第12話 九九八十八

 一年生の理数科目を担当する文樹原あやぎばらフミ先生は、今年で八十五歳になるらしい。姫騎士らしく一応若作りな六十後半から七十歳くらいという外見年齢は、農村基準では若手扱いされるであろうが、芽亜のような都会出身の十代の少女から見れば、いずれにしてもお婆ちゃんである。芽亜は敬老という意味合いでことあるごとについ気を遣ってしまうが、夕子や霧子なんかは近所のおばさんや母親くらいな年齢感覚で接している。この感覚の違いは姫学特有のものではなく、若者もちゃんといる都会暮らしと、お年寄りばかりの地方暮らしという生活環境の差によるものであった。

 黒板の前に立つフミ先生が、優しくゆったりとした口調で言った。

「それでは次は卍姫さん。九の段を言って見ましょう」

「はいですの! くいちがく! くにじゅうはち! くさん……にじゅうしっち! くしさんじゅうろ、ろく! くごしじゅうご――」

 今日の基礎数学の授業は九九であった。理数系の基礎の基礎であるから、たしかに最重要科目といえる。

「くはっ、しちじゅうに。くくはちじゅうは――」

 春の午後らしく柔らかな日差しに照らされた教室に、時折つっかえながらも、卍姫の声が響き渡る。

「はい、よくできました。九つのうち七つも正解するなんて、お勉強がんばりましたね。皆さん拍手。はーいぱちぱち」

 フミ先生に促され、芽亜も一応拍手する。

「四方院さまの九九はいつ拝聴しても素敵ですわ」

「麗らかですの」

「まるで雲雀のさえずるよう」

「えへへ、ですの」

 卍姫が照れくさそうに席に座る。

「さて皆さん、間違い探しをしましょうか。二つありますね。正しい答えは――それではメアさん、お願いします」

 指されてしまい、起立する。

「九七六十三と九九八十一、です」

「はい正解。さすがメアさん、すごいですね。ありがとうございました」

 この年になって大まじめに九九を言って褒められるとやるせない気持ちになる。芽亜は「お姉様……」と縋る目で夕子を見た。姉妹は隣り合ったほうがいいとクラスメイトに譲られて、彼女は隣の席である。

「やるわねメア。けれど私も、七の段には自信があるわ」

 おねーさまお前もか?Et tu, ONEESAMA?と、裏切られたような心地で芽亜は嘆いた。やはりこの学校は、芽亜の常識が通用しない。


 フミ先生のしているのは誉め殺しという、いわば飴と鞭の飴代わりに砂糖水を流し込むといった特殊なシゴキでは決してない。彼女はちゃんとカリキュラムどおりの授業をしている。盲人国では片目の者が王様だといわれるように、芽亜の知識水準が違うのである。かといって「ここはFランお嬢様学校なの?」などという質問は誰にもできない。ウェルズの小説の主人公が目玉をくり抜かれそうになったように、芽亜もそうならないとは限らない。



 この姫騎士学園において中学三年次で中退した芽亜は、実のところ学歴という意味ではエリートに他ならない。神威覚醒で力に目覚めた姫騎士は、その時点で公立私立を問わず、学校へ通うことを禁じられる。姫騎士の存在の秘匿もあるが、一般の子供の命を守るためである。幼い姫騎士でもチンパンジー並みかそれ以上の腕力がある。しかも姫騎士でない子供を生理的に下等な存在と感じてしまううえで、精神は年相応である。お友達は喋るぬいぐるみくらいにしか思わないので、ちょっとした揉め事が大惨事になりかねない。幸い、姫騎士は人間ではないので義務教育は適応されない。

 大抵の場合、神威覚醒の時期は七歳から十歳までの間となる。十二歳でも遅い方であり、十五歳で目覚めた芽亜は、極端に遅い方である。そのため芽亜以外の生徒の最終学歴は小卒か幼卒か、あるいはホイ卒ということになり、以降の勉学は自主学習とならざるを得ない。

 いわゆるホームスクーリング、上流階級らしく家庭教師を雇えばいいとはいうものの、その家庭教師を見つけるのが難しい。守秘義務は問題ないが、物理的に問題がある。幼い姫騎士というのはパワー系わがままお嬢様といった可愛らしいものではない。休日の公園で発狂したような金切り声をあげてはしゃぎ回るやんちゃ坊主が、重機のパワーを伴ったと考えれば良い。いってしまえば半端な知恵を得て凶暴化したチンパンジーにものを教えるようなもので、それに志願するのは余程の命知らずか、極まった小児性愛者くらいなものであろう。姫騎士は幼くても、見た目だけは非常に可愛らしいのである。

 ならば親が教師役をする、というのは正しいやり方の一つではある。神威覚醒で精神性が変わっても、それまでの積み重ねと血のつながりもあってか、家族の情は残っている。発作的にむかついて頭を潰したりはしないであろう。とはいえそれも家庭の事情で難しいことが多い。父親は仕事などで忙しく、姫騎士のほとんどは母親とは、親子仲が良くないのである。自分と同じ苦労をさせまいと骨を折る。可愛い息子とは逆に嫌悪する、あるいは無関心でいる娘のためにそこまでする母親はあまりいない。舞奈花や佳奈花のように、母親とも親子仲の良好な家庭はむしろ例外なのである。

 ちなみに姫騎士小学校や姫騎士幼稚園といった幼い姫騎士のための専門施設を新たに作って、そこに放り込めば良いという考えは当然ある。けれども連盟が日本国内で認めているのは姫騎士学園と巫女武者学院の二つのみで、それら以外の姫騎士コミュニティの形成は許されていない。かつて日本に存在した連盟法に違反するコミュニティ、暴力団や新興宗教、姫騎士保護を謳う人権団体がどうなったかは言わずもがなである。テロ対策としては適切な処置といえる。

 そういった事情から、入学したばかりの姫学生徒の学力にはばらつきがある。お受験経験者で学習の下地が出来ている生徒や、生来の気質が真面目で努力した生徒は中学校卒業程度認定を受けているが、全員が全員、自主学習を順調に進められたわけではない。ある日突然学校にいけなくなった、誰からも強く叱られなくなった、教えてくれる先生がいなくなった、好きなことだけを学んでいられた。そのような環境では、四則演算でつまずいたままここまできてしまった生徒も当然出てくる。そして姫騎士学園の意義は、姫騎士を姫騎士にする以上に、姫騎士を人間にすることにある。


 これからの一年間で一年生全員の学力を中学卒業程度以上に引き上げる。それが文樹原あやぎばらフミの仕事である。姫騎士学園一期生でもある彼女は、六十年以上、後輩たちにそうしてきた。大ベテランの教師である。

 姫騎士学園での暮らしについて、元姫騎士の母親は娘に語ることはほとんどない。守秘義務をはじめ、芳しくない親子仲や、塹壕の中のことは語らないという意味もある。そんな彼女らでもフミ先生だけは敬うようにと入学前の娘に散々言い聞かせる。なんとなれば人間に戻った今であるからこそ、彼女は大恩人であったと確信するのである。元姫騎士たちは現役の姫騎士を毛嫌いするようになっても彼女だけは例外で、学生のうちにもっと感謝の気持ちを伝えておけばよかったと後悔するほどに尊敬している。素直にそう思えるのは、神威が弱い彼女が自分達と同じように老いることも影響している。


 フミ先生の普段の授業の上手さに関しては、芽亜はまだその恩恵を受ける段階になっていないので判断が付かないが、補習組からの評判は極めて良い。マンツーマンで教わっているときは、するすると淀みなく頭が働くという。生徒一人一人の習熟度を事細かに把握して、どこがわかってどこがわからないかのみならず、思考誘導とでもいうのか、生徒が頭の中で問題を考える声とフミ先生が教える声とが重なって聞こえることすらあるらしい。二桁以上の足し算引き算が怪しかった生徒が、フミ先生の補習を受け続けて三日後には、六桁まで暗算できるようになったという実例もある。少し怖い。

 フミ先生は生徒に甘い。生徒をいじめるのが大好きなザマ先とは正反対といってもいいくらいに甘い。授業中に居眠りする生徒を見逃したうえで、その間の分の講義ノートをあとでこっそり渡してくれる。内職についても同様である。生徒が望むなら夜遅くまでつきっきりで補習をし、休日出勤すらしてくれる。わかるようになるまで粘り強く付き合ってくれるのはいうまでもない。

 その極端な甘さが教師として正しいかどうかは、よそにはよその、姫学には姫学の流儀があるので何ともいえない。母親に愛されなかった少女たちのために、あえて母性的に振る舞っているのかもわからない。ともかくフミ先生は、姫学の良心と呼ばれるくらい、生徒たちに好かれているのは確かである。

 生徒に甘いのは叡子学長も同様であるが、彼女は生まれが生まれである。平安貴族らしくどこかサイコパスなところがあり、安心して甘えるには気後れする。その神威の強大さもあって、敬して遠ざけるも近寄られるといった距離感といえた。



 九九表を自作した後は百マスかけ算となる。芽亜が小学校でやったものとの違いは、採点を簡略化するためか、いわゆるデジタルマークシート形式になっている点である。『日』の字をなぞって数字を書き込み、教卓脇のスキャナーで読み取るのであろう。

 姫学では数をこなす計算問題をこれでやるため、姫学筆跡とよばれるカクカク数字の元凶といえた。

「では皆さん始めてください。ただし、九九をいうのは心の中で。他の方が聞いて、うっかり間違えてしまうかもしれませんからね。終わった方は持ってきてください。次の課題をお渡ししますので」

 無論、芽亜は九九を暗記している。なので計算そのものより書き込みのほうに手こずって、先生のところに行ったのは十番目であった。学力優秀組の他、霧子と嶺鈴、そして夕子といった武力優秀組にも負けてしまった。彼女ら三人は機動剣術における頭のおかしい速度を、書き込みにも活かしたのであろう。すさまじい速さで鉛筆が動いていた。

「メアさんは九九が完璧のようですから、十二の段に挑戦してみましょうか」

 たしかに今の授業は芽亜にとって意味が無いと思っていたが、まさかのエクストラステージ突入である。ここから先は語路合わせが通用しない。暗記力と暗算力が曖昧になる領域である。

 新たなプリントを手に席に戻りながら他の生徒のプリントをのぞき見る。学力トップクラスが十九の段までやっているのはこの際いい。インド人みたいなものである。十三の段までの霧子を見ると、筆頭とはいえ学力は最強ではなく、年相応ものであったと安心する。嶺鈴が十六の段をやっているのを見て、サバサバ系気取りのくせに頭良かったんだと意外に感じた。問題は夕子である。彼女はなぜか、十七の段までの計算をすらすらとこなしていた。裏切られたと芽亜は思った。四方院さんの同類であると三味線を弾いていたのである。

「お姉様って、頭いい人なんだ」

 話しかけた声の調子が平坦なのは、ひそひそ声のせいであろう。

「昔はびょう……暇を持て余すことがよくあってね。そういうとき、教わったばかりのかけ算で遊んでいただけよ。遊びだから暗記もなしにね。好きな数字だからでしょうね。七の倍数なら咄嗟に出せるけれど、他はどうしても暗算してしまうわ」

 暇になったなら漫画を見たりゲームをしたりすればいいのに、やはり少し変わっている。お嬢様育ちとはそういうものなのかもしれない。

 芽亜と同じ十二の段は、舞奈花や佳奈花がそうであった。意識し合っているのかお互いをちらちら見ながらも、競争のつもりなのか慌ただしい手つきで鉛筆を走らせている。

 昼休みの出来事が思い出された。この二人が夕子にデュエルオフィサーをやって欲しいと頼みに来たのである。ちなみにデュエルオフィサーというのは決闘官の直訳で、なんとなく響きが格好良いから用いられている姫学用語である。

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