第2話 徒花
落ちるところまで落ちた人間は、上等な徒花の匂いがする。
昔にガデがそう言っていたのをアイは思い出していた。
ソー公園のおよそ100本の桜たちは、見事な八分咲きで丁度満開を迎えていた。アイはその桜がずらと並んだ道を歩いていた。時に、徒花の象徴と言えば桜である。その桜の殆どに香りは少ない。しかし、この公園に植わっている八重桜は顔を近付けると仄かに良い芳香がした。
アイの父方の祖母は日本人で、幼い頃にその本家へ連れて行ってもらったことがある。庭には立派な大島桜が咲いていて、その匂いに似ていると思った。祖母は穏和で昔話が好きな人であった。フランス人の祖父が母国へ祖母と駆け落ちした話を何度もしていた記憶がある。しかし、そんな良き血筋の祖母が居たにも関わらず、唯一似たこの艶のある黒髪を売りにして自分が男娼をしていると思うと、アイは苦笑いを隠せなかった。人生は何があるか分からない。自分からも、きっと上等な徒花の匂いがするのだろうな、と思った。
今日の客の男は所謂親日家で、最後に花見をしようとこの公園に連れてきてくれた。八重桜の、幾重にも重なった花弁はまるで薔薇のように美しく木々を彩っている。男が"気に入ったのなら気の済むまで見て行きなさい"と言って立ち去って行ってから1時間は過ぎている。ふらふらと桜を見ている内に時間はあっという間に過ぎ去った。しかし、日中はそうでもないが夜はまだ冷え込む。ちらと腕時計を見れば公園の閉園時間も迫ってきているので、アイは仕方なく帰り道を歩き出した。ざあっと風が吹いて、別れを惜しむように花弁が散っていた。
ピガールの夜は長い。観光客に客引きが様々な言葉で話し掛け、カンカンの踊り子の香水の匂いがし、それを隠すように歩き煙草の煙が漂う。宴は毎日夜通し続く。びかびか光るネオンが目に痛い。その光を背に、アイは忙しなく行き交う人々の流れを、横切るように路地へと入った。
奥まった場所にあるナイトクラブの看板は、電飾が所々切れて点滅している。アイはその看板の青色をぼーっと眺めていた。目を落とせば扉には錆が目立ち、壁からはひしゃげたパイプが剥き出しになっていて、見るからに寂れた佇まいである。アイは夜にだけしかこのナイトクラブを訪れたことがないが、昼に見たらきっと幽霊が出ると噂されるだろうなと想像した。入口から男女が腕を組んで出てくる。そんなに狭くもないのに、男がわざと肩をぶつけるように歩いてくるものだから、アイはそれを直前でひょいとかわした。突っ立ってんじゃねえよ、と怒鳴る声が聞こえた。確かにそうである。アイはどこか放心状態のまま、店の扉を開けた。
人の熱気と、男の汗と、女の化粧品の匂い。それをごちゃ混ぜにしたような空気で店内は溢れかえっていた。ディスコライトがチカチカして、ミラーボールが回っている。目眩がするようなこの光景も見慣れたものである。
ホールを抜けて奥の、カウンターの真ん中辺りにブロンドの男性が見える。似つかわしくない糊の利いたスーツ姿で、一人で酒を飲んでいるようだった。アイはその男に向かって声を出した。
「悪い、遅れた」
男はアイの声に気が付いたように振り返った。白目まで黒曜石のような黒い瞳がアイを写す。直に口元が綻んで、落ち着いたテノールが聞こえた。
「君が遅れるなんて珍しい。ほら、座って」
「お前はいつも早すぎなんだよ、ガデ」
アイがそう言うと、ガデはハハハと笑って隣の椅子を叩いた。アイはゆっくりとガデの隣に座った。
ガデはいつも予定している時刻より10分以上も早く来る。昔から何事も前もって準備をしないと気が済まない性分なのだ。また、約束をすっぽかされても連絡が無い限り数時間は待っている。これもまたガデの生真面目な性格ゆえのことであった。
「彼にもジントニックを」
「なんだ、お前は今日はオンザロックじゃないのか」
「たまには良い」
「そう」
アイは珍しいこともあるものだ、と思いながらガデとグラスを打ち鳴らした。ガデはグラスの半分くらいになったジントニックを揺らして、にこりとアイに微笑んだ。
「なんだ、機嫌が良いのか?」
「ふふ、君が遅れた理由が分かった」
「?」
「花攫いに遭っただろう」
「…何故?」
「ほら」
そう言ってガデがアイの背に触れると、その手を目の前に持ってくる。その指には小さな桜の花弁があった。アイは、何故だか場都合が悪くなって目を逸らした。ガデはアイのグラスに花弁を浮かべた。
「もうそんな時期か、時の流れは早いね」
「どこの桜も満開だ。お前は行かないのか」
「予定表には無いね。君はよく行くのかい」
「いいや、今日の相手が気まぐれに僕を連れて行っただけだ。桜に興味は無い」
「その割には気に入られたみたいだ」
「よせ。そんなんじゃないったら」
アイはガデが揶揄ってくるのを嫌そうにしながら、ジントニックを一口飲んだ。ガデは含み笑いをして愉快そうにしていた。そうしていたら、ガデが煙草に火を点けながら、スラックスのポケットから一枚の名刺を取り出して見せた。
「今日の客の名刺だ」
「…ホンダ…?日本人か」
「ああ。日本語とフランス語を巧みに操っていた」
「医者か、さぞかし利口なんだろうな」
「玩具と言葉責めが好きな奴だったよ」
「へえ…じゃあパス」
アイは名刺をガデに返して煙草を咥えた。ガデが徐に火を点ける。2人分の煙がゆるゆると立ち上った。
このナイトクラブは俗に言う"違法クラブ"で、屋内の喫煙が禁止されている昨今でも、20時から22時までは暗黙の了解で喫煙が出来た。それがこのクラブに集まる理由と言ってもいい。
アイはグラスを傾けながらぼんやりと話した。
「…なあ、」
「なんだい」
「俺からも徒花の匂いがするのか」
「ん?ああ…。よく私の話を覚えていたね」
「お前は昔から鼻がよく利く。他の男の匂いをつけて帰ってきた時はいつもお前が一番に気がつく」
「ハハ、そうだねえ」
ガデは棚に綺麗に整列したボトルを見つめながら静かに息を吐いた。その横顔は美術館に飾られている彫刻のように鼻筋が通っていて、長い睫は金糸のように、真白い肌は雪のように儚げであった。10人居れば10人がため息をつくような美丈夫である。唯一、深淵のような黒い瞳が少しばかりミスマッチだが、それすらも魅力的と思える。…
「で、どうなんだ。その匂いはするのか」
「ウウン、そうだなあ…君は」
「アア!いたいた!」
ガデの声を遮るように男の声が耳を打つ。ガデとアイはその声の方へ振り返った。くたびれたブラウンのサテンシャツを着た男がひらと手を振った。
「アンリ」
「遅いぞ」
「ごめんごめん!今日の客ったらしつこくて」
アンリはアイの横に座るとソルティドッグを頼んだ。煙草を忘れたと言って眉尻を下げるので、ガデがアンリに向かってマールボロを投げた。アンリはにへらと笑って煙草を咥えた。アイがそれに火を点けてやる。ふーっと煙を吐いて、それからやってきたグラスで、サンテ!と言って乾杯した。
「聞いてよ、今日のセックスの話」
「うん」
「ほら、俺ってさ中イキ出来るじゃん?射精しないで」
「そうだな」
「そうしたらさ、アイツ何て言ったと思う?俺みたいなおっさん捕まえて"女の子みたいだね"だってさ。それで続けざまに"バージンはあるけど処女膜が無いのが残念だ"って言ったんだぜ?どう思う?」
「普通に考えてバージンも無いが」
「だよなァ?でも俺より年食ってたから呆けてきてるのかもしれない。あとやたらキスが長い」
「面倒くさそうだね」
「疲れたさ、もうあの客は十分だ。値切られたし」
「うわ…」
ソルティドッグの塩を舐めながら、アンリはため息をついた。ガデはアンリの横へ座り直し、少しぼさついた長い髪を撫でた。アンリは身体を預けるようにガデに寄りかかり、目を閉じてされるがままになっていた。
「そういえば、今日の相手から貰ったんだ」
ガデは煙草を消して、スーツの内ポケットから小さな箱を取り出した。それをアンリの目の前に置いて、あげる、と言った。物珍しそうにアンリが箱を開けた。
「これは何?漢字?日本語?読めない」
「飴玉さ。抹茶味だよ」
「マッチャ?」
「そう。日本のお茶」
「ふうん…」
アンリは恐る恐るそれを口にした。それから直に、キラキラと碧眼を輝かせてガデを見た。
「美味い!なんだこれ!」
「良かったね、アンリは和食にハマったことがあっただろう。きっと気に入ると思ったんだ」
「やっぱり日本ってクレイジーだな!」
「アイも食べるかい」
ガデが箱から飴玉を一つ取り出して、アイに手渡す。アイはそれをじっ…と見つめた。アイは昔に一度だけ、祖母にお茶を点ててもらったことがあった。当時の幼い舌では熱さと苦味しか感じられず、上手く飲めないでいた。それでも祖母は微笑んで、アイの頭を撫でてくれた。その柔らかな祖母の顔を思い出して、目頭がカッと熱くなる。誤魔化すように飴玉を口に放った。
「アイ?」
「…なんでもない」
「オイ、泣かせるなよ兄弟」
「何もしてない」
アンリはアイの肩を抱いて揺すりながら、なあ美味いだろ?と言った。アイはぽろぽろと涙を零して、うん、と返事をした。
「今日はずっとこんな感じなんだ」
「なに?生理?」
「こら」
「へへ…」
ガデがアンリの頭を叩くと、意地悪そうにアンリは笑った。それから、煙草を揉み消したアイがぽつりと呟く。
「……そうさ。僕は花に、攫われたんだ」
「花?花ってなに?」
「桜の花だ。実も付けないのに上品な花を咲かす。それが一等綺麗で、涙が出るんだ。真っ当に生きる人たちにも、こんな落ちぶれた僕にも、変わらず美しく咲いてみせるんだよ…」
「それに、心を奪われちゃったの」
アイはまだ涙を流しながら頷いた。アンリは困ったように髪を掻いた。それから肩を抱いてる腕をそっと離して次は背を撫でた。すると、堰を切ったようにアイはひきつけを起こしながらおいおいと泣き始めた。
「泣かせちゃダメだよ、アンリ」
「な、泣かせてねェよ…」
「ふむ…」
そうしてガデがもう一度アイの隣に座り直すと、ジントニックを一口飲んだ。その口で、ガデはアイにキスをした。ん、とアイが目を瞑る。アイの口から飴玉を舌で器用に掠め取ると、次に耳元で囁いた。
「安心しなさい、君から徒花の匂いがしたことは無い」
「……」
すると、アイはまるでラジオの再生が止まるみたいに、ピタリと泣き止んだ。にっこりとガデが笑っているのをアンリは怪訝そうな顔で見た。
「なんだよ、コソコソ話しやがって」
「内緒話だ」
「俺じゃ力不足ってか」
「私には役不足だったらしい」
露骨に仲間外れにされたようになって、アンリは口を尖らせた。ガデはけらけら笑っている。アイはそれを聞きながらジントニックを飲むと、ゆっくりとガデの胸に身体を預けた。規則正しい心臓の音がして、涙をシャツの袖で拭いた。
「…ガデ、」
「ん?なにかな」
「もう一回キスして」
「は?俺は?」
「いいよ」
ガデは飴玉を噛んで飲み込むと、アイにまた口づけた。甘くて少し苦い抹茶が、ジンに侵されている味がした。アンリはとうとう拗ねて自身の髪の毛をいじり始めた。
「仲が宜しいこって!ここは俺が出すからどっか行けよ」
「おや、値切られたんじゃないのかい」
「うるせー、たまの息抜きぐらい払える」
「じゃあお言葉に甘えて。行こうかアイ」
「うん」
ガデとアイは残ったジントニックを飲み干すと席を立った。ガデがアイの腰に手を回して、そのままホールの人混みに紛れて消えた。
アンリは煙草を灰皿に押し当てると、貰った12mgのマールボロを見つめた。
「高くついたな、お前」
それからくつくつと一人で笑って、天井を仰ぎ見た。
ふうと息をつくと、目を閉じて呟く。
「良い勘定は良い友人をつくる」
アンリは、これ意味違う?とマスターに聞いた。
男娼の談笑 椎名安利 @zpxxx444
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。男娼の談笑の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます