寵妃の葬列 下




「ああ、我が妃よ」


 露台へと続く窓は全て開け放たれて、蒼天から陽光が燦々と降り注ぐ。海からの風が室内に吹き込んで、開放的な潮の香を運んで来た。


 金銀宝玉、絹の繻子しゅす。絢爛な室内は明るく健康的で、未来への希望に満ちている。


 その中央、天蓋に覆われた寝台の中。女が一人横たわっている。枕元に腰を下ろした皇帝が、彼女の手を握っている。


「陛下、陛下。どうやら私はもう長くはないようです」

「そのようなことを申すでない」

「ねえ陛下、私は美しい妃でしたか?」

「ああ、無論。無論である。そなたほどに美しい女はいない」

「私が死んでも、私だけを愛してくださいますか。世界中どこを探しても私以上に美しい女はいないと、一生おっしゃってくださいますか」

「約束する。案ずるな。だからもう少しだけ、側にいてくれ」


 ああ、と女が歓喜の声を漏らす。


「私は最期まで、この世で一番美しくあれましたか。今もなお、美しいですか?」


 皇帝は息を吞み、それから答えた。


「そなたは美しい。だが、最期などとは申すな」


 それから幾らもせぬうちに、女は息を引き取った。







 そして翌日。曇天の下、停止した葬列を追い立てるように砂が舞い上がる。


「お妃様はお美しい最期でしたか」


 突如として葬列の正面に飛び出した薄汚い女の常軌を逸した言動に、民の間に騒めきが走る。皆一様に、嫌悪を全身に張り付かせ、顔を顰めながら様子を窺っている。


 しかし女は、周囲の人間など見えぬような様子である。彼女の目に映るのは皇帝と、寵妃の棺のみなのだ。


 道の端でそれを見守る金眼の男は、全てを理解していた。厳かに担ぎ上げられた棺は空であり、襤褸を纏った女こそが寵妃である。


「私のように醜くはございませんでしたか」

「何を」


 女はおもむろに襤褸頭巾を剥ぐ。曇天から微かに降り注ぐ日差しにより暴かれたその顔は。


「ひい!?」


 誰かが引き攣った声を上げた。


 女の顔は半分以上が赤く爛れ、膿を垂れ流し、目も鼻も口も全てが崩れ落ち、もはやそこに、個々人を特徴づける造形の名残はない。ただ、赤く、膿んでいる。


 病か、それとも火事に遭ったのか、と誰かが言った。


 だがそれにしては妙である。襤褸から覗く手足は汚れ、老い衰えてはいるものの、健全な老婆のそれである。そこには病魔の影も負傷の痕跡もない。


 妙だ。妙な女だ。


 皇帝は激しい動揺を押し隠しつつ、女を睥睨し、吐き捨てた。


「去れ、妖霊。我が妃は何者よりも美しい」


 女は怖気付くでもなく、歓喜すら滲む声音で言い募る。


「本当に、最期までお美しかったですか。私と似ておりませんでしたか」

「無礼な!」


 忍耐の限界を迎えた皇帝の怒声が、屋敷の石壁に反響し、砂を巻き上げる風に攫われ天へと吸い込まれていく。


「ぶ、無礼にもほどがある。我が妃は、我が妃は、おまえのような者とは」

「さようでございますか」


 女は呟きを落とし、次第に小さく肩を震わせる。やがてそれは狂ったような大笑へと転ずる。


「さようでございますかさようでございますか。それはようございました。死の間際まで美しい寵妃様。後宮の、世界の誰よりも美しい寵妃様。きっと陛下の御心に永遠に残るでしょう。間違いなく、他のどんな女よりも! ああ、魔人よ、願いを叶えてくれたのだな。礼を言おうぞ」


 狂気だ、狂気だ、狂気だ。


 嫌悪の波は伝染し、通りの空気はまるで呪われた街のようである。あるいは本当に、魔に連なる何かが女を操っているのだろうか。


「斬れ、首を斬り落とせ!」


 激怒よりもむしろ、恐怖を露わにした様子の皇帝が命令を下す。


 命を奪うべく振り上げられた曲刀が、鈍く光を弾いた。しかし女は怯えることもなく、醜い顔に、辛うじてそれとわかる恍惚を浮かべている。かつて唇があったのだろう場所に空いたうろが、小さく動く。


「我が死と共に、秘密は守られ」


 言葉を切り裂くように、迷いなき刃が閃き、勅命は呆気なく遂行された。


 ……やがて、何事もなかったかのように、葬列は厳かに進む。美しかった寵妃を弔うために。


 道の端、顔を顰めながら様子を窺う群衆の中にただ一人、彫像のように眉一つ動かさぬ男がいた。


 見物人の波が去り、ただ一人取り残されてやっと回想から戻った彼は、金色の双眸を細めてきびすを返す。それから帝都を出て、砂漠の風に溶け去った。







 寵妃が死んだ。


 後宮の女官らは妃の死を嘆く振りをしながら、中庭で噂話に花を咲かせている。


「ねえ聞いた? 寵妃様、最期は悲惨だったらしいわ」

「どういうこと?」

「それがね、お顔がどろどろに溶けて、見るも無残な姿だったって」

「恐ろしいわ。さぞかし陛下も幻滅なさったのでは?」

「それがね、最期の瞬間まで、囁き続けたのですって。『そなたは美しい』と」

「まあ。お二人は本当に愛し合っていたのね」


 憐憫と憧憬と、それから微かな嫉妬を孕んだ声は、小鳥のさえずりに溶けて消え、市井の者らに届くことはない。


 また、葬列の正面で起きた血なまぐさく狂気じみた事件も、宮殿の花である彼女らに伝わることはないのである。







 赤い砂漠の只中で。数刻の間砂塵を彷徨った魔人の元に、顔見知りの同族がやって来た。


 彼女は馴れ馴れしく肩を組む。


「あれ、あんた、お妃様のランプに囚われていたんじゃないの」

「あの女は死んだ。数刻前に、愛する男の命令で」


 ゆえに契約は満了し、ランプから解放された。


「へえ、そりゃ悲劇ねえ。ま、あんたも災難だったね。後宮へ売られる奴隷少女に拾われて、主従の契りを結ばされるだなんて。最初の願いは何だっけ。『私を絶世の美女にしてくれ』だったかしらねえ。何よそのつまらない願い」


 彼――魔人は顔を顰めた。思い出したくもない過去だった。


 寵妃と呼ばれたあの女は、魔人と出会う以前はどこにでもいる、ごく平凡な容貌の娘であった。そのままの容姿であれば、皇帝の目に留まることはなかっただろう。ただの奴隷であった彼女を後宮の頂点へと上り詰めさせたのは彼。金眼の魔人である。


 彼女は魔人に願った。世界で一番美しい女に化けたいと。その代償として、彼女の宝である若さ、つまり命を差し出すことを厭わなかった。魔人は条件を受け入れて、契約を交わしたのだ。


 三年だ。契約からたった三年で、寵妃の命の灯は尽きてしまった。若さを失い美貌の対価を支払えなくなった途端、寵妃の顔は元の平凡な目鼻立ちに戻り、それどころか急激に老いて老婆の風貌となった。


 寵妃は叫び狂った。鏡に映る己の顔を直視することができず、変化へんげの秘密を守り通さんと燭台の炎で顔を焼き、小さな火では燃やし切れぬと察すると、薬品を顔中に塗りたくり、全てを溶かした。


 狂気じみた女だったが、差し出された若さは美味であった。三年間、存分に楽しませてもらったといえる。できることならば、彼女とは円満に契約を満了したかった。


 しかし、強欲な寵妃の最期の願いには、対価が差し出されなかった。ゆえに魔人は、あえて彼女の願いを叶えなかった。ありのままの、醜い姿の寵妃に化け、死の床を演じたのだ。


 露台へと続く窓を清々しく開け放ち、豪奢な服を纏い、金銀宝玉の装飾品に囲まれて。そんな煌びやかな部屋の真ん中で、火と薬品により崩れ落ちた醜怪しゅうかいな顔で寝台に横たわり、皇帝の顔をじっと見つめた。


 まじないで魔人を強引に従わせた寵妃が憎々しかった上、皇帝が気絶でもすれば見ものだと思い反抗を試みたのだ。裏切りが寵妃に知れたとて、彼女は残り数日の命。首を刎ねられなくとも、もう長くはなかったはずだ。


 しかし皇帝は気丈に耐えた。そして、囁き続けた。『そなたは美しい』と。


 どんなに醜くとも皇帝は寵妃を愛し続けたが、寵妃は男の愛を信じ切れず、死の床を魔人に演じさせた。そして自身は街へと下り、葬列に飛び込むことで己の最期の願いが叶ったことを確認しようとした。そして、死をもち秘密を永遠に守り通したのだ。


 自身のことを、命尽きる瞬間すら美しい寵妃だったと思い込み死んでいった、哀れな女。


 彼女が最期に耳にしたのは、愛した男からの死の宣告である。それでも歓喜の絶頂で死んでいく。これを狂気と呼ばずして、何と呼ぶ。


 あれが、美、あるいは権力という魔に取り憑かれた女の末路なのか。


 愛した男の愛を信じてさえいれば。彼女は心に抱えた秘密という重荷を下ろし、真の幸福の中で命を終えたはずなのに。


「……後味が悪い契約だった」


 魔人は吐き捨てて、怪訝そうに首を傾げる同族の腕を振り払う。魔人女の不満げな声が背中を打つ。


「あ、ちょっと。もしかして楽しそうな話があるのね? 美女に化けた欲深い奴隷娘の話、詳しく聞かせなさいよ」


 二人の魔人は風になり、赤砂を巻き上げて砂丘を駆ける。後にはただ、砂一色に埋め尽くされた茫漠とした世界が広がるのみ。


 人間が差し出す宝は美味である。だがしかし、宝の味を思い出す度、寵妃の最期が脳裏を過り、しばらくは食指が動かない。それよりも、この妙な感傷が風化して砂粒の一つになってしまうまで、風となり世界を旅しよう。


 魔人は自由気ままに砂漠を駆ける。次なる契約者と出会うまで、当て所なく彷徨い続けるのであった。


<完>

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寵妃の葬列 平本りこ @hiraruko

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