第32話 出立
庭の片隅でエレナは師匠に最後の挨拶をしていた。小さな石碑はテオとエレナが作ったもので、彫られた文字も歪なものだったが、城外へ自由に行き来できないエレナにとって大切な場所だ。
エレナの望みが叶おうが叶うまいが、二度とここに戻って来ることはない。
エレナとテオが狡猾で悪意に満ちた王宮で無事でいられたのは、師匠のおかげだ。どれだけ感謝しても感謝したりないエレナの庇護者。
父親であり国王であるエイドリアンと対面を果たした時、エレナはただ怯えていた。エイドリアン自身には何の感慨も湧かず、ただ周囲の人間から発せられる歓迎されていない雰囲気にテオの袖にしがみついていたのだ。
母親がいるならともかく、王族の血を引く娘を路頭に迷わせるわけにはいかない。そう主張するエイドリアンに言葉を返したのは師匠だ。
師匠はエイドリアンに条件を出してくれた。一つはエレナが武術を学び続けることを許可すること、そしてテオを私の騎士として傍におくことだ。
そんな師匠の主張に周囲の人間は口々に不敬だ、傲慢だと非難の言葉を浴びせたが、師匠の静かな迫力に圧倒されてすぐに口を噤んだ。
「許可しよう。エレナとその騎士に鍛錬を付けるのはお前の仕事だ、ヨハン」
その言葉に驚きと疑念の声が上がる。
何故エイドリアンが師匠の言葉に耳を傾けたのか、その理由はすぐに師匠から伝えられた。
かつてエイドリアンの近衛騎士として仕えていたこと、エレナの母を見守るために職を辞し母子の傍にいたと淡々と告げられたのだ。
何故黙っていたのかと憤る気持ちはあったが、師匠がエレナ母子のために心を砕いてくれた日々を思えば責めることなど出来なかった。そんな師匠に甘えずにいようと思う気持ちが、エレナ自身が強くなるきっかけとなったのだ。
馬車に揺られる間、エレナは外の景色をずっと眺めていた。生まれ育った故郷をこの目に焼き付けておくために。
チャーコル国へは馬車で五日ほどかかる。馬で駆ければその半分ほどの時間で済むが、ドレスのまま馬に乗るのは無作法過ぎるし、献上品も運んでいるので大人しく場所の中にとどまっている。
視線を感じて顔を上げると、わずかに目を逸らされる。
「どうしたの?」
静かすぎて気配を感じさせないほど大人しいエレナの唯一の侍女。
ドールという呼び名に相応しい女性だ。
常に淡々と仕事をこなすだけだが、先ほど向けられた視線にはどこかもの言いたげな気配があった。
「……逃げないのですか?」
長い沈黙のあと、馬車の音に紛れそうなくらい微かな声が聞こえた。
ドールが咎めるように瞳を眇めたのを見て、エレナは無意識に自分が笑みを浮かべていたことに気づく。
「ふっ、ごめんね。ドールがそんな質問するとは思わなくて」
かつては王宮から逃げ出そうと考えたことは何度もあった。チャーコル国に向かう途中でテオと二人で逃亡することも、さらには事故に見せかけて死んだふりをすることも難しいことではない。
二十名近い護衛がいるが、志願して今回の任務に就いた者ばかりで、大半はエレナに剣を捧げようとしてくれた。その気持ちだけ受け取って、エレナは彼らの忠誠を断り国のために尽くしてくれるよう頼んだ。結果としてチャーコル国に留まるのはテオだけだが、エレナが望めば協力してくれるだろう。
(師匠が私のために先を見通してくれていたから)
師匠が何故武術を学ぶことを条件としたのか。それはエレナが自分の身を守れるようになることはもちろん、味方を増やすためだった。
師匠はエレナやテオだけでなく兵士たちの指南役としての任を得た。師匠は訓練中にエレナを王女扱いすることは一切なく、むしろ誰よりも厳しく接した。思い切り腹を殴られ足蹴にされた時には周囲が凍り付いたほどだ。
けれどそれはエレナにとって日常だった。
四歳離れたテオを兄のように慕い、一緒に鍛錬を重ねるようになったのはエレナにとって自然なことだった。母は反対したものの、女であっても身を守る強さが必要だと理解を示した師匠のおかげでエレナとテオは競うようにして学んでいたのだ。
始めは遠巻きに見ていた兵士たちも共に鍛錬を重ねるうちに仲間意識が芽生え、エレナに自然と敬意を表するようになったのだ。
「逃げないよ。これは私の選択だから。…でも、心配してくれてありがとう」
「心配など、していません」
平坦なドールの口調に拗ねたような気配を感じて、エレナはまた笑った。
暗殺者として育てられてその過程で心を壊されたドールは、もともとエレナへの嫌がらせのために送られた。
殺すほどでもなく、けれど目障りだったため半人前のドールが侍女としてエレナに仕えるよう命じられたのだという。未だに人形のように見えるが、少しずつ変わっているドールに愛おしさのようなものを覚える。
(普通の主従関係でないにせよ、私の侍女がドールで良かった)
「大丈夫だ、ドール。私は約束を守る」
その言葉にドールは僅かに目を見張ったが、何も言わずにただ頷くだけだった。
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