男娼の談笑

椎名安利

第1話 男娼の談笑

雨が降っていた。


ザーザーと叩きつけるような雨ではなく、ぽつぽつとしとやかに囁くような雨だった。そのため赤い風車、ムーラン・ルージュの前は雨なぞ意に介さないと言ったように人でごった返していた。そこをすっと通り過ぎれば、下品な単語のネオンが煌々と光って、ショーウィンドウがこれでもかと蛍光灯を点け、星々を打ち消すかのような歓楽街は文字通り眠らぬ街に相応しい佇まいであった。

ガデはスーツの襟を正しながらその人混みの間を縫った。如何わしいカフェやバーからの騒音、酔いどれたちの罵声、客引きの声…すべてこの街の息吹のような喧騒には慣れたものである。スリが真っ当な青年の皮を被って彷徨いている、大抵酔っ払いが鴨にされる。それを夜のピエロが目を張っていた。ガデは長い間この街で生きてきたので、パッと見た目で殆どの人の成りが分かるようになっていた。嫌な特技と言ってもいい。そういう世界で生まれ育ったので仕方ないと言えばそうとしか言えぬ。落ちるところまで落ちた人間は、何故か上等な徒花の匂いがするのだった。ガデは自身からその匂いを消すように煙草に火を点けた。直に男に「俺にも一本くれ」と声をかけられる。聞こえていないとでも言うように無視して歩いた。これがこの街で生きていく一番の手段であった。


ガデは人々の群れから少し外れて、路地を通った先のナイトクラブの前に立った。入り口で男女が熱いキスを交わしていて、結構なことだと思いながら扉を潜った。

奥まった場所にあるにも関わらず店内は大盛況、といったように、人たちが爆音のサウンドミュージックを受けて踊っている。ディスコライトのちかちかした明かりがその絡み合いを照らしていた。ガデはホールから離れたカウンターの真ん中辺りに座るとウイスキーのロックを頼んだ。

灰皿を引っ張ってきて煙草を消すと、続けざまにもう一本を吸い始める。身体に毒で税金も高く商売にも響くが、これだけはやめられないのだった。マスターがグラスをガデの前に置く。それを一口含めば、カッと喉が開いて熱が通り過ぎる。これもまたやめられないな、とガデは思った。

ちらと腕時計を見る。時刻は午後9時になろうとしていた。そろそろか、と思いながらガデは煙草を吸った。


「お前、銘柄変えたのか?」


ふっと男の声が降ってくる。ガデは椅子をくるりと回して後ろを見た。そこにはガデと同じく紺のスーツ姿に、艶のある黒髪を蓄えた男が立っていた。ガデは男にひらと手を振ると、隣の椅子を叩いた。


「おまけに貰っただけさ」

「珍しい匂いだ、一本くれ」

「君も乞食みたいなことを言うんだな、アイ」


ガデはアイが横に座ったのを見て、煙草を一本渡した。アイが徐に煙草に火を点ける。この男も煙草には目が無い。良い香りだ、と言ってアイもウイスキーのロックを頼んだ。


「君がウイスキーなんて、ジントニックが泣くよ」

「うるさい。今日は酔いたいんだ」

「なに、機嫌が悪そうだ」

「最悪の日だったさ、今日はツイてない」

「聞こうか」


ガデはウイスキーのグラスをアイと打ち鳴らした。アイは慣れない酒に眉をしかめていた。本当にツイてない、と再度口にした。


「昔の客だ。当時はいやに前戯が丁寧だな、と思うくらいだった。1年前ぐらいから姿を見なくなったから、きっと別の女でも抱いてるんだろうなとしか思ってなかった」

「うん」

「そうしたら今日、丁度昼頃にメッセージが入っていて、寂しいから久しぶりに会いたいとか…なんか親父が売春婦に入れあげてるみたいな文章だった。気色が悪いなと思いつつちゃんと金は出す奴だったから、さっきまでソイツとホテルに居た」


ガデはアイがしきりにウイスキーを飲んでは口に手を当てるので、代わりにジントニックを頼んでやった。煙草を灰皿に押し当ててから、アイのグラスを自分の方に引っ張ってきて、ジントニックと入れ替える。


「…で、ソイツが部屋に入るなり言ったんだ。"ここで咥えろ"ってさ。マァいいさ、別に。即尺なんてこの世にはザラにある。こういう商売やってたら尚更。だからイエスと言ってソイツのスラックスを剥いだんだ。そしたら、分かるか?無数に、本当にたくさんのピアスが開いてた」

「ワオ」

「それを咥えろって言われて、コイツもなんか変わったな、なんて思いながら普通にフェラチオした。それでもちゃんと勃ったからホッとしてたら、今度は乱暴に髪を引っ張ってベッドに押し倒された。前みたいな丁寧な前戯も無くそのまま突っ込まれて…」

「酷い話だ」

「ソイツはやけにニヤニヤしながら僕を見てた。まるでサディストのそれだった…アア、思い出すと吐き気が…」

「ジンを飲みなさい」


アイはジントニックに少し口をつけて息をつくと、煙草を揉み消して胸をさすりながら話を進めた。


「…ソイツが挿れたままなにやら鞄を漁るんだ。僕はなにか玩具でも持ってきてるんだと思った」

「そうだね」

「違った。…ソイツが笑顔で手にしてたのはピアッサーだった」

「うわ」

「"今から僕の物にしてあげる!"…そう言うソイツの顔は笑顔だった。なんにも悪気がないように、子供のように無邪気に。それをなんの躊躇いも無く僕のペニスに近付けてきた」

「…それで?」

「腹を蹴り上げてやった。それから股を踏んづけた。呻きながらもソイツが追ってくるから、僕は素っ裸でスーツを抱いて廊下に逃げた。ホテルマンが通って目をまん丸にしてた。咄嗟にトイレに駆け込んで着替えたさ…この年になって年甲斐も無く泣いたよ」

「可哀想に」


ガデはアイの肩を抱いた。アイはアルコールが入ると少々泣き上戸であったから、それからさめざめ泣き始めた。本当にこの男はつくづく男娼に向いていないとガデは思いながら、それでも肩を抱いて左右に揺れてやった。グラスの氷がカランと崩れた。


「なんだ兄弟、また泣かせてンのか!」


ガデの肩を抱く腕に重ねるように腕が回る。ガデはその主を見た。ガデと同じブロンドの長い髪を結わえて、整えた髭に、ビー玉みたいな青い瞳をしてる男。アイも綺麗な青い瞳をしているが、この男はさながら作り物のような碧眼をしている。その目が弧を描いてこちらを見ていた。


「私が泣かせたんじゃあないよ、アンリ」

「そう?ハハ、泣くなよアイくん」

「ウ…」


アンリがアイの黒髪をぐしゃと掻いた。アイは力無くぺしっとその手を払う。アンリはアイを挟むようにしてカウンターに座った。9%のスミノフを頼んで瓶を煽る。わざとらしく声を上げて、へらっと笑った。


「で、今日は何があったんだ」

「ボディピアスをアソコに付けられそうになったらしい」

「うわぁ…マジ?」


アンリはドンマイ、と言ってアイの頬にキスをした。それからジントニックのグラスを掴んで、アイに持たせる。アイはしばらくグラスを眺めてから、一気にそれを飲み干した。アンリが手を叩いて喜んでいた。


「そんな野郎アルコールで忘れちまえ」

「うん…」

「アンリは機嫌が良さそうだね」

「俺?分かる?」

「分かるさ、兄弟だもの」


ガデとアンリは双子の兄弟である。アンリが兄で、小さな頃からお互いを見て育った。劣悪な家庭環境から逃げるようにこの世界に足を踏み入れたのも、殆ど一緒のタイミングであった。そのためガデがアンリの心情を見抜くことなど容易いことであった。アンリはブラウンのシャツの胸ポケットから煙草を取り出して火を点けた。


「俺ァね、レギュラーの客からたんまりチップを貰った!マァでもどうして、なかなか変な日だったなァ」

「というと?」

「いつも一発ヤったらすぐ終わりの客なんだが、今日は2人の女を連れてやってきた。そのままいつものコテージに入って、女に見せつけながらセックスするのかな、と思ったら"女とまぐわえ"って言い出したんだ」

「…もしかして、その男、いつも黒のスーツで右目の上に傷が無いか?」

「え!何で分かるの?」

「ハハ、私の昔の固定だ」


アンリは口をあんぐりと開けて、穴兄弟じゃないの、と呟いた。ガデはアイが飲んでいたウイスキーを、氷を押さえて自分のグラスに移し、鞍替えだねぇ、と低語の声を出した。


「…えーっと、とりあえず続き話すと、俺は久しぶりに女のまろい肌に触れてドキドキしながら3Pしたってワケ。そんで何故かチップを引くほど弾んでくれた。…なんか知ってる?」

「その男、銀行員でギャンブラーなんだ。ATMの金をくすねてはギャンブルに使ってる。普段はATMにそのまま返すだけの額しか勝たないが、今日はだいぶ儲かったんだろう、私の時もそうだった」

「エー…そうなんだ…」


アンリはスミノフを空にすると煙草を消した。なんだかすっかり興が醒めたようだった。アイが新しいジントニックを頼みながらガデに言った。


「でも、なんだってお前からアンリに鞍替えしたんだ?」

「アア、それはねぇ…」

「待て!当てる!ええと…そうだな…」


声を出したアンリは空になった瓶で額を叩いた。それからウウンと唸って、次に笑顔でパチンと指を鳴らした。


「…アイツは妹が居るって言ってた、目に入れても痛くないほどの!兄弟のことだから、ソイツに手ェ出したんだろ!…ったく、ヨッ、この色男!」

「違うよ。そんなことをしたら私が八つ裂きにされてしまう。それに、アンリに転じた意味が分からなくなってしまうだろう」

「うーん、それもそうか…」

「ギブアップかい?」

「ギブだギブ」


ガデはふふと笑ってグラスの氷を指で撫でた。黒い瞳を伏せて、顔の前で手を組んだ。金糸のような睫が揺れる。そして呟くように言った。


「恋をしたんだ、彼」

「こ、恋?」

「そう」

「誰に?」

「私に」

「な…兄弟に?」


アンリはアイの背に乗っかるようにしてガデの方へ身を乗り出した。アイは黙ってグラスを傾けて話を聞いている。ガデは少し憂いだ瞳でウイスキーを見た。


「すぐに気がついた。やめてと言っているのに身体に痕を付けたがったし、シャワーを浴びている間にスマートフォンを盗み見ていた。まるで心はティーンのように、私に執着していた」

「アイツそんななの?いつも澄ましてるのに」

「人は見かけによらないものさ。誰だってなにかしら本性を隠して生きている。彼もそうなだけだ」

「そんなに執着していて、一体どうやって切ったんだ?」

「簡単さ。束縛の強い人間は、決まって承認欲求が強く、自己肯定感が高い。だから私はある日のセックス中に一つも演技をしなかった。一声だって鳴かなかったし、最後には早く済ませてくれとまで言った。そうしたら彼の心はぽっきり折れた。それきり連絡は無い」


ガデはそう言って背伸びをした。欠伸を噛み殺して、さも退屈だと言わんばかりであった。アイはアンリに視線を移して、それから呟いた。


「…で、次に目を付けたのが、兄のお前ってワケか」

「え?俺?マジ?そういうこと?」

「気を付けなさいアンリ。きっとアイツは、次こそもっと執着してくるよ」

「うげー!やめてくれよ兄弟…」


アンリはとうとう酔いも冷めたようになって、ぎゅっとアイに抱き付いた。アイも完全に泣き止んで、哀れむようにアンリの腕をさすった。ぐずぐずと泣き言を言うアンリにため息をついてキスをした。ガデはその様を見て微笑んでからウイスキーを含む。グラスが汗をかいていた。


「今日は私が出そう。可哀想なアイと、多分これから大変になるアンリのためにね」

「ウウ…慰めてアイくん…」

「あーはいはい…」


アンリがアイの腕に縋って、アイはその頭を撫でた。そして二人が席を立って、静かに眠らぬ夜の街に消えていった。

ガデがゆっくり煙草に火を点ける。煙がゆるゆると立ち上り、慣れない香りが鼻孔をくすぐった。


「恋、ね…」


吐き出す煙と共にぽつりと零れた声は、細く溶けた。

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