第5話 祈りを捧げる人々

 丘を少し下り、新緑のトンネルを縫うように伸びる木道を歩く。ウッドチップが敷かれたその道は、やわかい感触を足元に伝えてくる。木々の間からは、所々、木漏れ日が漏れている。鳥たちのさえずりが聞こえる。ぽちゃん、と音がした。小さな子供が池に石を投げ入れたらしい。その波紋がみるみる広がる。母親らしき女性に注意され、2度目の投てきはなかった。次第に波紋は収まり、深い緑を反映する静かな池に戻る。黒服の女性に抱えられていた猫は、いつの間にか木道に下ろされていた。私たちの後ろを無言ですたすたと付いてくる。木道が二股に分かれている。その分岐点に案内板が立ててある。一方には「友愛の里カトリック教会・修道院」と書かれている。「あと少し」と、黒服の女性が短く発し、そちら側に歩みを進める。

 やがて森が終わり、視界が一気に開ける。前方には小高い丘に立つ教会が見えた。白塗りの外壁、上部のステンドグラス。三角屋根の頂点には大きな十字架。入口の木製扉は閉じられている。背後には緑を濃くした山々が見える。教会に隣接するように、石垣で作られた古い建物が見える。あれはなんだろう。先ほどの案内板に書いてあった修道院だろうか。修道院といえば、共同生活を送る修道者の女性達をイメージするのだが、まさにそのような施設なのだろうか。そんな疑問が浮かぶと、前を歩く黒服の女性もその施設に関係する人間に思えてきた。修道者の雰囲気はあまり無いけれど。教会の入り口に続くなだらかなスロープを進む。スロープの周りはきちんと手入れされた芝生が囲んでいる。森を抜けたあたりで、微かに聞こえていたパイプオルガンの音は、今やしっかり耳に届いている。黒服の女性が、木製扉の片側の取っ手を、躊躇することなく手前に引く。私と猫はその僅かにできた隙間からするりと中へ入る。教会の中は薄暗かった。両側のステンドグラスから差し込む淡い光が場内を仄かに照らす。左右のアーチ状の柱が場内の最奥まで連なっている。中央は赤いカーペットが祭壇まで伸び、その両側に木製のベンチが並んでいる。ベンチには所々、人影が見える。みんな一心に前方を見ている。祭壇には私が教会でイメージするようなキリスト像やマリア像の姿は見えなかった。長方形に縁取られた枠が3つあり、それぞれにステンドグラスがはめ込まれていた。その手前には、左右に太い蝋燭が立ち、火を灯していた。私たちは一番後方のベンチにそっと腰を下ろした。猫もベンチに座りすぐに丸くなった。そこそこ歩いたので、疲れたのだろうか。巨大なパイプオルガンの前にはシスターの装いをした女性が演奏を続けている。暗くて表情はよく見えない。演奏されている曲は、バッハだろう。最近はあまり聞かなくなったが、一時期クラシックをよく聞いていて、特にバロックはお気に入りだった。曲名は忘れてしまったが、バッハの宗教曲であることはすぐに思い出せた。

「休日は午前中に礼拝があるの」

黒服の女性が小声で囁く。

「そろそろ終わると思う」

私は特に返事もせず、ただ、前方の祭壇で揺れる炎と、パイプオルガンの金管が動く姿を交互に眺めていた。

最後の一音が室内に響き、その余韻が少しづつ弱くなり、やがて完全な静寂が訪れる。シスターの元に、もう一人同じ姿の女性が近づく。シスターが立ち上がると同時にその女性はシスターの椅子を引く。御付きの人だろうか。静かに立ち上がったシスターは、胸の位置で両の掌を上に返し、何かを受け取るような姿勢になる。

「皆様の祈りが、永遠の安息をもたらさんことを」

シスターの発したその透明な声が、深く、そして厳かに響き渡る。場内は再び、しん、と静まる。シスターが下ろした手を合図とするかのように、木製扉に両脇にいた同じくシスターの二人が、扉を大きく開け放った。礼拝者は次々と席を立ち、場外へ出ていく。小さい子供をつれた母親、杖を突いた老人、車椅子の人。やがて場内は、シスターと我々だけになる。黒服の女性が立ち上がり、中央の赤いカーペットを奥に進む。丸まっていた猫はすっくと起き上がり、そのあとを付いていく。私も続いた。

「あら、レミちゃん。こんにちは」

シスターはウィンプルを後方に引き降ろした。顔にかかる髪を払うように小さく頭を振る。

「今日はお連れの人がいるの?珍しいわね」

黒服の彼女は、依然、帽子もサングラスも装着したままだった。

「クミコさん、こちら、ついさっき見晴らし台で偶然会った人」

そう唐突に紹介され、私はとまどいながらも軽く会釈した。近くで見るシスターは、口元のほうれいせんがやや目立つものの、目鼻立ちのくっきりした壮麗な女性だった。そして視線が合ったその瞬間、鋭い何かで射抜かれるような感覚を覚えた。その刹那、空気の流れが止まるような間ができる。しかしその一瞬の間は、御付きの人のかけ声で立ち消える。

「シッシッ」

猫を追い払うように、ずんぐりとした体形のその中年女性が手を前後に振っていた。

「ここはペットお断りよ」

しかし、猫は気にするでもなく、ただじっと座っている。

「ノブコさん、いいじゃないの」

「でも院長・・」

院長と呼ばれた女性が猫を抱きかかえる。猫はやはり何の抵抗もせずじっとしている。黒服の女性といい、この猫、相当に人馴れしているのだろうか。警戒心というものがまるで感じられない。

再び院長と呼ばれた女性と目が合う。しかし、今度は温かみのある柔和な表情で、やさしく微笑んでいた。先ほどとはまるで別人のように。

「ノブコさん、お茶の用意をお願いできるかしら。それから猫ちゃんのミルクもね」

「あ、はい、かしこまりました院長」

そう返事した御付きの女性は、それでも猫に向かってなにかぶつぶつ言いながら、祭壇の横手にある勝手口から出ていった。

「ようこそ、友愛の里カトリック教会へ。私は院長のシスター・クミコといいます」

私も少したどたどしく自己紹介した。自分の苗字もすっと出てこないほど緊張していたのだろうか。よく考えると、シスターと呼ばれる人物と会話するのは、生まれて初めてかもしれない。

「レミちゃんが誰かを連れてくるなんて本当に珍しいこと」

そう言って、シスター・クミコは、黒服の女性を見る。

「この場所に来られたのも、何かの縁かもしれないわね。もしお時間があるようなら、私の話を少し聞いてもらえるかしら」

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