第3話 スタート


「なるほど。つまり、おぬしは恋に落ちてしまったということかの」


 私からの話を聞き終えた大神様おおかみさまは、開口一番そう言った。


「え・・・・・・?恋、ですか」


 思わぬ言葉が出てきて、混乱する私。だがそんな私の様子を見ても、大神様おおかみさま泰然たいぜんとしている。


「そうだ。なに、そこまで驚くことではない。いにしえより、神と人間などの異類同士が結ばれる例は無数にある。おぬしもまた、そのうちのひとつになったに過ぎぬ」


 この胸に渦巻く感情。これが、恋?なんだかとっても不可解だ。ずっと長い間、神様として生きていたからか、自分の感情を定義されても、いまひとつしっくりこない。


「とにかく、大神様おおかみさま!私が抱えるこの気持ちが、恋でも愛でもなんでも構いません。あの青年を救うことができれば、私はどうなっても・・・・・・」

「まあまあ、そうくではない」


 大神様おおかみさまは、あくまでもゆったりどっしりと落ち着いて話を進める。


「おぬしも知っての通り、我ら神という存在は、むやみやたらと人間の世界に干渉することはできぬ」

「はい。それは充分に承知しています・・・・・・」


 やっぱり彼を救うことはできないのだろうか。


「じゃがな。人間なら話は別だ。人間なら、我ら神と違い、いくらでも人間の世界に干渉して影響を及ぼすことができる」


 私は無言のままこっくりと頷く。大神様おおかみさまは話を続ける。


「つまりだな。おぬしが人間へと変貌を遂げれば、その青年を救うことが可能かもしれない。そういうことだ」

「えっ・・・・・・そんな方法があるんですか」

「ああ。だがそのためには、おぬしは神の地位を下りなければならぬぞ。つまり、長い長い神としての生を諦めて、限りある生を受け入れるということ。つまり、おぬしは何十年かのちに死ぬ。それでもいいのか?」

「・・・・・・構いません。彼を救うことができるのならば」


 大神様おおかみさまはしばしの沈黙ののち、おごそかに返事をしてくる。


「そうか。分かった。ならばひとつ、おぬしの気持ちが本物かどうか、試練を課そう」

「はい。私、なんでもします」

「よかろう・・・・・・。今からおぬしの記憶を消して、とある部屋へ送る。その部屋は、出口のない、完全な密室だ。そこにはひとつのボタンがある。それはスタートボタンという名前でな。そのスタートボタンを押せば、おぬしは晴れて人間として生きることができる」

「記憶を、消して・・・・・・?」


 どうしてそんなことをしなければならないのだろうか?


「それはな、たとえ記憶を消され自分が何者か分からない状態でも、おぬしが“変化”を望むかどうか、そこを試すためだ」

「変化、ですか・・・・・・」

「そうだ。人間は限りある生の中で、常に変化し続ける。一見そうは見えなくともな。一方、我ら神という存在はあまり変化のない存在だ。おぬしが本心から、人間として生きたい――変化のある生をまっとうしたいと願うのなら、たとえすべての記憶がなくとも、必ずスタートボタンを押すはずだ」

「分かりました。大神様おおかみさま、お願いします・・・・・・あ、でも一つ質問が。仮に私が人間になったとして、私の後には誰か代わりの神様が来るのですか?」

「なんじゃ、妙に責任感が強いの・・・・・・心配せんでも良い。おぬしの神社は、当分わしが面倒を見ておく。おぬしの代わりの神は、やがて人々の生活と祈りによって、ゆっくりと形作られていくだろう」


 それならよかった。私は安心して、人間になれる。


「それじゃ、いくぞ――」


 大神様おおかみさまの声がして、私の意識は薄れていく――。




 そして私は無事に、スタートボタンを押した。これで人間になれるのだ。限りある生を生きていくことに、不安がないわけではない。でも、その不安を感じるのもまた、私が人間になった証拠だろう。


 


 しゅわしゅわしゅわ・・・・・・。蝉の音が聞こえる。


 暑い。蒸し暑い。うだるような熱気だ。


 ・・・・・・?私はどこにいるのだろう。


 目を開けてみる。大木だいぼくが目に飛び込んでくる。いつも見慣れたような・・・・・・そうだ。神社に生えているのだ。


 私はハッとして、起き上がる。そうだ。ここは私の神社の境内だ。いや、もう私は神様じゃないから、ここの持ち主ではないか。


 ベタベタと肌に張り付く汗が、気持ち悪くも心地よい。神様だったときには、こんな気持ち悪さは経験できなかったので、なんだか新鮮だ。


 周囲を見回して、私は直感的に理解する。ここは、あの青年が絶望に打ちひしがれて去って行ったとき――その直後の時間だ。


 ということは、きっとまだ間に合う。私は立ち上がり、全速力で走る。鳥居をくぐり、生まれて初めて神社の外への一歩を踏み出す。


 彼は確か右に曲がったはず。私は猛ダッシュで彼を追いかける。


 いた。小さな背中が見えた。彼の背中だ。


 息切れしながらも、私は彼に追いつく。なんて声をかければいいんだろう?私は神様で、あなたに会いたくて人間になりました?ううん、もうこうなったら行動あるのみ。えいっ。


「ひゃっ!?」


 背後からいきなり袖口をつかまれて、彼は心底びっくりした顔をする。


「な、なんですか・・・・・・?」


 怯えに満ちた表情の彼に、私は精一杯の言葉を紡ぐ。


「はぁ、はぁ・・・・・・すみません、突然・・・・・・でも、なんだかとても悲しそうな顔をしていたので・・・・・・つい声をかけずには、いられませんでした・・・・・・」


 まずいな。息切れで、上手く言葉が出ない。人間の身体ってこんなに不便なんだな。でも、それが生きている、てことなんだよね。


「そう、ですか・・・・・・?」


 最大限の不信感と警戒心を放つ彼。うん、そりゃ仕方ないよね。でも私は臆さない。


「よかったら、話だけでも・・・・・・聞かせてもらえませんか?見ず知らずの私が、いきなりこんなこと言っても・・・・・・ヤバい奴だと思われるかもしれないけれど・・・・・・でも、ひょっとしたら、何か力になれるかも・・・・・・」


 彼の表情が、微かに――本当に微かだけれど――明るくなった気がする。彼の唇がゆっくりと動く。


「分かりました・・・・・・なぜでしょう。あなたを見ていると、どこかでかつて出会ったような気がしますし・・・・・・お言葉に甘えて・・・・・・」


 よかった。とりあえず、話だけは聞かせてもらえそう。


 大丈夫。あなたがどんな辛さや悩みを抱えているかは知らないけれど、私に任せて。ぜんぶ聞いてあげる。一千年以上生きてきたこの私の知恵を、頼ってちょうだい。


 絶望に呑み込まれて、終わらせられようとしていたあなたの人生。私がいまから、スタートさせてあげるんだから。

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スタートボタン、押すのが正解か? いおにあ @hantarei

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