第3話

 翌朝、いつもと同じ時刻に目を覚ました兼勿かねもちは寝室を見回し、いつもと何一つ変わらない部屋の状態に安堵した。周囲の何処にも、七三分けのおかしな男から貰った名刺も、注意事項の書かれた紙も落ちてはいない。

 口元に苦笑が浮かぶ。当たり前だ、あれは夢だったのだから。


(そりゃそうだよな。過去一はっきりした夢ではあったけど)


 兼勿はぐうっと伸びをし、ベッドから降りた。カーテンを開けると、早朝特有の爽やかな色彩が目に飛び込む。良く晴れた気持ちのいい朝だ。兼勿はトーストとコーヒーだけの軽い朝食を摂り、着替えを済ませると、日課のランニングの為に玄関に向かった。

 油断していた。家を出る直前に、昨夜の夢が過らなかったと言えば嘘になる。だが、玄関開けたら即不運だなんて用心しながら生きている人間が、この日本にどれだけ居ると言うのだろう。

 玄関ポーチから一歩を踏み出した途端、頭上からの「どちゅん!」という音と共に、兼勿の爪先に激痛が走った。横倒しになって呻く兼勿の左のランニングシューズの甲からは、真っ赤な血が溢れ始めている。痛みと衝撃で震えながら何とか身を起こし、恐る恐る足を確認すると、シューズの上から小さな金属片が足先を貫いていた。

 最初の衝撃が抜けてどうにか動けるようになり、タクシーで近くの救急病院に駆け込み傷の処置を受けた。幸い、金属片は思ったより小さく、大事な神経や血管も避けていて、見た目より軽傷だったようだ。

 処置してくれた医師によると、金属片は、もしかしたら飛行機から落下した機体か貨物の破片かもしれない、とのことだった。


「こんなケース初めて診ました。いやアナタ、実に運が良い。もしこれが頭頂部に当たってれば、完全に亡くなってましたよ。危機一髪でしたね」


 微笑む医師の言葉に、兼勿も笑い返しながら心の中で毒づいた。


(呑気な医者だ。運が良い? 運が悪いの間違いだろ)


 兼勿の脳裏に、嫌でも昨夜の夢が浮かぶ。


(まさか、な。偶然だ、偶然)


 だが、病院のロビーで帰りのタクシーを待っていた兼勿は気付いてしまった。柱の陰から笑顔でこちらを覗く、兼勿に小さくガッツポーズを向ける七三分けの男の存在に。

 恐らく、昨夜のあれ――「他人の不運を肩代わりする契約」は、夢では無かったのだ。自分がとんでもない契約をしてしまったことにようやく気付き、兼勿の鼓動が早まる。何とか契約を無効にする術は無いかと、縋る様に柱の辺りに視線を遣ったが、既に鳥田とりたはどこかへ消えていた。


(まずい。まずいまずい、まずいぞ!)


 タクシーに乗り込んだ兼勿は頭を抱えた。運転手が気遣わし気に話しかけてくるが、上の空で返すのが精一杯だ。


(確か、6~10回の分割払いにした。さっきの怪我が1回だとして、最多なら後9回は不運に見舞われるってことだ。それと注意事項、返済期間中はこれまで通りに生活を送ること、返済完了を諦めない、って書かれてたっけ)


 返済完了を諦めない……終わった。鳥田は、注意事項に遂行義務は無いと言っていたが、もし反故にしたら、何が起こるか分かったものではない。何故あの時、しっかりと読みこんでおかなかったのかと己を呪っても、もう遅い。こちらから鳥田に連絡を取る方法も無い。しかも、返済を終えてしまえば、もう幸運は融資されなくなってしまうのだ。

 タクシーは事故を起こすこともなく、兼勿の自宅に辿り着いた。

 リビングの大きなソファに身を沈め、痛み止めのお陰で楽になった左足を軽く擦った兼勿は、いっそ、このまま家に引き籠ろうか、在宅の仕事なのだからそれも悪くないと考えかけ、首を振った。

 もし家の中で不運に見舞われたら、独り暮らしの自分は誰にも助けを呼ぶことが出来ないかもしれない、いや、不運である前提なら、確実に助けを求めることは出来ないに違いない。一か所に留まることで、「不運にも家が無くなる」という事態にもなりかねないし、注意事項の、これまで通りに生活を送ることという一文にも引っかかるだろう。

 結局、自分に出来ることは鳥田の言う通り、いつも通りの日常を過ごし、襲い掛かる不運をいなして負債を無くすことだけなのだ。

 腹が据わった。

 考えても仕方ないなら、受け入れるしかない。発端は向こうに非がある上、もっとごねてごねてごね倒す手もあったかもしれないのに、どうせ夢だからと迂闊に返済計画に乗ってしまったのは自分なのだ。返済を終えた後の事も、その時になったら考えればいい。

 日頃から災害時の備えは用意してある。スマートフォンは肌身離さない、モバイルバッテリーも常に満タンにするようにする、火事を起こさない為に料理は控え、いやそれはいつもの事か。当分運転はしない、駅のホームでは際に立たない、ビルに入る時はまず逃走経路を確認する……気を配れる所は沢山ある。不運など、いくらでも乗り切ってやろうじゃないか。


「来るなら来い」


 ギュウギュルギュル……力んだせいか、兼勿の腹から不穏な音が響く。足を怪我している今は何事も、そう、トイレに行くにも余裕を持って行動をしなければ。兼勿は立ち上がった。

 トイレのドアを開け、いそいそと便座に座り用を足し、人心地着く。ペーパーホルダーに伸ばした兼勿の手が止まる。紙が切れている。替えのトイレットペーパーは、座ったままでは微妙に手の届かない棚に置いてある。昨日のトイレ掃除の際に替えようとしている所で宅配が届き、対応している内に忘れてしまったのだ。


「……これも不運の一つなの?」


 どこからも答えが返ることは無かった。


 翌日からも、兼勿に次々と不運が降りかかり続けた。

 スーパーに買い出しに出掛ければ、そこそこの金額を入れていた財布を紛失する。買って来たサラダに、何故かトリカブトが混じっている。散歩に出れば、切れた電線が兼勿目がけて垂れ下がる。犬のう〇こを踏みかける。鳥の糞も落ちて来る。硬式ボールが顔面に向けて飛んでくる。手に取った鋏は突然分解し、刃先が手首に刺さりかける。駅の階段を登れば、目の前の相撲取りが足を滑らせ倒れ掛かってくる。宗教の勧誘がひっきりなしに訪れ、玄関に列をなす。通り掛かった高層マンションのベランダから植木鉢が落下し、居眠り運転のトラックに突っ込まれ、何の前触れも無く足元の歩道が陥没し、ご近所さん宅から脱走したアナコンダと自宅の庭で遭遇する……。

 数日何も起こらないこともあれば、立て続けに起きることもある。そして、どれが自分本来の不運なのか、負債で肩代わりした不運なのかが区別がつかない。

 うんうんと頷く鳥田の姿を時折見掛けるので、それで請け負った不運と判ることもあったが、大抵の場合は周囲を見回す余裕など無く、結局、何回肩代わりしたのかよく判らない。

 それでも、兼勿は何度も訪れる危機一髪の状況を、黙々と乗り切り続けた。

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