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 同じ頃、グランドリー王国軍兵舎は平和なものであった。長閑な午後、開いた窓からは外周を回る兵士達の訓練の声が聞こえ、ついでに室内から王国軍将軍の呻き声が漏れている。……呻き声である。

「どうしたんですか将軍」

 手紙を持参した副官マイスが動揺する前で将軍ヒネビニルは眉間を押さえていた。ヒネビニルの元に嫁いでくるらしい遠国の王女が、予定を前倒しでグランドリー王国へやってくることになったというのだ。一年後の予定が半年短縮されたのだから公爵家は今大騒動の最中で、簡素な報告にも狼狽が浮かぶかのようだった。

「どういうお姫様なんです? ちょっと覚悟決める必要がありますか?」

 嫌そうな顔をしたマイスにヒネビニルは頭を横に振ることで反応する。否定というよりかはほとんど首の運動であったが。

「そういう顔をするな。トロニエス皇太子が近付いてきそうだからさっさとこちらに寄越すという皇帝陛下の配慮だ」

「皇太子殿下の所為かー。……そんなに美人なんですかね?」

「どうだろうな」

 ヒネビニルはナジュマという名であるらしいその姫君の絵姿も見たことはない。半年前に突如伯父である隣国皇帝から勅使があり、『ヒネビニルに亡国の王女を嫁す』と通告されたのである。勅使を出す辺り王家に対する牽制であったし、何より「絶対に結婚させる」という力強さを感じたものだ。

 ヒネビニルは齢三十三にもなる。公爵家嫡男としてみればとうに結婚して子供も二、三人いていい年齢だ。だが、ヒネビニルは軍務に身を投じ、家にまつわるほぼ全てを弟に託した。

 何故か。歳の離れた弟ヨナビネルが傾国の美姫として社交界を狂わせていた祖母に似て生まれ、幼き頃より年齢性別を問わぬ不埒者に悩まされながら暮らしてきたからである。

 ヒネビニルはその武力で不埒者を威圧した。しかしそれだけで全てが守れるわけではない。ヨナビネルは運よく彼の美しさに惑わされぬ賢い婚約者を得、彼女の為に努めることで自身の武力を得た。次いで注視すべきは祖母の時代から目を向け続けてきた老害達である。

 父公爵からいつか受け継ぐべき一切を、その時ヒネビニルは明確に拒否した。

「ヨナビネルにやらせよう」

 性質こそ文系であるヨナビネルは、将来的に家の所有する爵位のいずれかを引き継いで田舎に籠もり、領地経営に尽力する地味な人生を思い描いていたようだ。しかしそのようなことをすれば田舎で老害の誰かしらに手を下され被害を受けることは明白である。これにはヨナビネルの婚約者も同調し、ヨナビネルは別途爵位を与えられながら兄の代わりに公爵家の実務を引き継ぐことになった。

 名義は別であれ、実質公爵となるヨナビネルに手を出すような人間は完全なる気狂いだ。

 何も知らないヨナビネルは自身の鍛錬と、わざと与えられた肩書きによって真に守られ、現在何事もなく過ごしている。

 ──だから、次はヒネビニルだとなったらしい。

 ヒネビニルが狼狽えるも周囲はどこ吹く風、あまりにも女性に縁遠いまま三十路を越えてしまった所為で母は「最早否を言う余裕などありません。兄上の御言葉に従って結婚なさい」と投げ槍であった。こればかりはヨナビネルの件とは扱いが別である。一言二言ありそうな義妹も義妹で「どんなお相手でもわたくしとお母様がおります、心配には及びませんわ」といらぬやる気に満ち満ちている始末。

(今思えばそういう相手ではなさそうだが)

 絵姿こそ見ぬままではあったが、皇帝からの勅使がわざわざ往復する形でヒネビニルは手紙のやり取りを強制されていた。これも前述のとおり王家への牽制で、大皇国が後ろに付いているれっきとした養女を掠め取らせはせんぞという意思表示であり、勿論王家からは嫌な顔をされている。まあ嫌な顔をされるのはヒネビニルだけなので問題はない。

 ナジュマ姫は異国の出と伝えられていたが、大陸共通言語は習得しているらしくやり取りに不足はなかった。美しい、流れるような筆致は育ちのよさを窺わせる。元王女という肩書きに偽りはないのだろう。

「そういえば、前に手紙に鳥の話を書いたことがある。仕事中に窓際に来た野生の鳥が軽快な鳴き声だと」

「あのめちゃくちゃ鳴くの下手くそだった鳥ですね」

 マイスは理知的な顔をしているのだが、口を開いたら駄目だ。ヒネビニルはまた首を振る。……こんな反応ばかり返しているから首が太くなるのではないだろうな?

「まだ大人になったばかりなのだろう、勘弁してやれ。で、姫からの返信には野生の鳥など見たことがないとあった。かの国において見る鳥と言えば、獲物を捕まえる為の猛禽か美を愛でる為の愛玩鳥だそうだ」

「それはまた……随分な箱入りですか?」

「女ばかりの後宮育ちだそうだ」

「あの! 大丈夫ですかその姫君!」

 マイスの不安はわかる。女の園で育った深層の姫君が屈強にもほどがあるヒネビニルの元に嫁いでこようというのだ、国を亡くした上にどんな罰かという次第だろう。

 ヒネビニルは手紙で考え直すよう言葉を尽くしたつもりだが、ナジュマ姫の気持ちは変わらないまま今に至ってしまった。もはや手の尽くしようはない。彼女は既に大皇国を離れた旅の途上である。

(……顔を合わせれば現実を知るだろう)

 グランドリー王国に着いたところで、ヒネビニルと会えば気持ちも変わる筈だ。何せ水を飲むだけでも育つような筋肉質な体躯と厳しい顔立ちは他者を圧倒するのに十分で、ヒネビニルは存在するだけで他国への牽制になる将軍である。ついでに自国の王家にすら遠ざけられがちだが、実力が抜きん出すぎて成り代われる者が他にいないから仕様もない。

 こうした事情を重ねたヒネビニルは自然と女性に縁遠くなり、状況に甘んじた為無闇に歳を重ねた。どんな相手でも同じこと、ナジュマ姫もヒネビニルを見れば怯むのだろう。


『わたしはそちらのことを何も知らないけれど、貴方の知るなんの変哲もない普通のことをひとつずつ教えてもらえたら嬉しいと思う』


(……)

 ヒネビニルにとって少しだけ惜しいのは、ナジュマ姫の美しい筆致と優しい心配りである。

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