勧誘親子丼
①
さて、私たちが向かうのは、「美浜文化センター」と銘打たれた比較的真新しいビルである。
いわゆるカルチャーセンターというやつで、五階建のビルには音楽や英会話、あるいは生花など、社会人向けの習い事教室が集約されている。
フロントで立ちすくむ私をよそに、青葉先輩はパールブルーの財布からカードを二枚取り出して、受付へと差し出した。一枚は会員証で、もう一枚にはお友達紹介カードと書かれていた。
受付の女性が、口角の上がった営業スマイルを浮かべる。
「料理教室をご利用中の、鶴ヶ谷様ですね。お連れ様は、こちらにお名前を記入いただけますか」
「あ、はい」
私は用紙を受け取り、さらさらと必要事項を記入した。
クリップボードに挟まれた用紙には、こう印字されている。
──料理教室体験申込書。
そう。私は今日、先輩が通う料理教室の体験にやってきたのだ。
どうやら先輩は、大学進学を機に一人暮らしを計画しているらしく、その準備として料理の修行を始めたそうだ。
用意周到というか、まず一人暮らしイコール自炊、さらに料理教室、という考え方が並じゃない。それをあっさり許可してしまうご両親も、だ。
とにかく。
先日、先輩が海浜へやってきたとき、そういう話になった。
話の流れで、先輩から「もし興味があるなら、一緒に行ってみる? 紹介なら無料だし」と言われ、体験入学を申し込んだ次第である。
ポールペン片手に、さらさらと申込書を埋めていく。
その中で、一箇所だけ手の止まる箇所があった。
「先輩、このニックネームってなんですか?」
「名札に書く名前よ。教室の生徒たちは、ニックネームで呼び合うの」
なるほど。まあ、個人情報とか色々あるものな。
深く考えても仕方ないので、カタカナで「サクラ」と記入した。
本名そのままだけど、下の名前だけで何がどうなることもないだろう。
「先輩のニックネームはなんなんですか?」
私が尋ねると、青葉先輩は仄かに頬を赤らめた。
「笑わない?」
「誓って」
「……ちゃん」
「えと?」
「……ポニーちゃん、よ」
なんで?
……ああ、サイドテールだからか!
「その、ね。見た目と結びつけたほうが、覚えてもらいやすいかと思って……」
「か、可愛いですよ!」
慌ててフォローしてみるものの、青葉先輩改めポニーちゃんは、羞恥に耐える乙女みたいな顔で俯いていた。
正直、普段どこか超然としている青葉先輩がそうしていると、反則的にかわいい。うっかり新しい世界に目覚めてしまいそうだ。
エレベーターが四階へ到着する。
私たちは併設のロッカールームでエプロンと三角巾を身につけて、会場へ入った。
料理教室の会場は、お馴染みの調理台が六つ並んだ、学校の家庭科室によく似た部屋だ。
すでに先客が何人かいて、和やかな雰囲気で談笑している。
調理台の上には手書きの名札が置かれていて、そこが自分の席になるらしい。
当然というべきか、私は先輩と同じ調理台だった。
もう一人同じ班の女性がいて、年齢は20代半ばくらいだろうか? おっとりした雰囲気の、優しそうな人だ。
「ポニーちゃんさん、お友達を連れてきたの?」
「はい。元後輩なんです」
先輩、ポニーちゃんさんて呼ばれてるんだ……。
「は、はじめまして。サクラっていいます」
「よろしくね。ミツバです」
ミツバさんは、ニット生地のオフショルダーと、笑顔がよく似合う女性だった。
えくぼを浮かべた表情は、大学生くらいにしか見えない。
「先輩、今日って何を作るんですか?」
「ちょっと待ってね。ええと」
スマホで何かを確認してから、
「親子丼とシジミのお味噌汁、らしいわ」
と教えてくれた。
親子丼か。ふわふわの卵と、甘じょっぱい出汁。想像するだけで美味しそうだ。
そういえば、始めて食べた篠森のご飯は他人丼だった。
ひとりぼっちの家庭科室で、丼を抱えていたっけ。
なんだかもうずっと昔の出来事のような気がする。
シェフコートを来た講師役の先生がやって来て、料理教室が始まった。
教室というだけあって、教え方は細かくて丁寧だ。
玉ねぎを細切りに、鶏もも肉を一口大に切って、卵を溶く。
並行して、しじみの味噌汁も作る。砂抜き済みのシジミを鍋に入れて、昆布と一緒に弱火でゆっくり沸かしていく。沸いたら火を止めて、味噌を溶かす。
うん。なかなか順調なんじゃない?
「先輩はどう──おぅ」
「……うぅ」
青葉先輩は、ようやく親子丼の下拵えを終えたところだった。
玉ねぎの厚みはバラバラで、どこをどう切ったのか一部はみじん切りみたいになっている。分厚く切りすぎた部分を修正しようとして、刻む形になってしまったらしい。
卵を溶いたボウルにはカラが浮いていて、かき混ぜるときに跳ねた卵液が調理台を汚していた。
「……青葉先輩ってもしかして」
「言わないで」
頬を赤く染めて、言う。
「料理ができるなら、こんなところに通うはずないでしょう?」
「で、ですよね! ちょっと意外でした。先輩って、なんでもできる人かと……」
「いないわよ、そんな人。いえ、いるところにはいるかもしれないけど、私は違う」
はにかみながら、青葉先輩は菜箸で卵のカラを取り除いていく。
「ご覧のとおり、本当は不器用だし、そもそも根が怠け者なの。教室に通ってるのも、自分を追い込むため。そうでもしないと、絶対に料理なんてしないから」
何度もつまみ損ねた後、ようやく先輩はカラを小皿に移すことに成功した。
「幻滅させてしまったかしら」
「そんなこと、ないです。私も……結構、見栄っ張りなので」
私だって、優等生という鎧を着て、仮面をつけて生きている。教室ではサンドイッチしか食べないし、授業で急に当てられても対処できるよう予習復習は欠かさない。
自分だけが、そうしているのだと思っていた。
でも、そうか。違うのか。
先輩も、そうだったんだ。
なんだか急に、先輩を近くに感じた。憧れの人が、等身大の姿で見える。
青葉先輩は、万能でも神様でもない。優しくて懸命で、料理が苦手な、ひとつだけ年上の女の子だ。
そんな当たり前のことを、今、始めて知った気がした。
フライパンにごま油を注いで、玉ねぎを炒める。しんなりしてきたら鶏肉を皮を下にして入れて、じっくり炒めていく。そこに合わせておいた調味料を入れて、卵液を注ぐ。
熱が通り過ぎないあたりで火を落とし、丼によそったご飯の上へ滑らせれば──完成だ。
「出来た!」
「桜さん、上手ね。私は……ちょっと火を通し過ぎちゃったみたい。炒り卵になっちゃった」
青葉先輩が、しゅんと肩を落とす。
確かに、彼女の丼に載っている卵はホロホロに固くなっていて、講師の先生が作ったような「ふわっ、トロッ」という感じからはほど遠い。
もっとも、私の親子丼もそこまで完璧に作れたわけじゃないけれど。
今思えば、篠森が作ってくれた他人丼は、まさに「ふわっ、トロッ」という感じの完璧な仕上がりだった。あらためて、あの子はすごいなあと思う。
「でも、炒り卵も美味しいですよ!」
「……そうね。ありがとう、桜さん」
そうやって私がフォローしていると、調理台の向かいでミツバさんが「くふっ」と吹き出した。
しまった。話しすぎたかも。
「──あの、ごめんなさい。騒がしくしちゃって」
「あ、ううん。そうじゃないの。あなたたち、すごく仲良しなのね」
ミツバさんの丼には、綺麗な半熟に仕上がった卵が載っていた。さすがに見本ほどではないけれど、私よりも上手に作れている。
「ポニーちゃんさんは、美浜大附属の三年生だったわよね。サクラさんも、同じ高校なの?」
「あ、いえ。私は海浜高校です」
「海浜……」
? なんだろう?
学校名を告げた瞬間、ミツバさんの顔に陰が差したように見えた。
「元々、同じ中学だったんですけど。週末、海浜と美浜が合同で学園祭をやるので、それで再会して。今日は体験入学なんです」
「美浜と合同で……そうなのね」
「私たち、喫茶店をやるんですよ。コーヒーとナポリタンを出す予定です」
ミツバさんは静かに目を細めて、「いいわね。青春って感じで」と言った。
それから逡巡するように左右を見て、やや小さな声で続ける。
「その学園祭って、誰でも入れるのかしら」
「あ、その。防犯の兼ね合いで、今はチケット制なんです。生徒にチケットを配って、それを招待したい人に渡してもらうシステムで」
「……そうなの」
再び、ミツバさんの表情に憂愁が浮かぶ。そんなに学園祭に入ってみたかったのだろうか。もしかして、実は海浜のOBとか?
青葉先輩が、お手本みたいな笑顔を浮かべて言った。
「ミツバさん。もしよければ、私のチケットを差し上げますよ。ちょうど余っていたので」
青葉先輩は、財布の札入れの部分から緑の厚紙を取り出して、ミツバさんの前に置いた。
美浜大附属の招待チケットだ。
合同学園祭なので、このチケットがあればどちらの高校にも入ることができる。
ミツバさんは、ためらうようにチケットと先輩の顔を交互に見やった。
「そんな、いいの? お友達とか」
「こう見えて私、生徒会長ですから。チケットは何枚でも用意できます。それに、お客様がたくさん来てくれたほうが盛り上がるので」
「……じゃあ、せっかくだから」
招待チケットを手に取り、丁寧にハンドバッグへとしまい込む。
こういう機会を見越して、先輩はチケットを持ち歩いていたのかもしれない。もしそうなら、さすがの一言だ。
親子丼を食べ終えて、後片付けをしたら、料理教室はお開きとなった。ミツバさんとはビルの前で分かれて、私と先輩はショッピングモールのほうへ向かう。
「どうだった?」
「思ってたより、楽しかったです。誰かと一緒に作るなら、料理も悪くないなって思いました」
「そう、ならよかった」
「今度、篠森と一緒に作ってみようかな。いつも作ってもらってばかりだから」
私がそう言った瞬間、青葉先輩がぴたりと足を止めた。
秋の訪れを告げるような、どこか冷ややかな風が頬を撫でで吹き抜けていく。
「……先輩?」
「その。これは、桜さんがよければなのだけど」
めずらしく口ごもり、まごついてから、先輩が口が開いた。
「私と一緒に、料理教室、通ってみない?」
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