2.8.宿屋
二人は女の子が開けたままにした扉と、店主らしき男を交互に見た。
男は今すぐにでも追いかけたい気持ちがあるようだが、客として訪れた刃天とアオを無視するわけにもいかない、とどちらを優先すべきか葛藤している様だ。
とはいえ、あのような光景を見てこちらを優先しろとはとてもではないが言えなかった。
と、いうより……この宿に泊まるか否か思案している最中である。
こんなにギスギスしていそうな宿には泊まりたくないというのが本音だ。
すると、男は焦った様子でカウンターから何かを取り出した。
それは部屋の鍵だったようでアオに押し付ける様に手渡してくる。
「す、すいません! ご迷惑おかけしますんでとりあえずこれで……!」
「うわっ! わわわわっ!」
「ちょっと失礼します!」
突然強めに鍵を手渡され、アオはよろめきながらそれを受け取った。
すると男はすぐに宿を飛び出して娘を追いかけていく。
その背中を見送ったあと、刃天とアオは顔を見合わせる。
「……おい、どうすんだこれ」
「ええっと……。わかんないや。他の所に行く……?」
「いや、ここにするか」
刃天はこの宿の中の気配を辿るが、誰もいないということがわかった。
どうやらここはあまり繁盛している訳ではなさそうだが、今回に至っては都合がいい。
アオは追われている身なので、可能な限り人がいない宿のほうが奇襲を見破りやすいのだ。
アオは流石に微妙な顔をしていた。
だが刃天がそう言うなら、と了承してくれたようだ。
暫くはこの店で厄介になることにした。
とりあえず鍵を手渡されたので、番号の部屋に向かうことにした。
そもそもこういった鍵というものを始めてみた刃天は、これがなぜ宿に必要なのか理解できていない。
アオが手にしている鍵を見ては首を捻る。
「どう使うんだそれ」
「鍵だよ。鍵穴に差して捻るだけ……」
「そんなにちいせぇ鍵があるとはなぁ。錠前もちいせぇのか?」
「普通なんじゃないかな……」
そんな会話をしている間に部屋の前までたどり着く。
小さな鍵穴にアオが受け取った鍵を差し込み、カチリと音を立てて解錠した。
とってを捻って扉を開き、ようやく中に入る。
「なんじゃこの戸は。観音扉を半分にしたようなものだな」
「え……。刃天の故郷ってこういうのないの……?」
「あるにはあるが……こう……横に開く戸が主流だ。この造りは門や神社の祠に多いな」
「じんじゃ? ほこら……? なにそれ……」
「知らんのか!?」
アオは頷く。
刃天も神社や寺に赴くことはほとんどなかったが、その存在はよく知っていた。
寺の奴らに限っては戦うこともしばしばあったのだ。
死の覚悟を決めて突っ込んでくる男共の強さは記憶にこびりついている。
できればこの世にいる者たちは、寺の僧侶のような覚悟を持っていないように、と密かに願った。
しかし……この世には何かに縋るということはしないのだろうか?
神社や祠がないのであれば、何か別の建造物に信仰対象を納めているのかもしれない。
この事について詳しく聞こうとしたところで、アオが部屋の中へと入って行った。
部屋の外で話をしても仕方がない。
刃天もそれに続くように中へ入ってみれば、宿ということもあってやはり質素な内装だった。
しかしそのどれもが名前すら分からない代物ばかりである。
「これが……なんだっけか?」
「ベッド」
「この観音開きの箪笥は?」
「く、クローゼット……」
「ん!? なんぞこの……透けている板は!!」
「窓……」
「ほぉほぉ! しかしこの間に入るのに土足でいいのか?」
「え? いいよ?」
「ほぉ……」
知らない事ばかりだ、と刃天は顎に手を据えて感心した様子で頷いた。
だがこれは覚えるのに時間がかかりそうだ。
すると、アオがベッドに座ったので刃天も用意されていたもう一つのベッドに腰かける。
硬いベッドではあるが寝るには十分すぎる代物だ。
腰から栂松御神を鞘ごと抜いて胡坐で座る。
「知らねぇものが多すぎるなぁ」
「時期に慣れると思うよ」
「慣れねばならんだけだがな。さぁて、アオよ。これからどうするべきか」
そう問うと、アオはこちらを向いた。
「まずは冒険者ギルドに行かないと。お金を稼がないといけないでしょ?」
「まぁそれはそうなんだが……ギルドでは身分証明書? ってのが作れるんだったな? お前の素性とか大丈夫か?」
こういう身分証を作るということは、素性を明らかにしなければならないのではないか、と刃天は案じたのだ。
さすがに今の段階で敵には見つかりたくない。
アオの故郷はこの国の東にあるようだし、王都ダネイル王国の領地内なので行き来はそこまで難しくはないだろう。
生き残りを仕留めるため、ここにも刺客は放たれているはずだ。
さすがにあの二人だけで逃げていった使用人たちを全員仕留めるなど無理な話である。
そのため可能な限り身分をさらすようなことはしたくないのだが……。
「た、多分大丈夫だと思う」
「本当かぁ~?」
「ステータスを確認されるだけだし……。あ、でもそうか……ステータスで名前見えちゃう……」
「……なんだかわからねぇが、俺だけなら問題ねぇのか?」
「うん。でもその場合……僕は同行できないかも」
「そーか~。何とかできねぇかな」
さすがにこの見知らぬ土地で離れ離れにはなりたくない。
なんとか一緒に身分証を発行したいところだが……この打開策を見出すにはアオの知識が必要だった。
刃天はアオの顔を見るが、首を横に振られてしまう。
追われている身というのは、やはり面倒だ。
刃天はため息を吐くが……一つの可能性が浮上した。
それはアオに仕えていた使用人たちだ。
戦闘面に長けた人物も逃げてきているかもしれないし、そうでない者たちも何処かで息を潜めているかもしれない。
そういった者たちがこちらを見つけてもらうためには、名を少しばかり広める必要がある。
刺客にも見つかりやすいという欠点はあるが、もし彼らが今も名を忠誠心を忘れていないのであればおのずと集まってきてくれるはずだ。
これをアオに提案してみたのだが……首を横に振られてしまった。
「刃天の負担が増えちゃう」
「俺? ああ、まぁ確かにな。刺客如きにやられるつもりはねぇが」
「でも危ないから」
「ふん」
こう心配されるというのは慣れていない。
誤魔化すようにしてそっぽを向く刃天は頬を掻いた。
そこで刃天は小さな音を耳にする。
誰かがこの宿の中に入ってくる音だ。
すぐに栂松御神を腰に携え直し、外に出る。
「刃天?」
「さっきの店主やもしらんがな。着いてこい」
アオもベッドから降り、刃天の後ろについていく。
別に警戒するほどのことでもないかもしれないが……念には念を、というやつだ。
気を張って警戒しながら降りていくと、カウンターに突っ伏しているあの男の姿があった。
足音に気付いた男は顔を上げる。
すると下手くそな笑顔を作って頭を下げた。
「さっきは、すいません……」
「別に言いたくなきゃ言わなくていいが……あの娘は帰って来ていないようだな」
「はは……まぁ……そう、ですねぇ……」
頭を抱え、机に突っ伏する。
さすがに付き合うのも面倒なので無視しようとは思ったが、アオは男の近くに寄って行った。
「あの、とりあえず三日分の代金を」
「え? ……あ、ああ……泊ってくれるのかい? ありがとう」
金銭のやり取りをしたあと、アオはこちらに戻って来た。
袖を引っ張って部屋に戻ろう、と促してくる。
外はもう夜だし今から冒険者ギルドにもいけないので寝てしまいたいのだろう。
とはいえ腹が減ってきた。
刃天は男に向きなおる。
「食い処はどこだ?」
「くい……? 食事のことですか? でしたらここでは用意できませんので……近くの店へどうぞ……」
「この世の飯か。よし! アオ行くぞ!」
「うわあっ!」
この世で初めて食べる調理のされた食事。
些か楽しみになって来た刃天は、アオをひっ捕まえて宿を出た。
宿の店主である男は『変な異国の人間だな』と思いながら奥へ引っ込んだのだった。
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