第6話 囚われの心

 先ほど、シスター・ノブコが出ていった勝手口を抜ける。

「ルームシューズはそこにあるものを適当に使ってくれる?」

私たちはルームシューズに履き替える。ここは教会と修道院の連結部だろうか。その先は、板張りの廊下が奥まで伸びている。中庭を挟んだ向こう側にも平行するように廊下が伸びていて、くすんだ黄金色のドアノブの付いた部屋がいくつも並んでいた。前方から回覧板のようなものを胸に抱えたシスター姿の女性二人とすれ違う。私達を見ながら「こんにちは」と笑顔で声を掛けて来る。私も軽く挨拶した。

「ここは修道所も兼ねているの。修道所はご存じかしら」

そうシスター・クミコに尋ねられ、何となくわかります、と曖昧に返答した。

「この場所にはね、シスターを目指す人だけではなくて、別の事情で訪れる人もいるの。自分を見つめ直したい、とか」

猫はシスター・クミコに抱えられたまま大人しくしている。

「何らかの事情を抱えて来る人を詮索したりはしない。教義に触れてもらったり、対話をしたりして、時が流れるまま、一緒に過ごすのよ」

やがて、くすんだプレートに「院長室」と書かれたドアの前に来た。

「どうぞ、お入りになって」

一歩入り、立ち止まる。まず背の高い書棚が目に入る。分厚い教典のような書籍がぎっしりと並んでいる。中央には長方形の白テーブルと椅子。椅子は4脚だが、それぞれ十分な間隔がとられていた。最奥には執務机とアームチェアが置かれていた。机の上にはペン立てがひとつ。その他には何もない。背後には格子上の木枠がはめ込まれた大きな窓があり、白いレースのカーテンが垂れている。近くの壁には柱時計が掛けてあり、数字盤の下で振り子が左右にゆっくり揺れている。シスター・クミコは格子状の木枠についた小さな取っ手を、外側に向けて開け放った。レースのカーテンが遠慮がちに揺れている。

「いいお天気ね。適当にお座りになって」

部屋の中を歩き回っていた猫は、いつの間にか居場所を見つけたらしく、書棚の隅で丸くなっていた。ノックの音がして、失礼します、と、シスター・ノブコが入ってくる。丸いトレイにティーカップが3つ。テーブルに一つづつ置かれていく。一度部屋を出て、再び入室すると、猫用のミルクをやや雑に丸くなっている猫の傍に置いた。

「ありがとう、ノブコさん」

と、シスター・クミコが声を掛ける。

いえ、それでは失礼します、と言い残し、シスター・ノブコは部屋を出ていった。

「さあ、いただきましょうか。」

ティーカップの紅茶はやや熱めだった。口をつける程度に少しだけ飲んで、コースターの上に置く。

「イギリスに、長く交流している教会があるの。この紅茶はそこのシスターが定期的に届けてくれるのよ」

紅茶にあまり詳しくないが、市販のものとは違う深みがあることは、私にもわかる。

ミルクを飲み終わった猫がシスターに近づき、見事な跳躍でその膝上に乗る。そしてそのまま目を閉じようとしてる。シスターはあらあら、と言いながら、その繊細な手で猫の頭から背中を優しく撫でる。

「何か宗教をお持ちかしら」

「いいえ、特にありません」と、私は答える。

「そう、心配しないで。キリストの教えを説いたり、教典の話を長々とするつもりはないから」

そう言ってシスターは微笑を浮かべる。

「あなたを一目見て、すぐに気づいたわ」

少し細めた目で私を見る。いや、その視線は、私ではなく、私の背後を見ているように感じた。

「あなたの心は、ずっと遠くをさ迷っている。いま、この場所には無い」

唐突にそう言われて、少し胸がざわつく。でも反発する気持ちも起きない。

「心配しないで。誰にでもあること」

猫は、いまやすっかり瞼を閉じている。

「ただ・・あなたの心はもう随分とさ迷い続けて、とても疲れているように見えるわ。そろそろ休ませてあげないとね。心の休まる場所は、たった一つしかないわ。いま、ここよ」

瞑想やマインドフルネスの話だろうか。確かにそういったヒーリング術を試してみたこともある。

「あなたが思い続けるその大切な人も、あなたの心に平穏が訪れることを祈り続けているわ」

ほんの一瞬、風が強く吹き込み、カーテンをはたと揺らす。

「でもね、あなたとその方が巡り合うことは、恐らくもう無いわ。すべては過ぎ去ってしまったのよ」



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