038譚 失敗したやり直し(中)


 ケルバンは眉を顰めた。

 己の師のたったひとりの孫娘はやけに晴れやかな表情をしている。

「ケル、今日は一緒に過ごしましょう」

「何言ってるんだ、馬鹿。帰れ」

 はっとして、冷たくあしらう。けれどもビルギットは鉄格子に寄り、おもむろに鉄格子の扉を引いた。


「……は?」


 扉が開いた。どこで手に入れたのか、ビルギットのその手には鍵が握られている。

「おい、何してんだ」

 そんなことをしたら、彼女まで罪に問われてしまう。これ以上、自分の浅はかさに誰かを、巻き込みたくない。見ず知らずの者なら別に構わない。だが、家族同然に過ごした彼女はダメだ。

 ビルギットは妖しい笑みを浮かべて、ケルバンの横へ寄り添うように座る。

「大丈夫よ、ケル」

「何が大丈夫だ。見張りを買収してみました、なんていうジョークじゃ済まされない……」

 だが、ケルバンの言葉は続けられない。その唇を、ビルギットの唇が塞いだのだ。あまりに突然のことに、ケルバンは声も出ない。

 そっとその唇を離すと、ケルバンの頬に手を添えて、ビルギットはうっとりとした表情で言う。


「今日がだから、お願いよ」


「最期……?」

「ええ。わたくし我儘わがままは今日だけ。わたくし、貴方に我儘わがままは言ったこと、ないでしょう?」

 そう言う、彼女の手は熱い。燃えるように熱い。きっと彼女が熱いのではなくて、自分が冷たいのだ。夜の塔はとにかく冷える。凍えるように冷える。

「ふふ、ケル冷たくて気持ちいい」

 ビルギットは愛おしそうにケルバンの頬を撫でる。それはケルバンの知るビルギットではない。ケルバンはたじろぎ後退りたかったが、背後は壁で、腕は鎖で繋がれ、吊り上げられたまま。

 だから、ビルギットの熱い手が薄い襤褸布の囚人服の下に差し入れられ、ケルバンの肌を這っても抵抗はできなかった。


「おい、ビルギット。止めろ」


 ケルバンはその女を蹴飛ばしてやりたかった。この娘には、将来を約束している男がいるし、何よりも自分はそんな目で彼女を見たことがない。――そういう感情を持ったこともない。

「!」

 再び、唇が奪われる。今度は長く。ケルバンは必死に体をよじろうとするが、繋がれている上、腕を抑えるビルギットの手が力強くどうにもならない。しかも、ろくな食事も摂れていない上、次々と知人を喪って精神的に参っていたケルバンはとにかく弱っていた。


(やめろ)


 ケルバンは口内へ侵入し犯す熱い舌に、自分を抱きしめ、体中をまさぐり蹂躙する熱い手に、声にならない悲鳴を上げた。自分の体の底から湧き起こる感覚が、何と言い表したらいいのか分からない感覚が、自分の体じゃないみたいなこの感覚が、気持ち悪い。


 ――やめて。

 やめてくれ。

 お願いだから、これ以上。


 鎖がジャラジャラと壁を打つ音が鳴り響く。ケルバンは無理矢理に足を暴れさせて、馬乗りになっているビルギットを突き飛ばした。

「――痛いわ、ケル」

 尻餅をつくブルネットの髪の女は、乱れた衣服を押さえながら呟く。ようやく楽に呼吸ができるようになったケルバンは、ゲホゲホと咳き込み、

「そっちが妙なことをするからだろう。もう止めろ。――これ以上、俺を裏切り者にしてくれるな」

「エイルビーのこと。律儀ね」

「あれでも一応、兄弟子だからな」


 ビルギットはブルネットの髪を掻き上げると、ゆっくりと立ち上がる。

「ケルってモテるのに、経験まったくないのね」

「悪かったな」

 ケルバンは悪態付き、そっぽを向く。それに対し、ビルギットはまた「女の顔」で、ふふ、と嗤う。

「いいのよ。他のに横取りされるなんて、ぜったい厭だもの」

「横取りって……俺は金銀財宝か」

「髪も目も、黄金の色をしているから、まさにそんな感じね」

 ケルバンの髪と瞳は、誰もが見とれるほどの、まさに太陽の色だった。だから、付けられた異名が「黄金の聖騎士」。高い実力、十五という若さ、元傭兵という珍しい経歴。そして何よりもその整った顔も相まって、王国民にはそこそこの人気があった。今や、裏切り者として嫌われる立場になったが。


「――ビルギット。あんた、何を考えている」


 ケルバンは僅かに顔を歪めて、静かに問う。ビルギットはまたケルバンの頬へ手を添え、軽く口吻すると、うっすらと微笑んで答える。


「あなたを、生かしに来たのよ」


「生かす……?」

 その瞬間。

 鋭い痛みが全身を走った。

「ビルギット……何を……」

 一振りの短剣が、ケルバンの胸の近くに深々と突き刺されていた。その短剣は縦に引かれて、肉や血管がブチブチと斬れる音がと共に、電流が走るみたいな痛みがまた全身に駆け巡る。


「ぐあああ!」


 ケルバンは痛みでつんざくような声を上げる。相変わらず腕の自由はなく、押さえて堪えることも叶わない。


「一緒に心臓を捧げて、一緒にやり直しましょう。生まれ変わって、そばには貴方がいないかもしれないけれど。でも、きっと会えるとわたくしは信じているわ」


 ビルギットが虚ろな眼をして、語りかけるように声を鳴らす。ふと牢の片隅へ目を向ければ、あの金の杯がひっそりと置かれていた。

 ビルギットの短剣が、今度は横に引かれた。ケルバンは声にならない悲鳴を上げて、足をばたつかせる。もはや、声が枯れて、音が鳴らされない。血肉を断つ、鈍い音ばかりが鳴り響き、気が遠くなる。


「愛しているわ、ケル」



 耳元で囁かれたビルギットの声を最後に、ケルバンの意識はふつり、と閉ざされた。





 

「おい!大変だ!」


 男の声で、ケルバンは意識を取り戻した。目だけを動かすと、視界の端で見張り兵たちが騒ぎ立てているのが見える。

「――っ」

 起き上がろうとしたケルバンは、その痛みに呻いた。胸の辺りがいやに痛い。

(俺はいったい……)

 何をしていたのか、記憶が混乱していて思い出せない。くらくらと目がまわり、まるで貧血状態。ケルバンはそれでものろのろと起き上がり、その手に何か冷たいものが触れ、思考を止めた。


「――ビルギット?」


 それは、冷たくなって動かなくなった、ブルネットの髪の娘だった。血の海、という言葉が適切と思われるほどの血溜まりがケルバンと彼女の間に広がり、ビルギットは胸に穴を空けて事切れていた。その胸の穴からは、引きちぎられたような肉と血管が投げ出され、乾いてパサパサになった血の海に浸されている。そしてその手元。金の杯にあるのは――――――。

 ヒュッという呼吸音が鳴らされる。ケルバンはその杯に詰め込まれたから目を離せない。ドクドク、ドクドクと心臓が喧しく早鐘を打って他には何も聞こえない。

 

 ――やり直したくはないか?

 

 それは、あの黒い外套ローブの男――白夜はくや常闇とこやみの神官が言った言葉。


 ――一緒に心臓を捧げて、一緒にやり直しましょう

 ――愛しているわ、ケル


 ふつり、と何かが切れる音がした。

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