったの?早くね!」

 電話が切られる。ポシェットを肩に掛け、準備をする。スマートフォンで時刻表を調べる。

「駅まで走れば何とか間に合うか?」

 別段行かなくてもいいだろって気持ちが大半だが、ここで行かなければ先方にも迷惑をかけてしまう。それは俺の性格上できないし、社会人としても駄目だ。

玄関の鍵を閉めるのと同時に、駅まで全力疾走する。

「電車が発車します」

 アナウンスとともに扉が閉まる直前に、滑り込む。

「ギリギリセーフ」

 息を整えて席に座る。T シャツとズボンに汗が張り付いて気持ち悪い。

周りの冷たい視線が刺さる。目を閉じて有象無象の瞳から逃れる。

暗闇の中考える。加奈がいなくなって、俺はこれからも小説を書き続けられるのだろうか。加奈を救う旅が終わって、ようやくひと段落できると思っていたが、胸の中にはポッカリと穴が開いていた。俺は、本当は加奈が救いたい自分に酔っていただけじゃないのか?非現実で自分がヒーローになった気分だった。本当は脇役なのに。

加奈が俺の背中を押していたから、俺はここまで来ることができたんだ。

かといって、加奈を見殺しにはできない。

俺は、本当は何がしたかったのだろうか。この選択が正解だったのか、不安で仕方ない。

螺旋階段のようにグルグル思考がループしていく。

「次は赤坂~赤坂でございます。お降りのお客様は……… 」

 目を開け、ホームまで出る。

思考が中断できて助かった。あのまま続けていたら、自己を見失っていたところだ。

「今だって見失っているけどな…… 」

鼻で自分のことを笑う。

ワックスで、テカテカのサラリーマンがこちらを睨んだが、無視して進む。

忍者のように、人混みをかき分けながら改札口へと向かう。

昼間だっていうのに、なんでこんなに人が多いんだ、イベントでもやっているのか?

ポシェットからパスケースを取り出して、タッチして駅を出る。

スマートフォンで地図アプリを起動して、目的地まで走る。

今は午後一時五十六分。本当にギリギリだ。燦々と照りつける太陽のおかげで、額と脇から蛇口のように汗が流れる。

匂いが気になる。汗拭きシート持ってくればよかった。

そもそも、向日葵ゆうま先生がなんで俺なんかと対談したいって言ったんだろう?次作で帯に推薦メッセージとかくれねぇかな……… そんな邪なことを考えていると、午後一時五十九分。

目的地のホテルに着いた。

「えっと、十七階だったな確か」

 スマートフォンを見ながら確認する。エレベーターの中に入り、ボタンを押す。

鏡で身だしなみを整えようとしたが、T シャツは汗染みでめちゃくちゃ目立っていたので何をしても無駄だと思い、諦めた。

「もうこのままでいいや」

 チン、という到着音とともに扉が開く。エレベーターから降りて、地図を見るとこの階には部屋が一つしかないようだ。廊下を真っ直ぐ歩いていく。

白い扉の向こうでは、ガヤガヤと騒がしい。中に入るの嫌だな。

深いため息を吐き、意を決して中に入った。瞬間、それまでうるさかった室内がシーンと静かになった。

部屋の後ろには、カメラマン二人と、大きな機材。たまにモデルさんが使うやつだ。あんな大層なもの使われたことなんて一度もない。まあ、俺と大ベストセラー作家向日葵ゆうま先生と比べたら、天と地の差だから仕方ないけどな。メイクさんとライターさんが席に座って俺をじっと見ている。気まずい…… そして部屋の中心には、イギリス国王が座ってそうな絢爛豪華な席が二つ、間隔を空けて置かれていた。

奥の席には、向日葵ゆうま先生が座っていた。彼女は全身黒のドレスコードを着ていた。

「あ、遅れてすいません…… 」

「久しぶり、椿」

 彼女は馴れ馴れしく俺の名前を口にした。

「あの、どこかで会ったことが?」

「私のこと覚えてない?」

 見覚えはあるが、どこで見たか思い出せない。

「未来で会いましょうって言ったの覚えてない?」

「あっ…… !」

 その言葉で思い出した。あの会に参加していた逆浪彩だ。まさか、彼女が小説家だったなんて…… あの会の時はそんな風には見えなかったのに。

いや、待てよ? あの時俺は加奈がいたはずだ。加奈といた時の世界は書き換わったから未来改変者じゃなければ、普通は忘れているはずだ。なのに、何故?

「やっと、ここまできたんだね」

 逆浪は風鈴のように優しい声音で言った。

「どういう、ことだ?逆浪、お前は未来改変者なのか?」

「ええ、そうよ。未来改変者であり、貴方の物語を陰ながら応援させてもらった者よ」

 ライター、メイクさんがざわざわしている。

「椿先生、汗でびっしょりだからシャワー浴びてらっしゃい」

「え、でも」

「私達はここで待っているから」

 逆浪は、目でウインクした。先に行ってろってことだろうか。

「いや、だからシャワー室の場所知らないんだって」

「ああ、じゃあ案内するわ。皆さんは各自、自由にしていただいて貰って結構です」

 俺と逆浪は、部屋から退出した。

「シャワー室はこの階にはないから下に行くわよ」

 逆浪は、俺の言葉を待たずに廊下を歩いて行く。

「ちょっと待てよ! 説明しろよ!」

「するわよ。でも、あそこだと話しにくかったから気を利かせたんじゃない」

「はあ、せっかくここまでお膳立てしたのに、汗だくで来たんだもん。びっくりしたわ」

「そ、それは仕方ないだろ! 戻ってきたばかりなんだから。いや、それよりもお膳立てって逆浪が全部仕組んだのか」

 コイツが諸悪の根源なのか…… 廊下を右に曲がると、階段が目に留まった。

「いやいや誤解しないでね、私は、あの刑事と編集者に貴方の場所を教えたの」

 もしかして、刑事の言っていた俺を待っている人って逆浪のことなのか?

階段を使い、十五階まで降りる。

「ここがシャワー室よ」

 浴槽はなく、シャワーノズルのみが設置されていた。俺達はシャワー室の扉の前にある鏡の前で話している。

「入るけど、その前にちゃんと説明してくれ」

「ええ、そのつもりよ。何から話そうかしら」

 逆浪は、顎に人差し指を添えて思案する。

「まずは、なんで逆浪が改変した出来事を知っているのか、目的はなんなのか教えて欲しい」

「私の目的は、私のしてしまったことの償い。その為に動いているの」

 逆浪は目を細めて、悲しげな表情をする。

「償い?」

「ええ、その為に私は裏で、貴方の手助けをしていたの」

 敵じゃないってことか。一先ずは安心だな。だが、なぜ裏でこそこそしていたんだ?正面から堂々としていればいいだろう。それができないのは、何かやましいことがあるに違いない。

「だったらなんで、表立って助けてくれなかったんだ」

「それは、まだその時じゃなかったから。言ったでしょ未来で会いましょうって。あれは、貴方が選択してここまで来ることが大切だったの」

「選択ってなんだよ。神にでもなったつもりか」

 鼻で笑ってやった。

「ごめん、そういうことじゃないの。私は………… 」

 言いかけて、口をつむぐ。

「なんだよ?」

「いえ、後で話すわ。まだ心の準備ができていないの」

 逆浪は、洗面台から出て行こうとする。

「待って」

逆浪の服の袖を掴む。逃がさない。

「話して、今ここで」

「……… 私なのよ」

逆浪は俯き、呟く。

「えっ?」

「私が原因なの。貴方が書くことを止めた原因を作ったのは私なの。ごめんなさい…… 本当にごめんなさい…… 」

逆浪は深々と頭を下げた。

「逆浪が原因?」

「幼馴染の言葉で、貴方は書くことを諦めたことは覚えてる?」

加奈の残留思念が言っていたけど、俺はそのことはまだ、思い出せない。

「ああ、幼馴染の顔と名前が思い出せない」

「それ、私なの。昔は旧姓だったから高月彩だけど。私が言ったの。“小説なんてつまらないもの書いていても仕方ないじゃない”って。それから貴方は心を閉ざして、書くのを止めた。本当にごめんなさい」

幼馴染が逆浪だったのか…… まだ靄がかかって思い出せない。

「なんで、なんでそんなことを…… 」

その言葉がなければ、俺は小説を書き続けていられた。

「ごめんなさい、貴方がそこまで夢中になる小説が許せなくて…… 恨みの言葉を浴びせたの。こんなになるなんて、思わなかったの」

逆浪の目からは、大粒の涙がこぼれた。

「私、貴方のことが好きだったの。ずっと私の傍にいて欲しかった! でも私のことを忘れて、

加奈って子に貴方は魅力されていた。それで、思ったの。貴方の傍にいられるのは私じゃないって。そこからできる限りの力を使って、貴方を陰から支援した。パパの力を使って、小説家になって少しでも競争心を燃やして、小説家を続けて欲しかった! 私のできることはなんでもした! 今日だってコネを使って対談を実現したの! やっとここまで来た…… 事実だけ話して別れるつもりだった。でも、できなかった! 貴方のことが好きだから! 感情が溢れちゃうの…… 」

逆浪は、途切れることなく滔々と語る。両手で、スカートを強く摘まんでいる。感情を抑えるかのように。

幼馴染が逆浪で、その逆浪が俺の筆を折った。でも、逆浪は俺を陰で支援していた。そんなことを急に言われても実感がない。

ここで、今俺が言うべき言葉は何なのだろう。逆浪が全ての元凶といえば、元凶だが、怒りの感情は湧いてこない。むしろ湧いてきたのは、同情だ。一人でここまでよく頑張ったと思う。

「色々言いたいことはあるけど、今は言葉が出て来ないけど一つだけ、一人でよく頑張ったな。ありがとう」

「うう、うわああああああああああん」

逆浪は、その場で崩れて、慟哭を上げた。

俺は彼女が、泣き止むまで傍にいた。


6


シャワーを浴びて、新しい服を貸してもらった俺は、彼女との対談に臨んだ。

何を聞かれるのか分からず緊張していたが、好きな作家の話、プロットの組み立て方を語った。

一時間半のインタビューはあっという間に終了した。

「ありがとうございました~」

スタッフ陣が頭を下げて、撤収作業を開始する。

「私達も行きましょうか」

「手伝わせてもいいのか?遅れたのは俺だし…… 」

何もしないで、ここを出るのはさすがに罪悪感がある。いくら未来から戻ったと言っても遅れたのは俺だから言い訳はできない。

「いいの、これも彼らの仕事だから」

「でも」

「いいから、行くわよ!」

逆浪は、俺の腕を掴んで走る。

「ち、ちょっとどこに行くんだよ!」

「あはは、ずっとこうしたいって思ってたの。青春って感じでいいでしょ」

逆浪は、笑いながら廊下を駆けていき、階段を一気に降りていく。

初めて逆浪を見た時は、図々しい奴だと思っていたのに、こんなにも活発な女の子だったとは。

いや、変えてしまったのは俺だ。俺が書いた小説が全ての元凶なんだ。逆浪は自分が言ってしまった言葉が原因だと考えている。確かにあの一言がなければ小説は続けられたかもしれない

けど、元は俺が小説を書いていたからだ。全て俺に繋がる。

だが、悪いことばかりじゃなかった。逆浪との記憶は消えてしまってまだ思い出せないけど、加奈と会えた。世界について知れた。自分がいかにちっぽけな存在であるか知れた。

「悪いことばかりじゃなかったな…… 」

腕を引っ張られながら、呟く。すると、突然逆浪は立ち止まった。

「私ね、今でも、椿のことが好き…… !でも、加奈さんのことが好きなのは知ってる。ただ、それだけ言いたかったの。ごめん。じゃあ」

逆浪は俺の腕を離して、一階のエントランスを出る。顔は見えなかったが今すぐ追いかけな

いと駄目だと俺の直感が告げた。

エントランスを出て、逆浪を追いかけた。幸い、見失うことはなくシャッターが閉まった駄菓子屋の屋根の下で逆浪の腕を掴んだ。

「馬鹿…… 追い付くのが早いのよ…… 」

「小説家舐めんな。それに、俺はまだ解を出してないぞ」

「答えなんて分かり切っている! だから、離して!」

逆浪が叫ぶと同時に、雨が降ってきた。徐々に激しくなっていく。傘を持っていない俺達は駄菓子屋の錆びてボロボロになった屋根で、雨が止むのを待つ。

「夕立か、ここで立ち往生だな」

「このまま帰るわ」

「まあ、待て。逆浪は俺がどうやって加奈を救ったのか知っているのかもしれないけど、俺の 言葉で話させてくれ。小説家なんだから、俺の言葉で」

「…… ええ、分かったわ」

逆浪は、観念したように手を上げた。

「最初は加奈を救うための旅だった。だけど、戦争状態になったもしもの世界に行って、ブーケンビリア、少女、アイスキャンディー売りの岡直人、刑事と出会って話して、俺はいかに加奈に依存していたか分かった。俺は空っぽだったんだ」

「そんなことはない! そんなことはないよ! 椿は私にないものを持っているの。それを壊してしまったのは私なの! だから、私の愛する人をそんなこと言わないで!言うなら私のことを言って!」

逆浪は、俺の言葉を遮って叫んだ。彼女は自分のしたことを悔いて、俺に罰して欲しいんだ。

普通なら自身のしたことを帳消しにするために動くが逆浪は違う。

自分のしたことに責任を持てる強い女性だ。

加奈がいた時の俺は、加奈のおかげで自分を保てていたが、今はいない。この現実に一人で立ち向かっていかなければならない。

でも─── 「でも、今の俺には物語を紡いで、誰かに届ける仕事をしている」

逆浪は、首を傾げて俺の言葉を待っている。雨音が屋根に跳ねて、激しさは強まるばかりだ。

「だから、今まで体験したことを小説に書いて加奈に届けたい」

「でも、加奈さんは椿のことを覚えていないのよ…… ?」

「それでも、いいんだ。もし届いてくれればそれでいい。届かなくても、どこかにいる誰かに

刺さればいい。小説やエンタメってそういうものだろ?」

「本当に、それでいいの?」

逆浪は、不安そうな瞳で訊ねる。

「ああ、これでいい。元来、書くことでしか満たされないからな小説家は」

書いている時は、自分は現実から離されて、夢想の世界に入れる。俺にとって現実こそが小説の世界で、それ以外は夢だと思っていた。

だけど、あの世界で自分以外の世界と触れて、考えが変わった。

「現実は俺達人間を弄ぶ、それらを逃げられない人達のために、俺は誰かの背中を押す小説を書きたいんだ」

「それが、貴方の解なのね」

逆浪は、相好を崩した。自分のしたいことの解は出した。俺が出すべき解

だ。

「まだ一つ、残っている。逆浪彩、君の気持ちに応えることだ」

「それは別にいいわ。もう、分かっていることだし」

逆浪は俯いて、水たまりを見つめる。

「放棄しないで、自分の中で完結しないでくれ。俺も前までは自分の中で完結して、相手の心も勝手に決めつけていた。だけど、話さないと分からないんだ。話さないで分かるなんて、傲慢なんだ」

「じゃあ、私は傲慢だって言うの?」

逆浪は、頬を膨らませて少しムッとした。

「いや、ごめん。そういうことじゃないんだ。作家として、その傲慢さは必要だと思う。だけど、今は俺の話を聞いてくれると嬉しい」

頭で色々考えてきたことを、いざ言葉にしようとすると気恥ずかしいな。

「まあ、椿がそういうなら」

俺は息を吸い込んだ。加奈は俺をここまで辿り着かせるためにいてくれたんだな。

俺は独りじゃない。

「俺は、まだ過去の記憶全てを取り戻していない。失くしたものもある。でも、失くしたからこそ、見えてきたものもある。俺にとって加奈も逆浪も大事だ。だから、俺の傍で俺の書く物語を見続けて欲しい。クリエイターとして、パートナーとして」

「つ、つばきぃ…… 」

逆浪の瞳は、宝石のようにキラキラ輝いてから大粒の涙が零れた。

言えた。自分の気持ちを。逆浪も大事に思っているのは事実だけど、今の俺は加奈だけが依り代だった。そこに逆浪が現れて、幼馴染と言われて、はいそうですかとは簡単に納得できない。

感情に執着するのが人間なのだから。

だからといって、逆浪を蔑ろにはできない。俺が過去の記憶を思い出せないのなら、思い出せるまで逆浪には一緒にいて欲しい。

逆浪の言葉で絶望したってことは、それくらい愛していたということだから。

加奈も、勿論好きだけど加奈自身がどうだったか分からないし、それを確認する術を今はもうない。

「俺にとって加奈は、俺を守ってくれる繭のようなものだったんだ。それに本来なら交わることのない人生だ」

「でも、椿は自分の体験を書いて、加奈さんに思い出して欲しいのよね?」

逆浪は、目を真っ赤にして、涙は服の裾で拭いていた。

「うん、矛盾しているって思う?でも知って欲しいんだ。俺がここまで歩いてきた道を心の中に残していて欲しい」

「…… うん、いいと思うよ。小説ってそういうものだし、私も椿の小説を読みたい」

「ありがとう…… 逆浪」

肩の力が抜けた。旅の終点を迎えたが、俺の人生はまだまだ続いていく。

「椿は自分と向き合っていて凄いと思う」

「自分と向き合う?」

思わず、聞き返す。

「うん、小説を書くってことは自分と向き合って、逃げずに戦っている人だと思うんだ」

「初めてだ…… そんなこと言われたのは。俺はずっと、空想の世界に逃げている弱い人間。幸せなれない不幸な人間だと自己憐憫に浸っていた」

書くことは楽しい。だけど、書くことでしか生きていけない俺はきっと不幸だ。

ずっと何かに渇いている。満たされない心が叫んでいた。

「椿は不幸なんかじゃない。小説を書くことを不幸だなんて言わせない! 自分の空想を文字にできる人は凄いんだよ!もっと、自信持っていいんだよ!」

「俺なんかが、幸せになっていいんだろうか…… 」

旅で少しは成長できた実感はあるとは言え、俺には書く以外何もできないポンコツだ。

誰かの幸せは享受できるし、自分のことのように嬉しい。だが、自分のこととなると、どうしても一歩引いてしまう。

「そのためにここまで来たんでしょ? 本当は誰よりも幸せを望んでいるけど、自分のこととなると一歩引いてしまう。でも、いいんだよ、ここまで頑張ったんだから椿は幸せになっていいんだよ」

「よく、俺のことを知っているな…… ありがとう…… 」

逆浪の言葉で自分が肯定されているような気分になっていく。

下唇を噛んで、涙が溢れるのを必死に我慢する。

「椿のこと、見ていたからね。ずっと」

逆浪は俺の手を優しく握る。

「ねぇ、椿。書くことの欲求はね、書かないと満たされないんだよ。私も、君も。書いても、書いても、次が書きたくなる。満たされない。自信のあった新作が全然売れないなんてザラだよ。それが、ずっと続いていく。創作は苦しいよ…… 」

逆浪は、一瞬目を閉じて苦しそうな表情をする。過去のことを振り返っているのだろう。俺は、逆浪の手を優しく握り返した。逆浪はすぐに、元の表情に戻った

「ありがとう。もう、大丈夫。でもね、さっきの椿の言葉で私は救われたの。そんな風に言葉には力があると思うの。そんな誰かの心に、ずっと残る言葉が書けるなら、私はこの仕事をずっと、生まれ変わっても小説家でいたい」

それは逆浪の決意だった。

これからどんなことがあっても、この想いだけは変わらないという決意だった。

ああ、そうだ。俺も海を渡って誰かの心に残る作品を書いたことがあったんだ。

「俺も、逆浪の言葉に救われた。自己を肯定されて凄く嬉しかった。俺には書くこと以外何もないと思っていたけど、誰かの心に残る小説を書いたことがあったのをさっき思い出した。忘れちゃいけないものを忘れていた」

「思い出したなら、それでいいのよ。私だって忘れていることは沢山ある。本当に忘れちゃいけないことは魂に刻みこまれているから、いつでも思い出せるのよ」

「だったら加奈が思い出す可能性もあるな」

「ええ、きっとね」

現実はひどく、不条理で俺達は運命に屈することしかできない、と前までの俺なら諦めていたかもしれない。だけど、意外と簡単に運命は打ち破れるのかもしれない。

「あ! 椿! 見て!」

逆浪は青空を指差す。いつの間にか、雨は止んで、空には虹がかかっていた。

「雨、止んだな」

「うん、綺麗。とっても…… 」

俺と逆浪は互いの手を握ったまま、虹を眺めていた。

 俺達は、不幸なんかじゃない。

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夢を追う羊と変わらない町 @stella_90m

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