シュレディンガーの幽霊

 ヒマワリがクーラーを求めるほどの夏。

 だから空調の室外機がいつまでも叫び続ける夏でもあったし、黒いほどの炎天下にいる人たちにはそれが呪詛のように聞こえる夏でもあった。陽が沈んでからも、世界中のグラスたちは延々汗を掻き続けてた。

 夜の九時を回って、ようやくアブラゼミが鳴き始める。去年ならとっくに鈴虫の音色が聞こえ始める時期だった、のに、この暗がりにセミの声だ。けれどもそれも三十分くらいで息絶える。人も虫も、みんな断末魔をあげている。

 その年の夏はそういうんだった。

 やがて世界から音が消える。ぴたっと静寂に包まれた、悲しいほどの夜がやってくる。

 そして児童公園や、神社の境内や、河川敷のグラウンドや、高架下のちょっとした空き地や、そういった場所に光がぽつぽつ灯る。小さなスマホの明かりを光源に少年たちがたむろする。日中には壁の内側に蟄居していた彼らも、いくらか気温の下がった今になって、ぼそぼそと青春を謳歌し始める。

 もしかすると、風鈴の音色さえ叩き割られてしまうほどの憎悪まみれのこの夏に、せめてもの風物詩として自らホタルの役割を担いたかったのかもしれない。

 カノやカレはその姿を微笑ましく眺めて行き過ぎる。

 夜の散歩。そんなこと普段はしないのに、それに室内は昼からずっとエアコンできんきんに冷やされていたのに、物理的なそういうこととは別の、なにか魂からの苛烈な要求みたいなものに圧迫されて、二人してこんな時間の住宅街に飛び出した。

 コンビニの帰りに、二人はせめての運動でちょっと遠回りして帰ることにした。そのコンビニも家から直近のじゃなくて片道二十分くらいのとこを目指した。往復で一時間くらいが妥当だろう、と声には出さなかったけどお互いに同意した。

「それとも、このままジムに行く?」と彼はちょっと訊いてみた。

 無理無理。カノは答える。

「会費だけ払い続けてればいいよ。涼しくなったらまた通うから」

「その頃にはだいぶ筋量落ちてそうだね」

「今年は秋も無いっていうからね」

「一年分の筋肉も二ヶ月そこらで細ってく」

「熱のせい。熱がなにもかも奪ってく」

 筋肉も、やる気も、あるいは思考能力も、とカノはつぶやく。

 異常な夏。とにかく異常な。連続猛暑日記録が毎日更新されてゆく。


 ***


 帰宅後すぐにシャワーを浴びた。

 その最中、カレにはずっと気にかかることがあった。あがって、カノに浴室を譲ってからも、ずっと頭を悩ませてた。スマホで調べてみたりもした、けど、しっくりって顔にはついにならない。

 ちょっと部屋の明るさが鬱陶しくなった。照明の調光レベルをがくんと下げた。音も鬱陶しい。テレビの電源も消した。カノが戻ってくるまでひたすらスマホをいじってた。

「わ」

 青白い顔がリビングに浮かぶ。

「むかし懐中電灯。いまスマホ」とカノは呆れざま言った。

「?」

「うらめしや」

「え」

「なんでもない」

 カノは部屋の明かりを元の強さに戻すと、フェイスタオルで髪をかきながら冷蔵庫に向かった。基本的にカノはドライヤーを使わない。(ドライヤーだけじゃなくカノが嫌いなものを挙げると枚挙にいとまがない。ほんとはエアコンだって苦手だ。今年は超法規的に許容してるけど。)

「アイスココア、いる?」

「どっちでも」

「それとも、さっき買ってきたお茶?」

「かな」

「ないけど、どこ?」

「どっかに」

 私よりスマホが大切ですか、とちょっと心の中で毒づく。だけどなんだか様子が変だ。どこかしら深刻そうなカレの表情もそうだけど、ゲームに熱中してるとするのなら、あのいつもの聞き慣れて耳障りなBGMとSEが聞こえてこない。

 作りたてのアイスココア、それからコンビニの袋ごと冷蔵庫に放り込まれてた日本茶だけとりあえず抜き取って、ダイニングテーブルまで引き返す。

 カレはまだスマホに意識を注いだままでいる。

「わざわざ電気まで消して」とカノはちょっと当てつけっぽく言った。「幽霊じゃあるまいに」

「幽霊」とカレはその言葉に過敏に反応する。「いや。幽霊だよ」

「なにが」

「やっぱり幽霊だよ」

 カノは椅子を引きながら苦笑する。「だからなにが」

 コンビニの帰りに幽霊を見た。

 カノは思わず吹き出した、けど、カレの目は(わりと)真剣だった。

 そいつを目撃したのはどこの工業団地にも必ず一つは見かけるであろう、ありきたりな解体工場の一角だった。家電製品の残骸を敷地内のあらゆる場所に堆積させる、「破壊」とか「プレス」という響きによく調和する『残飯処理施設』。市からの委託業務も一部請け負って、それなりに繁盛しているしそれなりに大きな敷地を有してる、それから通常の三階建ての高さに相当する大きな建屋まで敷地内に建てている。

「建屋の二階部分の窓にソレがいた」とカレは言う。

「私は見なかったよ」

「すりガラス越しに映ってたんだ」

「どんなだったの、姿とか、形とか」

「白かった」

「ほかは?」

「とにかく白かった」

「それだけ?」

「一瞬しか見なかったんだよ」とカレは言った。それを聞いてカノはにんまり笑った。

「出た。

 作り物だとかフェイク動画だとか、そういうのにはときに典型的な嘘のパターンが含まれる。たとえば『偶然映り込んだ宇宙人』みたいな動画は、そもそもどうしてそのときカメラを回していたのか? ホラー系の読み物の場合は妙にディテールの凝った会話、なんてのも挙げられる。またはこれはカノ独自の基準だったけど今カレが口にした「一瞬」……一瞬しか見なかった、一瞬で消えた……これも見極めの材料に加えてた。

「でも本当に一瞬だったんだ」とカレは言う。

 つまり僕は『一瞬』視界の端に例の白いやつを捉えた、けど、次の『一瞬』に窓から目をそらしてしまった。本能的にこれは見たらまずいやつだ、と判断した。言外の判断だ。でもまた次の『一瞬』には好奇心で視線を戻した。でもその『一瞬』のあいだに、窓の奥の白いやつは姿を消していた……。

「体感で二秒か三秒くらいのことだった。体感だから、実際にはもっと短い間の出来事なんだろうね。目を離したのは一秒にも満たないと思う」

「なるほど」とカノは言った。「なるほど。そういうことなら嘘とも限らないのかな」

「僕も『一瞬で消える』っていうのは目の前でぱっと消えることを指してるのかと思ったけど、たしかに僕の体験も『一瞬』だ。少なくとも僕にとってあれは『一瞬』だった。第三者がどういう客観的判断を下すかは、知らないけどね」

「そっかそっか」とカノはちょっと嬉しそうに言う。「カレンくんと同じ証言をする人たちが『消え方』のディテールに関して往々にしてぞんざいなのも、なるほどね、それで案外説明できちゃうか。実は一瞬目を離してた、と」

「でもわからない。きっと僕の見間違いだったんだよ」とカレは言う。

 カノは肩をすくめた。

「見たんじゃないの?」

「なにかは間違いなくいた。でも心霊情報とかは一切出てこない。どんなに調べても、あの工場の沿革にちょっと詳しくなれるくらいだよ」

「それでさっきからスマホいじってたの」とカノは言う。「いわくつきの土地ってわけでも、ないんだ?」

 アイスココアの粉が水に溶け切らないで液中に残ってる。舌にざらついてくるこの感覚がカノは好きだった。でもマドラーを忘れたのは痛手だ。といって再び椅子からたつのも面倒くさい。

「ねえ、実は本当に誰かがそこにいたって可能性は、ない?」

「え?」

「幽霊じゃなくて生身の人間が」

「あんな時間に?」とカレは言う。時間は今この瞬間で23時をまたいだくらいだ。「それに……全身白かった」

「白無垢?」

「もしくは死装束みたいなさ」

「いたんじゃないのかな、実際に」

「思い返せば、シルエット的には女の人のようでもあったけど」

「じゃあ女の人なんでしょ。深夜の解体工場の建屋の中二階の通路の窓際、に、実際に白い服を着た女の人、が、立っていた」

「ありえない」とカレはきっぱり言った。

「なぜ?」

「ありえるのなら、それがどんな状況か教えてほしい」

「そんなのは知らんよ。私はカレンくんが『見た』という事実にだけ則って判断してる。憶測の部分は考慮にいれてない」

 でもカレは納得しない。カノがあまりにも暴論を示すから、ではななくて、そもそもカレは本心では自分もとうとう心霊現象の経験者になったことを誇りに感じたかった。から、その方面からはカノに『幽霊』だと背中を押してもらいたかった。

 なのだけど。

「じゃあ幽霊の線はまるっきりなし?」

「や。幽霊ってことなら話は簡単だよ。カレンくんが見たのは幽霊だった。これで証明終了。つまり『悪魔の証明』は不可能なわけだから、幽霊だって言うのなら幽霊であることをそのまま認めるしか、ないよね」

 と、こうして暗に肯定してもらっても、カレはやっぱり不服そうな顔をした。心霊現象を体験したいという思惑とは裏腹に、論理的な脳が「そんなの現実にありっこない」とも、自分自身で否定する。それならどういう状況がカレにとって心安らぐ正解なのか? その場合2つの事実が同居するしかない。「幽霊はいた」「幽霊はいなかった」。

 もしそうでなければ、『シュレディンガーの幽霊』を望むこの男には、一縷の反論も許さないほどの徹底した「納得」の論理が必要だった。

 カノは、カレのそういう複雑な心持ちを、なんとなく読み取った。そして(そこまでの納得をプレゼントするのは無理そうだけど)と思いながら、それでもとりあえず、やれることをやってやることにした。

 というのはカノもさっきの夜散歩の道すがらに、幽霊の目撃談にもほんのちょっぴり関連する考えを偶然(暑さにやられた脳で)ぼんやり巡らせていた。

 それは簡単にいってしまえば「多くの心霊現象は統計学的に説明できてしまうんだよ」というようなことだ。

 今回の件を引き合いにすると、深夜の解体工場の建屋の中二階の通路の窓際、に、実際に白い服を着た女の人、が、立っていた、なんてことは常識的にはおよそ考えられないことだ。

 ところでこの『常識的』というやつは、人々が社会規範やルールを守ることによって自然発生的に生み出されてる。いわば統計の中央値に収まった概念が『常識』として定められてる、ともいえる(だから時代によって『常識』は異なったりするんだよ、とカノは言う)。

 けれども『常識』の基準が統計によって裏打ちされているのなら、統計には必ず左右に偏差の外縁が存在するために、必ず『非常識』な(それも極めて『非常識』な、とカノは強調する。)ことが現実的に起こされる。

「これは歴史上多くの人が多くの言葉で説明してきたことでもあるよ。『確率のポケット』、『事実は小説より奇なり』、『正規分布曲線(ベルカーブ)』。科学者も文学者も、みんな『天文学的確率の現象』の発生を認めてる」

 だから、例年にない今年のバカみたいな暑さにしてもそうだし、そんな暑さのおかげで部屋から飛び出した今夜の私たちも、副次的な『特異』といえる。普段私たちは夜中に散歩なんて、しないものね。

 ――と、いうように、たった二人の人生をサイコロみたいに振っただけでも、簡単にイレギュラーな目が出てしまう、なら、幾千幾万と存在する人々が一斉にサイコロを振った時、しかも人生のあいだにソレを無制限に振り続けたとき、(深夜の解体工場の建屋の中二階の通路の窓際、に、実際に白い服を着た女の人、が、立っていた、というような)極めて非常識な状態が、誰か一人の身にさえ起こされるはずがない、たった誰か一人ぽっちさえもそんなワケのわからない行動に走るはずがない、と、一体どうして断言できるだろか。

「つまり、僕が見たのは、あれは暑さで頭がおかしくなった人?」

「もしくは工場の従業員だったのかも。何かの点検とか警備とか。カレンくんが本当に見たというんであれば」とカノは言う。「でも、いずれにしろ『常識』を外れたイレギュラーな事態が起こってた。その状況に目撃者がいたことは、これも『非常識』だけど、確率論的に見た場合には必然的偶然ともいえる。つまり絶対に当たらない宝くじにも当選者はいるわけだからさ」

「それなら、心霊現象はおしなべて、確率による錯覚?」とカレは言う。「君は幽霊を信じない?」

 いいや、そういうつもりもない。

「単に可能性の一つだよ。現実的にはそういう説明がつけられる、というだけのこと。

 だって、私は幽霊を信じるも信じないもない。それはどっちだっていいんだよ。普段私たちの目に触れることがないのなら、それは居ないのと同義だし、もしその日常に、ぽんっと幽霊さんが現れたとして、それならそれで、ただ現実を受け入れればいい。

 でもそうなるまでは、居るとか居ないとか論じても、決して真理には到達できないからね。暇つぶしの妄想は別にして、真面目に議論したり是非を加えたり、まして考えの異なる相手に目くじらを立ててみたりしたって、労力の無駄遣いにしかならないよ。

 それよりも、もっと大らかに受け入れれば、いいんじゃないのかな」


 ***


 ところで。こんな会話は本当に存在したんだろか。

 営業時間外の工場内に人影を見た、のなら、真っ先に事件と結びつけるのが『常識』のようにも思う。もしくはカレはそうしたのかもしれない。そして然るべき機関に通報したのかもしれない。カノがシャワーを終えるまでのことは、通話相手に状況を説明するのに費やされたのかも。

 あるいは工場の窓際に何も見なかったのかも。カレがそれを気にしだしたのは散歩を終えて603号室に帰ってきてからだった。いわばこの部屋がシュレディンガーの実験装置のような一つの暗箱として機能して、無数の平行世界を生み出した、のかもしれない。

 適切な連絡先に報知したカレと、幽霊について論じるカノと、工場に人影を認めなかったカレと、が、同時に存在した、かもしれない。もしくは、かもしれなくないかもしれない。

 我々はその確率の一つを見た、かもしれない、し、かもしれなくないかもしれない。確実なことは何一つわからない。

 ただ一つだけいえることは、明日のために買ってきたはずのシュークリームがこの日のうちに消費されてしまう未来、と、そのシュークリームが中身を悲惨にしている未来、の2つが、平行世界のいずれかで待ち受けている事実である。お茶のペットボトルによって。

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