Because it's there - 異星を登る -

冬寂ましろ

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 山へ登るとき、私はいつもこれから登る山嶺を見上げていた。綺麗で美しいその姿を見ながら、あのキレットがきつそうだとか、水はどこまで持つかとか、いろいろ考えてしまう。そうやって考えるほど気持ちが落ち込む。それでも、私は歩き始める。足取りは重く、この先に素晴らしいことなんかないと思っていても、山のてっぺんを目指して歩いていく。なぜなら、私はそれが好きだから。


 12歳の夏休みのとき、月にあるカルパティア山脈メドラー峰の頂上で「最年少での登頂、おめでとう」と、父から静かに言われたことは、いまだに覚えている。灰色の峰々の間から、暗黒に染まる空へ青い地球が昇っていく。その畏怖すら覚える光景を見ながら、私は「また山へ登るんだろうな」と運命じみたものを感じていた。この私、女性登山家ジュンコ・タナイベとしての経歴は、こうしてスタートした。


 その頃は、地球外登山ブームの最初の頃だった。人類がようやく月で暮らし始めたときに、人々は不格好な与圧登山服を着ながら、月の山々を登り出した。どうしてそうなったかはわからない。でも、パワーアシストやスラスターを使ったり、着陸船で山頂に降り立つのとは違う、心地よい充実感を宇宙登山家のみんなが感じていた。


 月の最高峰、ホイヘンス山を日英合同登山チームが人類で初めて登頂したとき、私は二十歳を過ぎていた。このニュースには焦った。登山家として名前を残したい。だって私には登山しかないから。そういう熱に浮かされた私は、月の三大峰を単独登頂することにした。意地だった。みんながやれないことをやりたかった。その思いだけで、25歳になる前に達成することができた。だいぶ無茶をした。でも、これをきっかけに多くの人が私を知り、助力を申し出るようになった。


 火星山岳会が編成したオリュンポス山登山隊に招かれたのも、そんなときだった。隊員のひとりが私のことを「根性がある奴」と推薦してくれたらしい。あとになって、その隊員がサソウ・ルミナだと知った。


 ルミナと出会ったのは、オリュンポス山のふもとにあるベースキャンプで、登山の準備をしているときだった。宿泊していた登山小屋で、リュックに装備を詰めている私へ、ルミナが「乾燥納豆いる?」と話しかけてきた。同じルーツを持つから、そんなものを勧めてくれたのかもしれない。ひとりぼっちで作業していた私への気遣いだったかもしれない。「火星山岳会の人は誰も乾燥納豆を食べてくれない。おいしいのに」という愚痴から始まり、それからお互いの生い立ちや登ってきた山々のことをずっと話していた。


 危険な山を登ることが、世間から頭がおかしい人のように思われていること。

 同じ登山家なのに、女性はお荷物のように思われていること。

 父から「女の子なのだからもう危険なことをするな」と言われたこと。


 私は人とはわかりあえない。山だけがわかってくれる。山に登れば、そんなことは霧散してしまう。

 ルミナも同じだった。同じだからこそ、私は理解していた。いっしょに山へは行くことはできない。


 なのに、翌日の朝、ルミナは私をザイルパートナーに選び、オリュンポス山最大の赤壁に挑みたいと、登山隊のみんなへ言い出した。私はあわてた。どんなに説明してもルミナは言うことを聞いてくれない。こんなに気が合う人と、どっちが先に登るとか、ザイルの巻き取りが遅いとかで、言い争いたくなかった。


 だから、私は逃げるように、ひとりで赤壁へ向かった。急いで登山小屋に入り、装備の最終チェックをする。よし、問題ない。小屋のエアロックに入ったとき、宇宙登山服へフックがつながる鋭い音がした。振り向くとルミナがいたずらっ子のように笑っていた。


 「これでいっしょだね」

 「ちょっと、私は……」


 エアロックの外壁が赤く点灯する。もうすぐ外気が入る。ルミナが宇宙登山帽を私の頭にかぶせると、スイッチを押してバイザーを閉めさせた。自分も素早く同じことをすると、ザイルを介した有線通信で、ルミナはおどけたように言う。


 「ふふ。もう逃げられないんだから」

 「ルミナ。君は私を買い被り過ぎだよ。きっとうまくいかない」

 「いいよ、それでも。自分が山で死ぬときは、ジュンコに見ていて欲しい。誰かじゃ嫌なんだ」


 それを聞いて、私は何も言えなくなった。何かを言おうとしても言葉にできなかった。私は繋がれたザイルをただそっと握った。

 エアロックの壁が少しずつ開くと、赤く染まる錆びた山が見えてきた。私達は前を向き、最初の一歩を踏み出した。ルミナが山を見つめる目は、私と同じだった。


 垂直にそびえたつ赤壁へたどり着くと、練習もなしにふたりで登り始めた。低重力は登山のやり方を変える。荷物は軽くならないくせに、歩くたびに作用反作用のせいで体が持って行かれる。ロッククライミングなら、ふたりをつないだザイルに振り回される。息が合わないと、必ず落下してしまう。落ちなくてもお互いの不手際を責めて喧嘩になるし、そのせいでアタックを止めたこともあった。

 でも、ルミナとのクライミングは違った。私がルートを素早く選んで登り、赤い岩肌にペグを打ち込んで支点を作る。垂らしたザイルをルミナがたどり、いらなくなった支点をすぐに回収する。その動きは、ひとつの生き物のようにきれいだった。


 赤壁のてっぺんで、火星の黒い空と赤い大地をふたりで見下ろしたとき、私達は笑ってしまった。


 「ほら! できるじゃん!」

 「あはは。そうだね」


 痛快だった。重くのしかかっていたわだかまりが、ふたりの笑い声で消えていった。


 それからたくさんの山をふたりで登った。火星の1万メートル級の山々、金星のマクスウェル山、マアト山……。そして、木星の第3衛星ガニメデにある巨大な氷壁へアタックすることになった。


 ガニメデは氷の星だ。-120℃の世界、隕石の衝突で出来た垂直にそびえる氷壁、直接吸えない薄い空気。そしてゆるやかな自転による長い夜。その頃、土星まで進出するようになった人類でも、ガニメデは未踏の難所だった。私達がガニメデの調査チームから同行して欲しいと打診を受けたのは、登山による実地調査があったからだ。頂上付近の氷の確認、サンプルの採取、いろいろあったけれど、なにより人類未踏の頂上をふたりで目指せるというだけで、私達はすぐ行くことを決めた。


 何日もかけて狭い宇宙船に乗り、ようやくガニメデに降り立つ。積んでいた資材を氷原の上に広げ、研究者たちと一緒にベースキャンプとなる建物を組み立ていく。作業の合間を見つけては、ふたりで氷でできた巨大な山を見上げていた。


 あの日、ネフェルトゥムクレーター近くの氷壁が大きく崩れた。落下した氷塊は音速を超え、ふもとにあったベースキャンプへ襲い掛かった。そのとき私は新型宇宙登山服を試すため、少し離れたところを歩いていた。突風が吹き、飛ばされそうになって身をかがめる。氷の粒が銃弾のようにぶつかる。腕でかばいながら顔を上げたら、氷の煙が黒い空へ上がっていた。急いでベースキャンプに戻ると、建物の半分が氷の固まりで破壊されていた。私は半狂乱になりながら氷を掻き出し、屋内にいたはずのルミナを探した。


 助かった人たちが駆け寄る。私は大声でルミナの名前を叫びながら、氷とがれきを取り除く。しばらくすると、崩れた支柱の間に隙間を見つけた。そこにルミナがいた。すぐに酸素マスクを口にあてがう。それから周りのがれきが崩れないように慎重に助け出した。ルミナに大きな怪我はなく、私達は抱き合って生を喜んだ。でも、ルミナが山を見る目は恐怖の色に変わっていた。


 不慮の事故で滞在時間に余裕がないことを調査チームから告げられたとき、私はネフェルトゥムクレーターにある未踏の北壁へ挑戦することを伝えた。それを聞いたルミナは「どうしようもない奴だな。一緒に行くよ」と笑ってくれた。何度もひとりで行くと告げようとしたけれど、私はルミナの笑顔を信じることにした。


 登り始めたのは、氷が夜に染まっていた頃だった。いつもと同じように、それが当然のように、アイゼンの爪を氷壁に食い込ませる。ヘッドライトの灯りだけで体重を預けられる氷を見極め、ルートを確保し、ルミナへ上がってくるように伝える。それを繰り返す。暗闇の中をふたりでずっと登っていく。


 そうやって6日も氷壁を登り続けた。ネフェルトゥムクレーターⅣ峰北壁、標高5000m付近に私達はいた。


 氷が張り出したテラスを見つけて、すばやくペグを打ち、宇宙ツェルトを広げる。身体を支え続けたせいで震えだしている手を叩きつけるようにしてボタンを押すと、ツェルトの中の与圧が効いてきた。私とルミナはツェルトへ潜り込み、もどかしくヘルメットを脱いだ。暗闇に髪がはらりと宙を舞う。解放感を味わう暇もなく、手探りでリュックから小型ランタンを取り出す。スイッチをひねると、温かみのある光が闇を追い出した。


 ルミナの汚れた顔が照らされる。疲労が溜まり切っていた。お互い何も言えず、黙ったままうつむいた。


 左腕のほうで空気が漏れる音がする。見るとナイフで切り裂いたように宇宙登山服がぱっくりと口を開けていた。さっきまで頭上で起きた雪崩を氷壁にへばりついてやり過ごしていた。そのとき落ちてきた氷の仕業だろう。すぐにパッチを貼り付ける。


 寒さが手足をじわりと襲い出す。ヒーターは電力節約のため最小にしていた。かじかんできた指先をグローブ越しに必死に動かす。凍傷になれば、アイスアックスを握れなくなる。そうなれば登るのも降りるのも難しくなる。必死に手足を揉む。感覚が戻ってきて痛痒さを覚えると、私はようやく手を止めた。


 強い風がツェルトをだぶだぶと揺らしている。

 頻繁に起きているチリ雪崩がパラパラという音をさせている。


 まだ生きてる。


 私とルミナはお互いを抱きしめ合い、あふれる不安をぎゅっと抑え込んだ。


 「大丈夫だよ」


 ルミナが自分を慰めるように言う。震えているのは寒さのせいだけではなかった。怖いのだ。私は後悔していた。あのとき私が登ると言い出さなければ、こんなことにはならなかった。


 抱き締められていた腕が少しずつ緩んでいく。ルミナは自分の服の内側に手を入れ、そこからチューブを伸ばし、私の口元へ差し出す。


 「お水飲んで。落ち着くから」


 ルミナが私を安心させるように言う。私の思っていることがわかっているのだろう。強がっても仕方がない。あきらめて再生水を口に含む。抵抗感がある温い水が、かさついた喉を潤していく。


 おいしい。ほっとする。

 心が緩やかにほぐれていく。


 人という生き物は不思議だなと思う。温かいものを飲めば心が落ち着く。そして頭が回りだす。


 酸素ボンベ1本はまだ満タンだ。あと何日かで夜が明ける。太陽光で発電できれば、ジェネレーターを動かしてガニメデの薄い酸素を集められる。ザイルもアイススクリューもまだ余裕はある。

 スケジュールは遅れている。ペースを速めないといけない。でも、この氷壁はまだ2000mは続く。その先は氷で覆われた高峰だ。滑落を誘うキレットや不安定な氷塊のガレ場があるだろう。判断を間違えたら、その一瞬で死ぬ。でも慎重に進めば時間が足らなくなる。


 私はまだ登れる。まだ……。

 でも、ルミナは?


 私は進みたい。でも……。

 ルミナはどう思うのだろう?


 どろりとした焦燥感が容赦なく私を蝕む。


 「ジュンコ。登ろうよ」

 「2日したら金星から迎えが来る。ルミナ、ここで判断しないと取り返しがつかなくなる」

 「わかってる。でも、途中であきらめることになったら、私は自分を許せない」

 「それでも、私はルミナがだいじだよ」

 「私は死にかけたよ。山が怖くなったよ。それでもふたりでてっぺんへ登りたいんだ」

 「あのね、それでも……」


 ルミナが私の体を抱き寄せる。かさついた唇が重なった。その気持ちはわかっていた。ルミナも、私も。でも、私があえてそれには触れようとしてこなかった感情だった。


 「わかったか」


 ルミナが怒ったふりをしてそう言う。


 私はいつも孤独だった。ひとりで山を登っていた。それでもルミナは私についてきてくれる。私が切り開いたルートを必ず登ってきて来てくれる。

 じんわりと温かく泣きそうな声で、私はルミナに告げた。


 「わかった」


 ルミナは笑顔になると、私の手を握り、身体を引き寄せた。


 「なら、登ろう。ふたりで」


 それから私達は手をつないだまま、短い睡眠を取った。目が覚めると、音がしないことに気がついた。風が止んでいる。私は寄りかかって寝ていたルミナをそっと起こす。


 「天候が良くなった。いまのうちに行こう」

 「うん」


 体温で温めていたチョコレートバーを半分に分けてふたりで食べる。それから大急ぎで宇宙登山帽を被り、ツェルトの与圧を下げていく。


 外に出ると満天の星空が見えた。どこまでも黒く、その中で星々が輝いていた。「きれいだね」とつぶやくと、ルミナは返事の代わりに私の手を強く握った。その手はもう震えてはいなかった。


 私達はツェルトを片付けると、お互いをザイルで結び、星の輝きをまとった氷を登り始めた。一歩ずつ確かめるように、氷の壁へアイゼンを食い込ませ、アイスアックスを打ち込む。無心でそうしていたら、背後から光を感じた。7日ぶりの朝だ。黒い世界をわずかな白い光が照らしていく。氷にへばりつきながら、そうして変わっていく世界を少しぼんやりとした気持ちで見ていた。


 すぐ下まで来たルミナに、私はザイルを介して声をかけた。


 「ルミナ、朝だよ」

 「ねえ、ジュンコ。私、幸せなんだ。だって……。あっ」


 その声で、下へ振り向く。


 ルミナがゆっくり落ちていく。


 遠ざかるルミナの体をとっさに捕まえようとした。つかんでいた氷から手を離す。それを見たルミナは、私と繋いでいたザイルを素早くナイフで切った。


 宙を舞うザイル。その先でルミナは静かに笑っていた。それはやがて陽の当たらない黒い氷の谷へ吸い込まれていった。


 叫んだ。

 絶叫した。

 どれぐらいの時間、叫んでいたのかわからない。


 大粒の涙がバイザーの中を漂う。


 もう、いいや。

 もう、私も終わりにしよう。


 ルミナと同じところへ行こうとしたときだった。私を慰めるように陽の光が包み込んだ。


 振り向くと、そこは絶景が広がっていた。


 空は、端のほうにわずかに青い色があるだけで、ほとんどが宇宙の底がない黒色に染められていた。

 大地は、青白い氷と雪が敷き詰められ、クレーターの平原は滑らかにどこまでも続いていた。

 白く煙る向こうには、氷を吹きあげているチムニーがいくつも見えている。

 ゆっくりと宙を舞う小さな氷の粒が、太陽の光を浴びてダイヤモンドのようにきらめいていた。


 この星は、そんなふうに輝いていた。

 誰にも知られることなく、この星は何万年もそうやって輝いていた。


 私は切れたザイルの端をつかむと強く握り締めた。

 ルミナは覚悟していた。なら、私は……。


 「ルミナ、私は登るよ。登ることにしたよ」


 氷壁を見上げる。陽の光は包み隠さず、その姿を私に見せてくれた。その難しさに全身の毛が逆立つ。斜めに伸びる深いクラックも、氷が大きく迫り出したオーバーハングも、すべてが私を拒んでいる。

 でも、あの氷までたどり着き、アイススクリューをねじ込み、トップロープをかけてルートを直線的に取れば……最短で行ける。


 荷物を背負う。

 ルミナの想いも、私に向けてもらった気持ちも、みんな背負う。

 胸に熱い想いが静かに湧き上がる。


 行こう。

 私は、異星の氷壁に力強く足を振り下ろし、アイゼンの歯をがっちりと食い込ませ、ルミナが目指したてっぺんに向けて登り始めた。



注記)

 このあとのジュンコ・タナイベのライフログは、ネフェルトゥムクレーターⅣ峰を登頂した直後に途絶えている。太陽系山岳会は遭難したものとみなし、苦労しながら調査隊を三度送った。山頂から100m下ったところにビバークの痕跡はあったものの、結局遺体は見つけられなかった。

 この知らせに人々はさまざまな想いを胸に抱き、やがて人類未到の地へと大勢を駆り立てた。ここから人類の太陽系外探査がスタートする。

 現在、冥王星軌道上にあるベースキャンプ惑星には、ジュンコ・タナイベとサソウ・ルミナの碑が置かれている。並んだふたつの碑には、さまざまなザイルが何本もかけられている。それは大勢の登山客がもうザイルが切れないようにと願いを込めたものだった。太陽系外惑星の山々へ向かう者は、皆ここから始めの一歩を踏み出している。


- 了 -

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