夕方まで駅前のモールを散策して、帰宅した。コンビニで買ってきたお弁当を冷蔵庫に放り込んで、自室のベッドへ直行する。

 マットレスの上に転がると、別れ際に聞いた言葉が、耳の奥で残響した。


『桜さんが言うとおり、一人よりも二人のほうが楽しかったの。でも私の立場上、美浜の子に、あまり情けない姿は見せられないし。それに、』


 夕焼けを浴びて赤らんだ顔で、先輩は言った。


『学園祭が終わって、桜さんとの縁が切れてしまうのは、寂しいから』

 

 じん、と心臓の上のほうが痛んだ。思わず、足をパタパタとしてしまう。

 嬉しい。嬉しくないわけがない。

 でも、問題もある。具体的には、お金だ。当然、料理教室には月謝がかかる。

 学生からすれば安くないお金だ。現状でも払えないわけではないけれど、もし続けるのなら、アルバイトをするか、仕送りを増やしてもらう必要がある。

 私の父は、経営していた会社の脱税問題で係争中だ。母にも、できればこれ以上は頼りたくはない。

 海浜高校は、申請したうえであれば生徒のアルバイトを認めている。ギリギリ、生徒会との両立もできるだろう。でも、料理研究同好会に参加するほどの時間の余裕があるかどうか……。

 厳しいかもしれない。

 いや、まさか週五で働くわけじゃないのだ。多少、篠森と一緒にいる時間が減るくらいで。

 それなら。

 でも、篠森の友達は私しかいない。私が同好会に来なくなれば、彼女はまたひとりぼっちになってしまう。

 それは可哀想だ。

 うーん……。

 その日、日付が変わるまで悩んでみても、結論は出なかった。


 週明けの月曜日。

 いよいよ週末に本番とあって、学園祭の準備は佳境を迎えている。

 生徒会一同も忙しさのピークに到達していて、我々自身の準備と各種経費精算系の書類仕事、当日のリハーサル等に追われていた。

 こうなってくると、なかなか家庭科室へ足へ運ぶ時間が取れない。

 もちろん、その旨は篠森にも伝えている。

 しかし篠森は割と暇らしく、とりおりチャットルームにお手製のハンバーグとか中華丼とか、シンガポールライスの写真を投稿してくる。とんだ飯テロだ。

 ちなみに、今日は肉まんだった。

 もう全部投げ出して、家庭科室へ行ってやろうかとも思う。でも。


「副会長ー! 当日のステージで順番変えたいところがあって、調整の相談なんですけど」


「蘇芳さん、吹奏楽部の演奏場所が他の出店と被っちゃってるみたい。場所変更できない?」


「桜ちゃーん、式辞の原稿チェックよろー」


 泣きたい。

 泣いても仕事は終わらないので、仕事をするしかない。

 ようやく舞台のリハが終わったので、体育館から生徒会室へ戻る。ふと気が付くと19時を過ぎていた。学園祭前とはいえ、19時半には教室棟の電灯が落ちるから、急がなくては。

 渡り廊下を抜けて、1年の教室の前を通る。いくつかの教室は、まだ電灯がついていた。熱心なことだ。

 1Bの教室の前に差し掛かる。篠森のクラスだ。

 好奇心に身をゆだねて、入口のドアから中をのぞいた。たしか出し物はお化け屋敷だったっけ。床に「ワタシの心臓を探してください」とおどろおどろしい血文字で書かれた看板が転がっていて、なるほど脱出ゲームを組み合わせる趣向かと頷いた。

 残っているのは、男子が三人と、女子が六名。脅かす練習をしているのか、小道具を手に不思議なポーズでゆらゆらしている。この時間まで残っているだけあってみな真剣で、それがかえって妙な面白さに繋がっていた。

 ドアの隙間が僅かに開いていて、声が聞こえる。そこから、


「楓ちゃんは、このタイミングで──」


 と、明るい声が聞こえた。

 楓ちゃん?

 思わず窓から篠森の姿を探してしまう。

 ──いた。端に寄せた机の陰で顔が見えなかったけれど、あれは篠森だ。

 床にお尻をつけて、リーダー格の女の子の話を真剣に聞いている。

 そして彼らの真ん中には、大きな肉まんの載った大皿が置かれていた。

 間違いない。写真で送られてきた肉まんだ。

 リーダーの子が皿に手を伸ばして、白くてふんわりとした饅頭を掴む。彼女はそれを齧ると、温かな笑みを浮かべた。

 なんだ。

 ちゃんと、友達がいるんじゃないか。 

 ひとりぼっちだと思っていたのに、そんなこと、なかったんだ。

 硬くて大きな氷を飲み込んだみたいに、胃の上がキンと冷たい。

 ゴムの足裏がきゅっと音を立てた。何対かの視線がこちらを向く。

 篠森が私に気づいた、ような気がした。

 それを確かめるよりも早く、私は廊下を歩いていく。

 まるで逃げ出すみたいに、早足で。

 

 夜のコンビニで、真っ先にレジカウンターの肉まんコーナーを確認した。

 けれどケージの中身はスカスカで、わずかに残った肉まんも「温め中」だった。

 仕方がないから、おにぎりを二つ買った。

 お腹が空き過ぎて家まで耐えきれそうになかったから、通学路の公園のベンチへ向かった。

 乱暴に包みを解きながら、私は自問自答する。

 篠森に、友達がいた。

 それも、手料理をシェアできるくらい仲の良い友達が。

 彼女には、きちんと教室で居場所があったのだ。

 冷たいおにぎりを頬張る。これが肉まんならよかった。本当は、温かい食べ物が食べたかったから。

 やけに味の薄い五目おにぎりを飲み込んで、声に出す。


「……よかったじゃん」


 可愛い後輩が、ちゃんと自分の居場所を作れていたのだから。なにも問題はない。

 そう、なにも。

 いや。

 嘘だ。欺瞞だ。私は今、自分自身を偽っている。

 本当は、嫌だった。

 篠森が、私と関係ないところで料理を振る舞うことが。

 そうしたいと思う相手が、私の他に存在することが。

 つまり私は、本当は、篠森に孤独でいてほしかったのだ。

 ひとりぼっちの、寄る辺のない、寂しい少女であってほしかった。


「なんだそれ……」


 かっと頬が燃えた。あさましすぎる。

 自分自身の身勝手な感情を自覚して、本気で死にたくなった。

 あんまり情けなくて、涙が出てきた。

 手の甲で拭って、掴みっぱなしの五目おにぎりを詰め込むみたいに食べる。どうしてか全然味がしない。粘土でも食べてるみたいだ。

 結局、ペットボトルのお茶で流し込んだ。むせてしまって、また涙が滲む。


「けほっ、ふ、ぐっ」


 そのとき、公園の入り口から、今、一番聞きたくない声がした。


「──先輩?」


 顔を上げる。

 そこには、さっき教室で見かけた女の子と、二人で歩く篠森がいた。

 隣にいるのは、さっき篠森を「楓ちゃん」と呼んでいたリーダー格の少女だ。ショートボブで、清涼飲料水のCMに出られそうなくらい爽やかな雰囲気がある。

 その子に何か断りを入れて、篠森が私のところへ駆け寄ってきた。

 黒目がちの瞳が、目ざとくコンビニのレジ袋を見つける。


「先輩、こんなところでご飯食べてたんですか? 危ないですよ」


「いいでしょ、別に」


「……先輩?」


 私の物言いに戸惑ったように、篠森の目が左右に揺らぐ。

 思い出したように、彼女は抱えていた紙袋の口を開けた。


「そうだ。先輩、お腹空いてますよね。肉まん作ったんですけど、食べますか? 本当は、家に帰って食べる分ですけど。特別に分けてあげます」


「いいよ。篠森が食べて」


「えっ。でも、美味しいですよ。ちょっと冷めちゃいましたけど、まだ温かいし」


「──いらないってば!」


 叩かれたみたいに、篠森がすくんだ。

 はっとして口を抑える。大きな声を出したのなんて、いつぶりだろう。

 入り口のほうで、ショートボブの子が伺うようにこちらを見ていた。


「ごめん。でも、今は、お腹いっぱいだから」


「……そ、うですか」


 明らかに納得していない様子だったけど、篠森はそれ以上追求はしてこなかった。


「それなら、いいんですけど」


「楓ちゃん」


 狼狽える篠森を庇うように、さきほどの一年生が近づいてきた。さりげなく、私と篠森の間に身を滑らせる。まるで、私から篠森を庇うみたいに。

 彼女はきっと私を睨んで、言う。


「蘇芳副会長、ですよね。あの、楓ちゃんが何か」


「なんでもないよ」


 私の言葉に反応して、篠森が身を乗り出す。


「先輩」


「篠森」


 私はベンチから立ち上がり、スクールバッグを肩に掛け直した。吹き付ける冴えた夜風が頬を打つ。


「私、青葉先輩から料理教室に誘われたんだ。一緒に、自炊できるようになろうって」


「……なんですか、それ」

 

「ちょっと悩んだけど、やってみようかなって思う。いつまでも篠森に面倒見てもらうわけにはいかないし」


「面倒って、わたし、そんなつもりじゃ」


「それで、もしかしたらバイトとか始めるかもしれないから」


 切れかけの夜間照明の光を受けて煌めく、黒目がちな瞳から視線を逸らす。


「だから、ごめん。海浜祭が終わったら、料理研究同好会、辞めると思う」


 チカチカと白色灯が瞬き、消えた。篠森の双眸から光が失せる。

 彼女の脇を通り抜けるとき、消え入るような声で聞こえた。先輩の嘘つき、と。


 本当にそのとおりだ。

 でも、これでいい。今の彼女に必要なのは、こんな身勝手な先輩じゃないはずだから。

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