勧誘親子丼

 さて、私たちが向かうのは、「美浜文化センター」と銘打たれた比較的真新しいビルである。

 いわゆるカルチャーセンターというやつで、五階建のビルには音楽や英会話、あるいは生花など、社会人向けの習い事教室が集約されている。

 フロントで立ちすくむ私をよそに、青葉先輩はパールブルーの財布からカードを二枚取り出して、受付へと差し出した。一枚は会員証で、もう一枚にはお友達紹介カードと書かれていた。

 受付の女性が、口角の上がった営業スマイルを浮かべる。


「料理教室をご利用中の、鶴ヶ谷様ですね。お連れ様は、こちらにお名前を記入いただけますか」


「あ、はい」


 私は用紙を受け取り、さらさらと必要事項を記入した。

 クリップボードに挟まれた用紙には、こう印字されている。

 ──料理教室体験申込書。

 そう。私は今日、先輩が通う料理教室の体験にやってきたのだ。

 どうやら先輩は、大学進学を機に一人暮らしを計画しているらしく、その準備として料理の修行を始めたそうだ。

 用意周到というか、まず一人暮らしイコール自炊、さらに料理教室、という考え方が並じゃない。それをあっさり許可してしまうご両親も、だ。

 とにかく。

 先日、先輩が海浜へやってきたとき、そういう話になった。

 話の流れで、先輩から「もし興味があるなら、一緒に行ってみる? 紹介なら無料だし」と言われ、体験入学を申し込んだ次第である。

 ポールペン片手に、さらさらと申込書を埋めていく。

 その中で、一箇所だけ手の止まる箇所があった。


「先輩、このニックネームってなんですか?」


「名札に書く名前よ。教室の生徒たちは、ニックネームで呼び合うの」


 なるほど。まあ、個人情報とか色々あるものな。

 深く考えても仕方ないので、カタカナで「サクラ」と記入した。

 本名そのままだけど、下の名前だけで何がどうなることもないだろう。


「先輩のニックネームはなんなんですか?」


 私が尋ねると、青葉先輩は仄かに頬を赤らめた。


「笑わない?」


「誓って」


「……ちゃん」


「えと?」


「……ポニーちゃん、よ」


 なんで?

 ……ああ、サイドテールだからか!


「その、ね。見た目と結びつけたほうが、覚えてもらいやすいかと思って……」


「か、可愛いですよ!」


 慌ててフォローしてみるものの、青葉先輩改めポニーちゃんは、羞恥に耐える乙女みたいな顔で俯いていた。

 正直、普段どこか超然としている青葉先輩がそうしていると、反則的にかわいい。うっかり新しい世界に目覚めてしまいそうだ。

 エレベーターが四階へ到着する。

 私たちは併設のロッカールームでエプロンと三角巾を身につけて、会場へ入った。

 料理教室の会場は、お馴染みの調理台が六つ並んだ、学校の家庭科室によく似た部屋だ。

 すでに先客が何人かいて、和やかな雰囲気で談笑している。

 調理台の上には手書きの名札が置かれていて、そこが自分の席になるらしい。

 当然というべきか、私は先輩と同じ調理台だった。

 もう一人同じ班の女性がいて、年齢は20代半ばくらいだろうか? おっとりした雰囲気の、優しそうな人だ。


「ポニーちゃんさん、お友達を連れてきたの?」


「はい。元後輩なんです」


 先輩、ポニーちゃんさんて呼ばれてるんだ……。


「は、はじめまして。サクラっていいます」


「よろしくね。ミツバです」


 ミツバさんは、ニット生地のオフショルダーと、笑顔がよく似合う女性だった。

 えくぼを浮かべた表情は、大学生くらいにしか見えない。


「先輩、今日って何を作るんですか?」


「ちょっと待ってね。ええと」


 スマホで何かを確認してから、


「親子丼とシジミのお味噌汁、らしいわ」


 と教えてくれた。

 親子丼か。ふわふわの卵と、甘じょっぱい出汁。想像するだけで美味しそうだ。

 そういえば、始めて食べた篠森のご飯は他人丼だった。

 ひとりぼっちの家庭科室で、丼を抱えていたっけ。

 なんだかもうずっと昔の出来事のような気がする。


 シェフコートを来た講師役の先生がやって来て、料理教室が始まった。

 教室というだけあって、教え方は細かくて丁寧だ。

 玉ねぎを細切りに、鶏もも肉を一口大に切って、卵を溶く。

 並行して、しじみの味噌汁も作る。砂抜き済みのシジミを鍋に入れて、昆布と一緒に弱火でゆっくり沸かしていく。沸いたら火を止めて、味噌を溶かす。

 うん。なかなか順調なんじゃない?


「先輩はどう──おぅ」


「……うぅ」


 青葉先輩は、ようやく親子丼の下拵えを終えたところだった。

 玉ねぎの厚みはバラバラで、どこをどう切ったのか一部はみじん切りみたいになっている。分厚く切りすぎた部分を修正しようとして、刻む形になってしまったらしい。

 卵を溶いたボウルにはカラが浮いていて、かき混ぜるときに跳ねた卵液が調理台を汚していた。


「……青葉先輩ってもしかして」


「言わないで」


 頬を赤く染めて、言う。


「料理ができるなら、こんなところに通うはずないでしょう?」


「で、ですよね! ちょっと意外でした。先輩って、なんでもできる人かと……」


「いないわよ、そんな人。いえ、いるところにはいるかもしれないけど、私は違う」


 はにかみながら、青葉先輩は菜箸で卵のカラを取り除いていく。


「ご覧のとおり、本当は不器用だし、そもそも根が怠け者なの。教室に通ってるのも、自分を追い込むため。そうでもしないと、絶対に料理なんてしないから」


 何度もつまみ損ねた後、ようやく先輩はカラを小皿に移すことに成功した。


「幻滅させてしまったかしら」


「そんなこと、ないです。私も……結構、見栄っ張りなので」


 私だって、優等生という鎧を着て、仮面をつけて生きている。教室ではサンドイッチしか食べないし、授業で急に当てられても対処できるよう予習復習は欠かさない。

 自分だけが、そうしているのだと思っていた。

 でも、そうか。違うのか。

 先輩も、そうだったんだ。

 なんだか急に、先輩を近くに感じた。憧れの人が、等身大の姿で見える。

 青葉先輩は、万能でも神様でもない。優しくて懸命で、料理が苦手な、ひとつだけ年上の女の子だ。

 そんな当たり前のことを、今、始めて知った気がした。


 フライパンにごま油を注いで、玉ねぎを炒める。しんなりしてきたら鶏肉を皮を下にして入れて、じっくり炒めていく。そこに合わせておいた調味料を入れて、卵液を注ぐ。

 熱が通り過ぎないあたりで火を落とし、丼によそったご飯の上へ滑らせれば──完成だ。


「出来た!」


「桜さん、上手ね。私は……ちょっと火を通し過ぎちゃったみたい。炒り卵になっちゃった」


 青葉先輩が、しゅんと肩を落とす。

 確かに、彼女の丼に載っている卵はホロホロに固くなっていて、講師の先生が作ったような「ふわっ、トロッ」という感じからはほど遠い。

 もっとも、私の親子丼もそこまで完璧に作れたわけじゃないけれど。

 今思えば、篠森が作ってくれた他人丼は、まさに「ふわっ、トロッ」という感じの完璧な仕上がりだった。あらためて、あの子はすごいなあと思う。


「でも、炒り卵も美味しいですよ!」


「……そうね。ありがとう、桜さん」


 そうやって私がフォローしていると、調理台の向かいでミツバさんが「くふっ」と吹き出した。

 しまった。話しすぎたかも。


「──あの、ごめんなさい。騒がしくしちゃって」


「あ、ううん。そうじゃないの。あなたたち、すごく仲良しなのね」


 ミツバさんの丼には、綺麗な半熟に仕上がった卵が載っていた。さすがに見本ほどではないけれど、私よりも上手に作れている。


「ポニーちゃんさんは、美浜大附属の三年生だったわよね。サクラさんも、同じ高校なの?」


「あ、いえ。私は海浜高校です」


「海浜……」


 ? なんだろう?

 学校名を告げた瞬間、ミツバさんの顔に陰が差したように見えた。


「元々、同じ中学だったんですけど。週末、海浜と美浜が合同で学園祭をやるので、それで再会して。今日は体験入学なんです」


「美浜と合同で……そうなのね」


「私たち、喫茶店をやるんですよ。コーヒーとナポリタンを出す予定です」


 ミツバさんは静かに目を細めて、「いいわね。青春って感じで」と言った。

 それから逡巡するように左右を見て、やや小さな声で続ける。


「その学園祭って、誰でも入れるのかしら」


「あ、その。防犯の兼ね合いで、今はチケット制なんです。生徒にチケットを配って、それを招待したい人に渡してもらうシステムで」


「……そうなの」


 再び、ミツバさんの表情に憂愁が浮かぶ。そんなに学園祭に入ってみたかったのだろうか。もしかして、実は海浜のOBとか?

 青葉先輩が、お手本みたいな笑顔を浮かべて言った。


「ミツバさん。もしよければ、私のチケットを差し上げますよ。ちょうど余っていたので」


 青葉先輩は、財布の札入れの部分から緑の厚紙を取り出して、ミツバさんの前に置いた。

 美浜大附属の招待チケットだ。

 合同学園祭なので、このチケットがあればどちらの高校にも入ることができる。

 ミツバさんは、ためらうようにチケットと先輩の顔を交互に見やった。


「そんな、いいの? お友達とか」


「こう見えて私、生徒会長ですから。チケットは何枚でも用意できます。それに、お客様がたくさん来てくれたほうが盛り上がるので」


「……じゃあ、せっかくだから」


 招待チケットを手に取り、丁寧にハンドバッグへとしまい込む。

 こういう機会を見越して、先輩はチケットを持ち歩いていたのかもしれない。もしそうなら、さすがの一言だ。


 親子丼を食べ終えて、後片付けをしたら、料理教室はお開きとなった。ミツバさんとはビルの前で分かれて、私と先輩はショッピングモールのほうへ向かう。


「どうだった?」


「思ってたより、楽しかったです。誰かと一緒に作るなら、料理も悪くないなって思いました」


「そう、ならよかった」


「今度、篠森と一緒に作ってみようかな。いつも作ってもらってばかりだから」


 私がそう言った瞬間、青葉先輩がぴたりと足を止めた。

 秋の訪れを告げるような、どこか冷ややかな風が頬を撫でで吹き抜けていく。


「……先輩?」


「その。これは、桜さんがよければなのだけど」


 めずらしく口ごもり、まごついてから、先輩が口が開いた。


「私と一緒に、料理教室、通ってみない?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る