第5話 お姉様(スーパー系)

 芽亜はあの人にどう声をかければよかったのだろうと後悔ばかりが頭に浮かび、上の空で寮への道を歩いていた。一応、芽亜は立場上ではとばっちりを受けた被害者である。あの人がそんな芽亜を助けてくれたのはたしかであるが、ザマ先の気紛れとはいえ、芽亜がそうなる原因を作ったのも彼女である。救い主でありながら間接的な加害者でもある。いざ前にしたとき、不意にそんな考えが脳裏を過ぎり、お礼を言おうとして言えなくなった。

 何彼につけ即座にありがとうと返せなかったり素直にお礼を言うのをためらいがちであったりする人間は、こうした貸借対照的な道徳観に咄嗟の行動を支配されるものである。軽はずみにありがとうを使わないし使えない。ある意味では自分と他者の関係に潔癖であるといえるものの、回りからみればそういった人間は気むずかしい、愛想がない、人に礼も言えない無礼な人間であると断定せざるを得ない。互いに好かれ合うことを前提とした現代日本の価値基準でいえば、それは社会不適合者であり、嫌われ者の条件を一部満たしていることになる。矢見野芽亜も現代社会に数多いるそういった人種の一人であり、そういった人種の大半と同様、己がそうであると自覚していた。ようはあのとき声をかけ損ね、お礼を言いそびれた負い目をくよくよと引きずっていたのである。嫌なやつだと判断されて嫌われてしまったのかもと自分で自分を追い詰めて、再会するのが怖くなった。

 寮の自室に戻って急ぎのシャワーで身体を洗うと、髪を乾かすのもそこそこに、早速部屋の掃除を始める。いつあの人がこの部屋に来るかわからない。大急ぎの掃除である。それを気遣いととるか姑息さととるかは、芽亜の心持ちとしては後者であった。

 部屋を終えると浴室、トイレ、キッチンと可能な限り綺麗にする。入り口に立って部屋を見る。まだ生活感が結構ある。自分のものを自分用の棚になるべく収め、共有スペースをすっきりさせた。ベッドメイクもやっておく。これでいいかと思ったが、窓枠などの細かいところに埃があるのが気になった。それに勉強用の事務机なんかは代々使われてきたものなので、ビックリ○ンシールなどが貼られていてこざっぱりしているとは言いがたい。剥がすとなると時間がかかる。こうして掃除している姿を見られたくないので諦めた。


 芽亜はベッドに座って待つことにした。勉強机に向かうのはわざとらしいと思ったのである。

 二十分ほど待つ。来なかった。一時間経つ。ノックはない。芽亜は寝転がった。ノックが聞こえたら起き上がればいい。天井をぼんやり見て、あのときの夕子の優しい目を思い浮かべながら、第一声はどうしようと自問し続けた。時間が経つ。夕食を知らせるベルが鳴る。非常ベルのような喧しい音であるが、夢現つでそれを聞く。芽亜はいつしか寝入っていた。


 はっとして目を覚ます。薄暗い。掛け布団の上で丸まっていたが、身体に毛布がかけてあって寒気はない。キッチンに明かりがついている。白い後ろ姿がそこにあった。

「ごめんなさい、起こしちゃったわね。電気つけるけれど、大丈夫?」

「は、はいっ、だいじょぶ」

 部屋が明るくなる。白魚のような手には辞書のように大きくごっつい本がある。キッチンの明かりで読んでいたのであろうハリー・○ッターの一巻であった。芽亜は夕子の顔を直視できず、目線を落ち着きなく動かした。

「あ、あのっ、そその本、すすきっ、好きなんですか。わ、わたしもっ!」

 吃りながら自分はなにを素っ頓狂なことを言い出すのだろうと芽亜は思いつつも、話の種を見つけたことに喜んだ。その本のシリーズは母が直撃世代で全巻持っていたので、インドア派女子の嗜みとして読破している。

「この本? 学長に頂いたのよ。好きになるのはこれからね」

 叡子学長は頻繁に、いらなくなった本やゲーム、作りそびれたプラモデルなんかを小遣い代わりと称して学生に押し付けてくる。芽亜も以前、プラモ入門用にとMGマスターグレードEX-Sガ○ダム(旧バージョン)を渡された。要するに学生をリサイクルショップ扱いしているのである。夕子の本もそれの一環であろう。

 ともかく、勇み足であったらしい。得意分野となると調子に乗って失敗する。自分はいつもこうだと顔が火照った。

「矢見野さんは詳しいの? ならお話を聞かせてちょうだい。けれどその前に、私はあなたに謝らなければいけないわ」

 夕子は芽亜の真正面に立ち、深々とお辞儀をした。

「――ごめんなさい。私の試験にあなたを巻き込んでしまった。ギロチンで切られそうになるなんて、生きた心地がしなかったでしょうに。私のせいで怖い思いをあなたにさせた。謝って済むことではないでしょう。けれど、本当にごめんなさい」

「そんな、メアのほうこそあやま……ううん。あ、あのとき! お礼も言わなくてごめんなさい!」

 やっと言えたと、芽亜の心が軽くなる。

「いいえ、あなたは悪くない。悪いのは私だけで、そちらが謝る必要なんてないの。矢見野さんは巻き込まれただけ。純然たる被害者よ。私もクラスのみんなも、それはちゃんとわかっている。だから、謝らせて」

 悪くないと言ってくれた。嫌われていないのがわかった。芽亜の負い目が消え去って、彼女の顔がはっきり見えた。やっぱりすごいきれいな人だと芽亜は感じた。あと白い。

 しかしこちらのお礼を受け入れてはくれなかったと、冷静になった芽亜の思考が打算根性で飛躍する。芽亜という少女のためではなく試験であるから責め苦に耐えた。ギロチンにかけられた生徒が芽亜ではなく、他の誰かであってもこの人は同じように献身した。この人は誰にでも優しくて、芽亜が特別なのではないのである。

「言葉だけではけじめにはならないわね。矢見野さん、私に償う機会をちょうだい。なんでもするわ」

 今なんでもって、と内心で反応しながら、思わず身を乗り出しかけた。

「誰かを暗殺して欲しいとかはさすがにちょっと聞けないけれど、私にできることなら何だって言ってちょうだい」

 芽亜の頭が目まぐるしく回転する。暗殺という物騒な単語を最初に出されたのは、どうせあたま姫騎士的なアレだろうと触れないでおく。


 手に入れる見込みがあるから欲しくなる。結ばれる見込みがあるから恋をする。物欲や恋愛で働く心理作用である。注文済みの品物のレビューサイトを覗いたり、気になる人との甘酸っぱいやり取りを反芻したりで、その対象の美点とその対象を手に入れられる確かさとを結びつけて考える。いいものが手に入る、手に入るのはいいものだ、という期待の循環である。

 負い目を解消された反動で芽亜はちょっとした躁状態にあった。真理谷夕子を初めて目にしたそのときから、芽亜は彼女と仲良しになりたいと思い、しかし諦めていた。ある意味一目惚れに近かったろうが、芽亜は身の丈を知っている。他人行儀なお友達にはなれても、彼女にとって唯一の存在となることは望むべくもない。まさしく高嶺の花であった。

 ところがその高嶺の花が手に触れるところへ降りてきた。なんでもするという命令権である。無論不埒な真似はできないが、仲を深めるきっかけには確実になる。思いがけず生じた期待はいやがうえにも高まった。すぐそばの彼女の姿がますます白くきれいに見え、この人と並んで歩くいつかの自分の姿すら、同じ輝きを帯びているように思われた。

 のぼせた頭が口を衝く。

「ならあの! 真理谷夕子さん!」

 まるで告白のようである。当たり前であるが芽亜には経験がない。けれどもあの母や祖母がやれたことを、己がやれないはずもない。

「お姉様になって下さい! 私の!」

「はい? ええと、それはどういった意味のお願いなのかしら」

「お姉様はすごくすごいお姉様だから、お姉様がいいんです!」

 支離滅裂であった。この言葉の意味を理解するには姫学の常識に染まる必要がある。入学初日の夕子にはまだ早かった様子である。

「……姉妹の契り、ということかしら?」

「はい! そのお姉様!」

 通じてくれた。が、夕子は眉を下げて何やら考え込んでしまう。これはいけない。芽亜は畳み掛けた。

「お姉様はお姉様お姉様してるから色んなお姉様になると思う……けど、でも、だからこそ! メア、お姉様のファーストシスターになりたい!」

「新たな単語……だと……」

 夕子が戦慄する。芽亜の初めて見る表情である。どことなく美男子を思わせる凛々しさがあって、お姉様は王子様もやれるみたいと、芽亜は誇らしくなった。

 念を押す。

「メアをお姉様の最初の妹にして下さい!」

 所詮セカンド以降は有象無象と、霧子のファーストシスターの座を早い者勝ちで弥彦嶺鈴れいりんに奪われた級友たちの怨嗟の声が思い出された。なけなしの勇気を振り絞って土俵に上がった以上、芽亜はああはなりたくない。是が非でも眼前のお姉様の首を縦に振らせねばならぬ。彼女が姫学事情に詳しくない今であるからこそ、ちょっと強引な手が通用するのである。

「して! して! メアを妹にして! なんでもするって! だからして!」

 迫りながら内心でもチャンスチャンス今求妹きゅうまいチャンスと、もはや自分自身何を口走っているのかもわからない。今の芽亜は漫画的表現をするなら、ぐるぐる目の状態であろう。

 そして夕子は根負けした。してくれた。

「……わかったわ。けれど私は姉妹の契りというものの意味や、あなたの言うお姉様、その呼び名の持つ重みを知らないわ。それでもいいの? 安請け合いよ?」

「いい!」

「なら、よろしくね、矢見野さん。っと、お姉様をするのだから、何と呼べばいいかしら」

「メア! メアって呼んで、呼び捨てで!」

 おそらくこのお姉様は今後、クラスで霧子と二大お姉様として並び立つであろう。そうなればセカンド以降一般シスターはユウお姉様、キリコお姉様と使い分けることになる。

「メアはお姉様って呼ぶね」

 すなわち今この瞬間、芽亜はプレーンお姉様の呼び名を己だけのものとしたのである。

「でも、なんだか妙な気持ちね。メアのような同い年の子にそう呼ばれるなんて。それも姉さんではなく、お姉様と呼ばれるのは」

 芽亜はこてんと首を傾げてみたが、今の仕草はあざといかなと気になった。

「弟がいるのよ。夕太郎という一つ違いの弟がね。彼……っと、あの子は私を姉さんと呼んでいたわ」

「ファーストブラザー、なの?」

 それは解釈違いだよお姉様、という言葉は飲み込んだ。きっといけ好かないイケメンに違いない。夕子と血が繋がっているからには顔が良いのは確実であるが、所詮は姫騎士ではないただの人間の男である。実際に目の前にしてみれば、出来の良い等身大フィギュアくらいにしか思えないであろう。結婚適齢期でない姫騎士にとって人間の男性とはその程度のものでしかないのである。


 どうでもいい弟の話など聞きたくない。話を広げさせまいと、「そんなことよりお姉様の話が聞きたいな」と言おうとしたところで、笛の音に似た音がした。キッチンで沸かしていたヤカンである。

「夕食をとり損ねてしまって、これから作るところだったのよ」

 時計を見る。この時間に食堂へ行っても寮母さんが盗み食い防止のための施錠を済ませている。芽亜は自分も空きっ腹なのを思い出してお腹をさすった。

「よろしければメアも一緒にどうかしら? 多めに買ってきたから、遠慮しないで」

 姫学校章の印刷されたレジ袋がキッチンに置いてある。Pマート(正式名称プリンセスマート、24時間営業、レジ袋無料、黒衣くろご店員、地場野菜コーナーありのコンビニエンスストアである)で食材を仕入れてきたのであろう。

「お姉様の料理……! た、食べるっ。メアも食べる! 食べさせて!」

「大げさね。そんなたいしたものでもないわよ」

 芽亜にはもちろんわかっている。夕子はそんな口振りで謙遜しながらも、ぱぱっと調理でシャレオツなお夜食を用意してくれる。スペシャルなお姉様は女子力もスペシャルなものであると相場が決まっている。芽亜の母親と違ってクッ○パッドのあやしげなレシピには頼らない。プロのコックさん顔負けの、真っ当に習い覚えた料理技術である。母親に家事を習っただけの自分の女子力がリアル系女子力なら、絶世の美お姉様である夕子の女子力はスーパー系女子力に違いない。キッチンに向かう後ろ姿からして気品があって美しかった。

 エプロンはしないのかなと、疑問に思ったすぐ後に、夕子はレジ袋を手にこちらに戻った。あれ? と疑問符を浮かべる芽亜をよそに、袋をがさがさいわせると、中身をどん、とテーブルに乗せた。カップラーメンのスーパー○ップである。

「デ○うまやでか○るもいいけれど、初日だから奮発したの。メアはどれにする? お醤油、豚骨、豚キムチ、他にも全種二つ買いしたから、色々たくさん食べられるわよ」

 どどん、どどどん、とテーブルの上がカップ麺に占拠される。メアは絶句した。絶句しながら夕子を見上げる。輝くような笑顔であった。

「ああでも、メアも女の子ですものね。単調な味は飽きるでしょうし、お肌のために栄養バランスも考えないといけないわね」

 夕子が、袋を更に漁りだす。

「玉子にお餅に乾燥ワカメ、コロッケもあるわよ。カスタマイズは自由自在ね。秘蔵のかんずりは……初心者には合わないかもしれないわ。あとそれから、箸休めにツナマヨおにぎり! 醤油スープにはこれよね」

 ワカメで野菜のつもりらしく、炭水化物づくしである。スーパー系女子力とはそういう意味なのか、貧乏大学生や不健康独身男性のごとき惨状に、思わず唸り声が出る。

「あら、メアは温玉派かしら? 大丈夫問題ないわ。ちょっと見極めのコツがいるけれど、マグカップに割ってレンジでチンで――」

 もしかしたらこのお姉様結構ぽんこつではないだろうかと芽亜は思った。少なくとも想像上のパーフェクトで完璧パーペキなお姉様は、紅茶の煎れ方ではなくカップ麺の裏技を、お湯は七ミリ少なめがベストだとかを、したり顔で語ることはないだろう。

 芽亜と夕子は結局このあと、夕食代わりにカップ麺を三つずつ完食した。お腹が空いていたのである。

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