第3章
第31話 前夜
こつこつと靴音を響かせながら、薄暗い階段を下りていく。ここに来るのもこれが最後になるだろう。
扉を開けると古い紙の匂いが鼻腔をくすぐった。貴重な文献が収められた王族しか立ち入ることのできない地下書庫は、密談にも最適な場所だ。
目的の人物と視線がぶつかり、エレナはスカートの裾を持って深々と礼をした。
「お待たせしてしまい申し訳ございません、陛下」
「エレナ、人目がないから楽にしてくれ」
その言葉にエレナは顔を上げるが、互いに固い表情をしているのは変わらない。
「本当にいいのか?」
「勿論ですわ、陛下」
元はといえばエレナが望んだことだ。自分の立場を最大限に生かし、目的を達するための最適な方法を選択したことに後悔はない。
「……二人きりでも父様と呼んでくれないのだな」
アンバー国の王であるエイドリアンは寂しげな表情を見せる。
素直に父と呼ぶには過去の出来事や環境、しがらみがあり過ぎた。エレナにとってエイドリアンは父というより同志のような存在だ。
自ら望んで王女になったわけではない。それでも衣食住を与え、可能な限り自由にさせてくれたこと、そして今回の提案を受け入れてくれたことには感謝をしている。
「陛下には感謝しております。お許しくださり、ありがとうございます」
エレナの言葉に、エイドリアンはもう何も言わなかった。
地上に出ると湿気が身体にまとわりついた。暑くはないが、水気を含んだ重たい空気に空を見上げる。星の瞬きは雲に覆われて届かない。
馴染みのある気配を感じて、エレナは空を見たまま話しかけた。
「テオ、忙しくなるね」
「……ああ」
上手くいくかどうか分からない。自分の提案が上手くいったとしても、その後も上手くいく保証はどこにもなく、失敗すれば自分以外の多くの命が失われるかもしれないのだ。
思わず身を震わせると、大きな手がエレナの頭を優しく撫でてくれる。いつもエレナを守ってくれる温かい手を感じて、少しだけ肩の力が抜けた。
(テオだけは私を裏切らない)
それは願望ではなく揺るぎない事実としてエレナは捉えている。
エレナは生粋の王女ではない。父は王族だが、母は貴族ですらない平民の女性だ。八年前まで平民として王都の外れで母と二人で暮らしていた。
近所の人たちは母子に親切で、貧しいながらも無邪気に笑っていた幸せな日々。けれど母の突然の死に全てが急激に変化していった。
ただの風邪だとエレナも母であるルイーザもそう思っていたのに、倒れて三日後に母は息を引き取った。
突然一人になったエレナに、追い打ちをかけるように偉そうな城仕えの人間がやってきて、エレナの父親がアンバー国王であることを告げ、城へと無理やり連れて行こうとしたのだ。
嫌がるエレナを助けてくれたのは、隣に住んでいたテオと師匠だ。
あらゆる武術に精通していた師匠とその弟子として住み込みで働くテオ。護衛の兵士を全員倒してしまった後、エレナは逃げようとした。
幼いながらも王宮に連れて行かれれば、二度と自由に外へ出ることが叶わないとおぼろげに理解していたからだ。
師匠はエレナの言葉に耳を傾けつつ、一緒に王宮に行くよう諭した。
『テオも一緒なら行く』
そんな自分の言葉をエレナは今でも後悔している。自分の我儘がテオの一生を縛ってしまうことになるなんて思わなかった。謝罪するとテオが嫌がるため決して言葉にはしないが、心の中には常に罪悪感がある。
「エレナ」
痩せぎすで小柄な少年から、テオは長身で引き締まった体躯の青年に成長していた。暗い夜のような髪と透き通った空のような瞳は、普段は氷のように凍てついているのに今は柔らかな色を含んでいる。
「お前の望みを叶えることが俺の望みだ。俺はお前のためだけに生きる」
テオの言葉は嬉しくて苦しい。テオには幸せになって欲しいのに、テオを手放すことができない自分のエゴを見透かされている気がした。
(誰よりも優しくて大切な人を私は盤上の駒として使おうとしている)
考えて考え抜いて出した結論だ。既に事は動き出していて発案者であるエレナにももう止められない。今夜が恐らくテオを自由にする最後の機会だったが、口にする前に機先を制されてしまった。
(ごめんね)
「テオ、私との約束だけは覚えていて。貴方がいてくれるなら私は大丈夫だから」
謝罪の言葉を胸の中に閉じ込めて、口にした言葉もこれが最後。
アンバー国で過ごす最後の夜が更けていった。
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