第3話

「こんにちは、いつぞやは大変失礼なことを申しまして……」

「お帰りください、塾の件ならあの子には酷です、これ以上は」

「おっとと、まあお待ちください奥様」


 三人目の知らない声で、フィリエは身を震わせた。母とともに一階で食事をしていた彼女の背後からは、耳になじんだアンの声による謝罪と、それをにべもなく一蹴しようとした母の声が届いていたが、そこに男の声が続けて聞こえてきたのだ。


 アンの言っていた塾長だ、と察しはついたが、緊張で体が固くなる反応は、今回も起こってしまっていた。

 フィリエはじっとしたまま、男をも追い払わんとする母の声を待ったが、さっぱり聞こえてこない。


 たとえ塾長だろうと、母がひるむはずがない。画商のように金を払ってくれるどころか、こちらに支払いを要求する立場だ。歯牙にもかけないであろう相手なのに、母は一体どうしてしまったのだろう。


「あ、あなた様は……」


 開けっ放しの戸口から入り込む風に乗って、ようやく母の声が運ばれる。そこには、フィリエが予想もしなかった響きがあった。恐怖にも似た驚嘆があったのだ。


 おそるおそる振り返ると、戸口には影がふたつ見えた。ひとつは母で、もうひとつの飛び抜けた影は、塾長のものだろう。アンもいるはずだが、男の影に重なっているのか、その背後にいるのかまではわからない。服の色も判別できないほど、戸口からの逆光が強かったのだ。


「お邪魔してよろしいでしょうか、奥様」


 丁寧で物腰柔らかで、若く綺麗な声。絵よりも歌の先生のほうが合いそうな、甘い声だ。彼は、黙ったままの母を通り過ぎ、アンと一緒に居間に入ってきた。彼女もいるとわかったのは、足音がふたり分聞こえたからだ。


「フィリエ、アンだよ。約束通り……とはいかなかったけど、きみを招く話をするには、十分過ぎる方だ。お母様もご一緒に。ぜひ、わたくしたちの熱意を知ってほしいのです」


 玄関からの光が消えて、母の影と足音が戻ってくる。母は食卓を回り込み、フィリエの向かいに座り直した。

 アンは立ったままフィリエの左にとどまり、男は失礼、と言って、フィリエの右手にある、卓の椅子に腰を下ろした。かすかに、花のような芳香が漂った。


 深く沈んだ青色の外套、黒くて長い髪の合間から覗いた耳には、赤色の飾りがぶら下がっているようだ。フィリエが判別できたのはそれだけだったが、さっきのアンの言葉もあり、ひとつだけ確信できるものがあった。この人は、塾長などではない。


「約束もとらず、大変失礼をいたしました。しかし、それだけわたしが、このフィリエ嬢に目をかけているのだとご理解いただきたい」


 母は何も言わない。淀みなく言葉を連ねる彼が、その名と身分を明かした。


「わたしは第五階位オースティンの、リルヴィアス・モルク・ノル・アルフェーヌと申します。わたしが管理する塾の生徒が、類稀たぐいまれなる絵師の原石を見つけたと知らせてくれまして。こうして本人と、彼女をここまで支えてくれたご家族に会いにきた次第なのです」


 間近で唱えられた肩書きと長い名前は、フィリエも一度で覚え切ることはできなかった。


 それでも、“階位”のある身分、そして“ノル”という言葉をその名に含めることができるのが、限られた人間だけなのは知っている。青の外套は、その証だ。母はこの格好を見て、きっと呆然としてしまったのだ。


「アル、フェーヌ様……いえ、アル、フェーヌ卿? もしかして、あなた様が、アンの言っていた」


 貴族につける敬称を、この口が発する日が来るなどと、誰が想像しただろう。当のアルフェーヌは、数日前のフィリエのように、ゆっくりと彼女に顔を寄せてきた。アンのように白っぽい、滑らかそうな肌。髪とよく似た色の目が、優しげに微笑んでいた。


「その通り、わたしが例の“変わった貴族”だよ。わたしの顔は見えるかな?」

「は、い」


 綺麗な声が、まさに眼前で発せられる。少し瞼にかかっていた髪を取り払われ、フィリエはまたびくりと震えた。


「大丈夫、何もしないよ。うん、かわいい顔だ。塾がいっそう華やかになるね」

「あの、わたし、まだお返事は」


 母の知らないところで、勝手にことが進められていたのがばれてしまった。フィリエはまず、そのことだけが不安でならなかった。


「わかっているよ、安心して」


 アルフェーヌの言葉は、フィリエが確かな返答をしていないということへのものだったのだろう。だが今の彼女には、きみの母親のことなら心配いらない、と言われたように聞こえた。実際彼は、すぐにそうしてくれたのだ。

 佇まいを直して、アルフェーヌは再び、フィリエの母に話を切り出した。


「おいえの事情はお察しします。しかし、わたしの目にとまった以上、彼女を飼い殺しにするような真似は看過できません」

「飼い殺しなんて、そんな……。わたしは、この子が外に出て、馬鹿にされることが耐えられないだけですわ」

「ええ、強い言葉を使ったことには陳謝します。心無い者がいるのも事実です。ですが、世界は広い。彼女が馬鹿にされることなく、さらに素晴らしい絵が描ける場を、わたしは彼女に与えたいのです。彼女には、それだけの価値がある」

「この子の、絵に……?」


 思わず、といったふうにこぼれた母の言葉を、アルフェーヌは否定した。


「いいえお母様、彼女自身に、です。わたしは彼女に投資をする、そのための費用免除など安いものです。そしてあなたには、彼女の才を潰さずにいてくれたことへのを、お送りしましょう」


 母のまとう空気が変わったのを、フィリエは感じ取った。そして、視線が自分に向けられる。


「フィリエ、本当に行く気なの?」


 母の問いかけに、フィリエはやっと、心の内にしまい込んでいた自分の望みを告げた。


「うん。わたし、自分の絵に、色を、つけてみたいの。綺麗な色を」


 そう答えると、隣のアルフェーヌが楽しそうに笑い出した。


「ああ、なんてかわいらしい欲だろうね。ではさっそく行こう。誰かの絵皿から、絵具をひとすくい拝借しようじゃないか。さあ、立って。時にフィリエ、きみの花の絵は完成したのかな?」


 有無を言わせないような、それでいて軽い調子で進めるアルフェーヌにおされ、フィリエははい、と返事をした。


「では、その絵に色を塗ってみようか。アン、工房から絵を」

「わかりました。お母様、失礼いたします」


 頭を下げ、アンは階上へと駆けていった。アルフェーヌのほうは、立ち上がったフィリエの肩を抱いて、母親に最後の言葉を投げかけた。


「彼女の道具と荷物は、また改めて伺いますので、その時に。の件も、詳しくお話ししたいので」

「わかりましたわ。……フィリエ、がんばって」


 フィリエが頷いたのを見計らったように、アルフェーヌは肩を押して戸口へ導いた。家を出て、日差しに打たれるのと同時に、アンの足音が戻ってきたかと思うと、彼女は堰を切ったように話し出した。


「アルフェーヌ卿、フィリエはわたしのところで」

「もちろん、そのつもりだよ。住まいはアンと一緒にする、そのほうがきみも安心だろう」

「あ、ありがとう、ございます。あの、アルフェーヌ卿。わたし、アンから、その、眼鏡、というのを聞いてて」


 あの場で、一度も話題に出ていなかったことを、フィリエは気にしていた。アンがその気にさせるために、嘘をついたのでは、と思い始めたところだったのだ。


「ああ、お母様の前では黙ってたほうがいいと思ってね。約束は守るとも、これもきみへの投資の一部だ。みんなと同じようにとはいかないだろうけど、今よりはずっとよく見えるはずだよ」


 フィリエの想像は杞憂に終わった。そして、魔法のような未来を夢想した。街道を歩く人の姿が、並び立ちそびえる石造りの建物が、物に近寄った時のように、綺麗に見えるかもしれないなんて。


「ぼくは、きみの今の絵も大好きだけど、見え方が変われば、また別の才能が見つかるかもしれないしね。それにぼくは、ぼくの美しい顔に見とれるきみを見てみたいんだ」

「自分で言います? それ」


 アンの単刀直入な言いように、フィリエは思わず吹き出した。


「ああ、やっと笑ったね。女の子はそういう笑顔でいるのが一番素敵だよ。さて、馬車が来たようだ」


 その言葉通りに、フィリエの耳にも蹄と、車輪の回る音が聞こえてきた。二頭の栗毛の馬に引かれた馬車が、フィリエたちの前で止まる。


「言っておくけど、ぼくが美しいのは本当だよ」

「わかってますよ、アルフェーヌ卿。ちゃんと乗せてあげてください、女の子をつまずかせるなんて、もってのほかですよ」

「任せたまえ。ではフィリエ」


 馭者ぎょしゃが扉を開け、そこに通ずるよう踏み段を置くと、アルフェーヌは彼女の手を取った。


「きみの門出を、心から祝福しよう。絵描きとしてのきみの、これが本当の始まりだよ」


 表面を鮮やかな赤色の布で仕立てられた踏み段は、履き古したフィリエの靴を、柔らかく受け止めた。

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ある絵描きの旅立ち 透水 @blnsrk

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