第2話

 扉の向こうから名乗ってきた声は、母が外に出ている時、様子を見に来てくれる隣人の、リルという女性だった。


「フィリエ、あなた絵のお友だちができたのね。よかったわ」


 母よりもずっと年上で、フィリエから見たら祖母のような年齢の彼女が、部屋の扉を開けるなりそう言ってきた。どういうことかと振り返れば、背の低いリルのうしろにもうひとり、見慣れない人影が立っている。


「わたしだよ、フィリエ。アンだ。絵描きの友人だと言って、入れてもらった」

「あらまあ、あたしゃ嘘つきを連れてきてしまったのかい?」


 心底びっくりした様子でリルが叫ぶ。今すぐにでも、手近にある物を投げつけてでも追い出してしまいそうだったので、フィリエは慌てて立ち上がった。


「い、いいの、リルさん。大丈夫、その人は、知り合い」

「本当に? まあ、悪い人には見えないけど」

「本当。前に、会ってるから。アン・メイオールさん。絵の、塾に行ってる人」

「その通りだよ」

「おや、すごい人とお友だちになったんだね。わたしは邪魔しないから、ゆっくりお話ししなさいな」


 リルが笑顔なのは、手に取るようにわかった。フィリエが椅子に座り直すのと一緒に扉が閉まり、人影と足音が近づいてくる。前と同じように机のそばまで来ると、アンは屈んで両腕を机に置き、そこに自身の顔を乗せて、フィリエを覗き込んだ。


「どうだろう、ここならわたしの顔は見えるかな?」

「……前、よりは、少し」


 明るい茶髪の下で、アンが笑っているのはわかる。それ以外ではせいぜい、母親やリルより白い肌が、光を反射してすべすべしていそう、という程度しか判別できなかった。


「話すのは苦手? それとも嫌い?」


「苦手……。よく見えないから、怖くて、緊張する。でも、したくない、わけじゃない。言葉が、すらすら出てこない」

「嫌いじゃないならよかった。まずは、押しかけるような真似をしたことを謝るよ。驚かせてごめんね」


 フィリエは首を振った。追い出されるように帰った人が、こんなふうにまた来てくれたことなんてなかった。


「嬉しい。お母さんが、出かけたの見てた?」

「うん。今の人、えっと、リルさん? あの人が、お母さんが家を出たあと、時々入っていってたこともね。お母さん、もう二度と会わせてくれなさそうだったから」

「塾……の話?」

「そうだよ。きみには、知らないこととはいえ、ひどい言葉をかけてしまった。でも、きみの絵をさらに素晴らしいものにしたい、その気持ちは確かだ。今はお母さんもいない。だから、きみ自身の意志を聞かせてほしい」


 アンの視線がまっすぐに、フィリエに向けられた。


「きみは、きみの知らない絵の世界に行きたいかい?」


 フィリエの唇が引き結ばれる。もし、家も――母も、リルさんも、お金も、何も気にしなくていい、というのなら。


「わたしは、行きたい」


 アンの気配が変わった。おそらく、これは驚きだ。


「もうちょっと悩むかと思ってた。なんだ、しっかりしてるじゃないか」

「でも、でも、わたしの気持ちだけじゃ、塾なんて行けない。お母さんは絶対お金を出さないし、それに、わたしは、目が」

「こんな素晴らしい絵を描くんだ、視力は問題じゃないよ。それに、前向きなきみには、いいしらせがあるんだ」


 アンは、得意げな笑声をもらして続けた。


「きみが来たい、と言うなら、まず費用は免除する。かかる費用すべてだよ。そして、きみのその目。眼鏡って、聞いたことあるかな。きみ専用のものをあつらえる。これは塾長じゃなく、塾に出資している貴族様、直々の提案だ」


 フィリエは言葉を失った。アンの目が、口元が怪しく笑ってはいまいかと、どうしても確かめたくなって、フィリエはその顔をどんどん近づけていく。


「ど、どうしたのかな、急に」


 あまりに近すぎて、アンの顔の全容はわからなかった。だが、フィリエは確かに、まん丸になった茶色の目と、ぽかんと開いた小ぶりな口を見ることができた。


「……貴族様が、どうして、そこまで」


 背もたれに体を軽く預けて、フィリエはつぶやいた。一介の民に、そうまでしてくれる理由がどこにあるのか。人付き合いのほとんどない彼女ですら、疑わざるを得なかった。


「ここに来た時、きみの絵を一枚持って帰ったの、覚えてる?」

「はい」

「あれを貴族様に渡したら、とても見入ってね。ひとしきり眺めたところで、今の話をしてきたんだよ。お金は貴族様本人の領分だけど、眼鏡については、その方の友人のつてで頼めるそうだよ」

「アンは、貴族様とお友だちなの?」

「いや、あの方はわたしだけじゃなくて、生徒みんなに会うよ。生徒だって、ほとんどが貴族様が選んだようなものだ。変わった方なんだよ」


 でも、とフィリエはうつむく。


「ひとりで街も歩けないようなわたしが、塾なんて。わたしは普通じゃない、絵を描いているところだって、見られたくない。わたしは、おかしいから」


 母に数え切れないほど言われてきた事実。事実なのに、口にすると、いつも目頭が熱くなる。


「……フィリエ、わたしはきみの見えないつらさを、きっと一生理解できない。でも、そういう背負うものがあるのは、わたしも同じだよ」


 弾かれるように顔を上げたフィリエの視界には、ぼんやりとしたアンの姿があった。


「わたしはね、色が見えないんだ。みんなが別々の色に見えているものが、自分には同じように見えたりする。それでも、わたしは絵が好きだったし、貴族様はわたしの独特な描き方と、やる気を気に入って、塾に入れてくださった。普通じゃないなんて、あの方は気になさらない。むしろ、普通ではだめなくらいさ」

「……アンが持っていった絵、失敗したやつだった。失敗したけど、紙がもったいないから、あまったところにいろんな線を書いて、とても汚かったはず、なのに」

「いい線だって言ってたよ。ペンだけで絵を描く人は、あまりいないからね」


 締め上げられるようだった胸の奥が、今はなぜか暖かい。自分の絵が、高貴な人に求められていることが、信じられなかった。


「まだ半信半疑かな。よし、今度は塾長を連れてこよう。お母さん、もう一回だけでも話を聞いてくれるといいんだけど」


 勢いよく立ち上がったアンは、お母さんと鉢合わせしないうちに、と言って、軽い挨拶を残して工房を出ていった。

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