第4話 時を刻み続ける大時計

 G・Wも終わり、公園の木々はすっかり新緑に覆われている。仕事は一段と忙しくなり、家に帰宅するのは9時や10時になることも珍しくない。帰宅した後は夕食をとり、風呂に入り、テレビやスマホを少し眺めて布団に入る。この繰り返しだった。気分転換がしたくて、この週末、少し遠出することにした。朝早めに起床し、身支度を整え、リュックにはミネラルウォーターの入った水筒を入れて家を出る。外は新緑の季節にふさわしい清々しい空気に包まれている。最寄りの駅から新宿に向かい、中央線に乗る。降車する駅は特に決めてなかった。何となく、山々が近くなってきた当たりで電車を降りることにした。初めて降りる駅である。駅の東と西はまるで風景が異なる。東側は商業ビルが立ち並び、大勢の人で賑わっているが、西側は下町の風情を残していて、少し駅から離れると昭和レトロな街並みが現れる。私はその西側の街並みを山々が見える方向にむけて歩き始めた。民家が終わり、やがて急な坂になる。ガードレールの下は、まるで深い谷のようだ。そこを中央線が走っている。どんどん標高があがる。やがて勾配が緩やかになる。バックミラーの立つ急カーブがある。バックミラーの先は雲一つない青空が広がる。カーブの先に何か新しい世界が広がっているような気がして胸が高鳴ってくる。カーブを折れる。左手を見る。眼下には緑と建物が見事に溶け合った、まるで別世界のような街が広がっていた。規律ただしく縦横に伸びる道路。中央部には駅がある。何線だろう?いま、駅から薄緑色の車体の電車が発車して、ゆっくりとトンネルに向かっている。山手のほうに大学のような建物群が見える。そしてひと際目を引くのが、そこからそびえ立つ時計塔。町のどこからでも見えそうな高さの大時計は、太く頑強な長針と短針が文字盤を刻んでいる。短針がローマ数字の9の真上に位置しようとしている。ごーんという重心のひくい鐘の音がここまで聞こえてくる。その鐘の音を合図とするかのように、私の立つ高台に、初夏の風が吹き抜ける。夏の匂いが鼻腔をくすぶる。私の脳裏に、また過去の回想が流れ始める。私は迷うことなく、その街へ向かって高台を下り始めた。

 街の中心部に行くためには、一度高台から降りたあと、再び丘を越える必要があった。私はその丘へと続く石段を上った。登りきると、そこは大きな広場になっていた。家族連れがたくさんいて、ボール遊びをしたり追いかけっこをしたり楽しそうだ。木の柵がある高台の端まで行ってみる。ここからはさきほどの時計塔がより近くに見える。時計を眺める。かつて私はあの人と同じ時間を共有したことがあった。同じ短針を見て、同じ長針を見ていた。有限の時間のなかで、私たちは同じ時間を共有していた。でも、もう二度とあのように時が重りあうことは無いのだろう。一匹の猫が足元によって来る。黒くてふさふさした丸い猫だ。その猫は私のすねのあたりに、しきりに顔を擦り付けてくる。お腹でも空いているのだろうか。私はその猫に、悪いけど食べるものは持ってないよ、と小声で語りかけた。するとその猫は、その場でひっくり返り、仰向けになって私をじっと見つめている。お腹をなでてほしいのか?逡巡していると、わあネコちゃんだ、と女性の声がした。その全身黒服の女性は猫の傍にしゃがみ込むと、そのお腹をやさしく撫で始めた。猫はすぐに目を細め、とても気持ちよさそうにしている。少しの間そうしていた女性は、私に向かって顔を上げる。黒い帽子にサングラス。年齢不詳だが声の感じからまだ若いように思えた。

「あの時計塔が気になるの?ずっと見てたよね」

ふいに話かけられて、返す言葉に詰まる。なおも猫のお腹を撫でながら女性が続ける。

「あの大時計の七不思議、知ってる?」

「え・・」

もごもごしている私を気にする風でもなく、女性が続ける。

「あの大時計はね、一日に4回、鐘が鳴るの。9時、12時、15時、18時」

9時の鐘はつい先ほど聞いたなと思いつつ、続きを待つ。

「でもね、何でもないタイミングで突然鳴り出すことがあるの。あの時計。管理業者が何度調べても原因がわからないんだって」

猫のお腹を撫でる手を止め、女性が立ち上がる。初夏の風が短い草をゆらす。女性は帽子が飛ばされないように手で押さえながら、大時計を見る。

「それが起こるのは本当に不規則で、一度起きたかと思えば、そのあと何年も起きないこともある」

仰向けになっていた猫はいつの間にか起き上がりその場に座っている。

「でもね。1ヶ月くらい前かな。その不規則な鐘が3日続けて鳴ったの。しかも3日目のは真夜中」

座った猫は初夏の風に短いひげをくゆらせながら、時計塔のほうをじっと見ている。

「あなた・・」

そういうと、彼女は少しの間、押し黙る。

「別に信じてくれなくてもいいけど」

そう前置きして、

「私ね、霊感みたいなものがあるの。別にお化けが見えるとかじゃなくて、こう、なんて言うのかな。なかなか説明が難しいんだけど。」

私は彼女にそう言われる前から、なにか普通ではない空気を感じ取っていた。なので、そう言われて特に身構えたりすることもなかった。それに、猫と仲良くできる人間に悪い人はいないと、なんとなくそう思った。彼女は猫に向かって両手を広げる。猫は何の警戒もなく彼女に抱きかかえられる。

「付いてきてくれる?合わせたい人がいるの」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る