ウサギが消えた日

 白菜安くなってたね。

 今年もお世話になります。

 そんな会話を交わしながら帰宅した。コンクリートとアスファルトでしか語れない町にも新しい季節はやってくる。旬はスーパー・マーケットに陳列された商品に教わる。

 歩いて行って帰ってきたのにまだ夕食時には早かった、けど、今季初の土鍋、初のカセットコンロ、をセッティングして、それから具材の下準備まで済ませてみたら、案外ちょうどよく時間の方が追いついてきた。

 鶏のぶつ切り以外には、白菜、長ネギ、大根、それから豆腐の、シンプルな水炊きだ。シンプルに、そして完成されている。

 それで唯一の失敗は冷蔵庫にポン酢があると思い込んでたことだった(カセットボンベは忘れず買ってきたのに!)。

 わざわざ調味料のためだけにコンビニまで、という気分にはならなくて、今日の水炊きにはサラダ用の深煎りごまドレッシングが頼りになった。でも、まだ時期には早い気がする。なんとなくごまだれは極寒の大地の方が合う。そういう味覚の好みはカノもカレもよく似てた。

「ま、冬までにもう一度やればいいよ」

「思って冬を迎える」

「ああね」とカノは笑った。「真冬にポン酢も悪くない」

 こういう些細なことが彼らの人生の命題だ。些細な命題の積み重ねに彼らは人生の意義を見出している。

 他にはなにもない。情熱の夢、目標、設計。無い。

 あるのは日々だけ。

 ただ二人にとって重要なのは、今を今として生きるだけのそういう生き方には退屈が伴うということだ。だから603号室にはいつも閑話が行き交う。飽くる日々からいかにあくびを除くか、ために。

 今夜の夕食の相伴にはカレの少年時代の思い出が選ばれた。

 鍋をつつくカレにエスコートされて彼がやってくる。少年カレン。

「それは今のような季節の変わり目のことだった」

 具体的にどことどこのボーダーラインかはわからない。初夏から梅雨なのか、晩秋から初冬なのか。この国に暮らしていれば一年のうちに境界線が無数にあることはいやでも気がつくはずだし、だからその一つ一つを毎回覚えてはいられない。

「とにかく変わり目のことだった」

 そのとき少年カレンは熱に浮かされていた。

 風邪か、いや、それよりは重いインフルエンザだった、かもしれない。

「ただでさえ病気で頭がぼんやりしてたからね。記憶があやふやなのは許してほしい」とカレは言う。

 カノはそんなことは気にしない。「どうぞ物語を進めて」。

「始まりは車の中からだった」とカレは言った。

 僕は後部座席に横になって、窓から景色を見上げてた。不思議な光景だ。車の速度に従って建物や電線がスライドしてく。運転席には母がいた。

「君にも何度か話したけれど、幼い頃の僕は身体が弱くって、月に一度、総合病院で定期診断を受けてた。それで、病気にかかったときも近くの町医者より、かかりつけの小児科の先生に診てもらってた。家からはちょっと遠い街の中心部にあったから、移動には結構時間がかかる」

 続ける。

「車の中では母となにかおしゃべりしてた。どんな内容だったかは覚えてない。とにかく窓の景色を眺めながら、断続的に会話を交わしてた。

 一つだけ僕が覚えてるのは(それは当然この物語にとって重要な位置を占める会話なのだけど)、僕は母にこういう質問をした。

 かもしれないね、って母は言葉を濁した。声の調子は『そうならなければ良いね』ってニュアンスだった。

「だけど僕はピンと来てしまった。母はそうなるだろう予感の上で……つまり『この子はきっと注射を打たれるんだろうな』って同情の上で、曖昧に返事したんだってことを」

 カノは箸を進めたまま、たまに相槌を打つくらいで、黙って聞いていた。今はまだこの物語はそういう地点にある、から口を挟むべきじゃない。とカノは感じてた。ごまだれの風味が鼻孔に抜ける。

「僕はきっと、それよりも気休めがほしかった。だから母の返事を聞いて急に心細さに襲われた。それで、続けざまにこう訊いた」

「うん」

 なのだけど。

 突然カレは押し黙る。

 それは道が急に登坂になったというような重苦しさのため、じゃなくって、それまで順調に進んできた道が、ぽっかり穴を開けていた。

「忘れたよ。なんだったかな」とカレは言う。

 絹ごしの豆腐をおたまで掬いながら、弱った相手の顔に微笑んだ。

「とにかく」

 僕はそこでなにかお願いごとをしたんだ。簡単にいってしまえば『注射を我慢できたらなにかご褒美を』、そういう、ありきたりな願いごと。

「ほら、大きな病院だと、院内に売店があるじゃない」とカレは言う。「そこで毎回、診察の帰りに母になにか買ってもらってたんだ。必ず同じある一つの物(忘れたのはソレがナニであるかだ)。僕と母のあいだではそれが通院の日の決まり事になっていた」

「それで」

「僕はそれをそのままお願いしたんだよ。いつもそうしてくれてることを、注射を我慢できたら、そっくり慣行してください、と、いうような」

「その要求になにか意味はあったの?」とカノはくすりと笑う。

「逆契約さ。僕が注射を嫌がったりぐずったりしたら、売店でなにか買ってもらえる権利を返却します、って、そういう意味合いを込めたかった」

「そう。勇気の獲得にはそういう犠牲が必要だと感じた」とカレは言った。「あんまりうまく伝わらなかったけどね。そんなのいつも買ってあげてるじゃない、って」

「でしょうね」とカノは一旦受け合った。「でも、なんとなくわかるよ。カレンくんはそのとき、どんなものでもいいから、心にぬいぐるみを抱きしめときたかったんでしょ」

「そいつがいれば耐えられるっていう、ネコやウサギのね」とカレはうなずいた。「でも新品のぬいぐるみじゃだめだった。子ども心に、そういうのは汚いやり方だと思った。成功の対価に見返りを要求するような行為は、ね。僕はそんなのは嫌だったんだ」

「それでもウサちゃんがいないと、心が負けてしまいそうだった」

「どうして子ども心に注射って、あんなに恐ろしいんだろうね」

 母親は最後まで少年の意図を理解しなかった。ただあんまりにも少年がしつこかったから、見せかけに頷きはした。

 ――一応こまかく触れとくと、少年は母の同意が単なるご体裁だなんてことは、そのときにはしっかり見抜いてた。二人のあいだに月の表と裏ほどの温度差があることも。

 だけどそういう温度差こそが実際には物事において結構重大な(わりと決定的な)要素になることを、喜びと、熱と、そして少年が少年であるがゆえに、気づけなかった。それより形式的にでも儀式の済んだことが嬉しかった。

 カレはお気に入りのウサギをぎゅっと抱きしめた。ロビーの長椅子でも、中待合いの遊び場でも。そして名前を呼ばれて診察室に通されてからも。

 ウサギがぴょんっ、と胸のクレーターを飛び出して、月の裏側まで跳ねて行ってしまうだなんて、想像もしてみなかった。

「触診が終わると先生は一旦隣室に退いた」とカレは言う。「戻ってくると、覚悟してたことが告げられた。『念のため打っておきましょう』。やっぱり注射だったよ。それで僕は心底安堵した。前もって心構えをしておいてよかった、と」

 スツールからベッドに移されて、腕をまくるよう指示された。

「直接僕に指示したのは看護師だった。男の看護師だ。看護師ってより整体師って感じの胸板をした看護師だった」

 診察の最初から部屋にいて、なんだかずっと不機嫌そうだった。不機嫌ってより堂々として威厳に溢れさせてたのかも。いずれ小児科の看護師って感じとは程遠かった。歳はそんなに若くなかった、けど、転属したばかりだったのかもしれない。

「僕はそのとき初めて彼を認識したんだけど、あとで母に聞いたら、何回か前の診察の時にも見かけたって言ってた」

「そんなものだよ。物語のキャラクターにならないと人は他人を認識しない」

 かもね。とカレはそれとなくうなずく。

 それよりも。

「その看護師に腕をまくられたときに、僕は急な恐怖に駆られた」

 続ける。

「彼はクマみたいな見た目だったし、胸板もさっき言った通りだし、腕だって太い。おまけに手の甲にまでびっしりと濃い毛が生えていた。そういう全身全霊の『男』という感じを、彼は態度の上でも隠そうとしなかったし、むしろ前面に押し出すことが自分の使命なんだって自信に満ち溢れてた」

「一方でカレンくんはウサちゃんを抱きしめてるようなか弱い少年だった」

「そう、だね。とてつもなく萎縮した」

 たまらなく怖くなって、もっと強い力でウサギを抱きしめようとした。

 それで少年は、母に向かってこう言った。

『ねえ、注射我慢できたら、ちゃんと買ってくれるよね?』

 きっとそのときは具体的な商品名が告げられたはずなんだけど、カレはすっかり忘れてしまってる、し、それに(覚えてたところで)単なるマクガフィンでしかなかったから、まあ、いい。

 それよりも重要なのは母の返事の方だった。

 カレは自分が発した問いかけに、母が肯ってくれるだけで、満足だった。しかつめらしく無くていい、チープな仕草でいい。丁寧な楷書でも走り書きの崩し字でも、サインはサインだ、とでもいうような。

「現実はそうはならなかった」とカノは注意深く訊く。

 長ネギの皮と皮のあいだのどろっとした食感を味わいながら、カレがうなずくのを見届ける。

「母は一瞬サインをしかけたんだ」とカレは言った。

 だけど熊さんが台無しにしてしまった。母の返事より前に看護師は言った。

 交換条件なんて持ち出しちゃだめだ、と。

 なぜ?

 少年にはわからなかった。熊さんが見かけによらず妻帯者で、しかもカレと同じ年頃の子どもを持っていることも、また熊さんには熊さんの教育哲学があってそれを万人に適用させることが正しいことだと信じていることも、何一つわからなかった(今でもそれに関してはわかってない)。

 ただ何かしらの誤解を受けていることは理解できた。「そういうのは汚いやり方だ」、カレ自身もそういう考えではあったわけだから。

 だけど何より理解できなかったのは、それを説明してくれるはずの母が、熊さんの意見に同調したことだった。

「僕はそのとき気づいたけど、母の目にも怯えの色が浮かんでた。彼女にしても熊さんが怖かったんだろうね。だから僕のために反論することができなかった。(第一反論しようにも、母にしたって僕の考えを理解してなかったからね)。それで母はあっけなく屈服した。彼女は僕にとって唯一の救いであったんだけど、その人も結局は僕を責めだした」

「可哀想な少年カレンくん」とカノはコラーゲンたっぷりの鶏のぶつ切り肉を両手でつまみながら言った。「純粋が裏切られちゃったんだね」

「今でも時々悩むんだ。僕の提案は熊さんがいうように、実際に交換条件だったのかな」

「本当はそこじゃないでしょ」とカノは寄り添うように言う。「ウサちゃんを抱きしめるより、カレンくんの方が抱きしめられたかったのに」

「いずれにしろ」とカレは言う。「僕が最後の一押しのところで他人を信じ切れないのは、母が急に身を翻した、その経験を拠り所にしてる。……つまり、僕の言いたいこと、理解してもらえるかな?」

「うん?」

「僕はこの話を寓意にして、君に一つのことを伝えたかった」

「その心は」とカノは取り皿の底に溜まったごまだれをちょっとすすって言った。「ああ、いや、待って」

「わかった?」

「おそらくね」

 じゃあどうぞ、とカレが促す。うん。とカノは言う。

「うそはよくない」


 ***


「ところで、さっきからカノンばっかり食べてない?」

「それは早いもの勝ち」

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