Claudeと遊ぶ——夢渦の彼方——①

「やっぱり今日もここにいる」

 やわらかいシーツの感触は雲に借り、微かに漂う柔軟剤は野に咲く名のない花々から奪ったものだ。現実は夢から剥奪された理想のかけらを拾い集めて作ったものなのだから当然。現実は嘘ばかり、偽りばかりでうんざり。

「でも、やっぱり今日もここにいる」

 ポーン、と体育のバレーボールでボールを手で弾いたときの音を聞く。ポーン、ポーン、と工具で心に穴をあけたあとみたいな、空っぽな音。

 ソラは自分に絡みついてくるシーツを剥ぎ、ベッドの下へと乱暴に投げ捨てた。カーテンの隙間からもれる光が、急きたてられるかのようで疎ましかった。仕方なく起き上がり、一階へと下りた。

 誰もいない。

 母は早朝のパートに出た。父もとうに仕事に出ている。仲の悪い二人はほとんど同じ時間に家を出る。時間をずらせばいいのに。そうすれば顔を合わせずに済むのに。と、ソラはいつも思う。

 ホームルームに間に合うぎりぎりの時間の電車に乗るための、逆算した時間に目が覚めるのが常だった。習慣のおかげか、目覚ましはいらなくなっていたが、最近、少しだけその時間がずれ始めていた。一分、二分、五分、十分。となれば、もはや朝にのんびりなどしてられない。

「げっ、やばっ」

 時計を見てすぐ、朝食をゆっくりとる暇などないと知った。顔を洗い、制服に着替えた。国語の課題は電車の中で終わらせれば良いと思って、昨晩はご飯のあとにすぐ眠ってしまったことを思い出した。

 ——なんだか眠る時間が伸びてるな。

 なのに半ば、微睡の中にいるような感覚のまま準備をする。夢と眠りがかたくなに食い下がり、現実に歯向かってる。奥歯を噛む、ぎしぎしと鈍い音がした。


 家を出て駅まで走り、電車には間に合った。

 始発駅なら必ず座れる。座れば眠りが用意されているが、今日ばかりは国語の課題を済まさなければならない。『宇宙』をテーマに散文詩を作成せよ、という課題。

 鉛筆で星の核融合の光を記号に落とし込むための黒い線を書き連ねる。ギュッと強く握ったその瞬間に光が生まれ、カゲロウの翅が弾くしずくのまばゆい輝きこそが宇宙の始まりだったと知った。惰眠を侮り嘲笑う自らの空の色を映すための鏡はどこかと暗闇に探し求めた。雨のような細かなばらばらななにか、人間未満の存在になった、意味のない自我は東京を逍遥し、暮らし、自由の意味を問う無邪気な日々を夢の中でだけ探していた。

 ガタン、となにかが電車の床を打つ音で目が覚めた。灰色の斑模様の床に、紅のスマホが落ちていた。背広姿の青年が避けるように足を引いた。ソラは慌ててそれを拾って、ディスプレイが割れていないか確認した。まっさらなメモの画面がある。打ち出していたつもりの言葉はただの夢の中の印象だけで、現実にはなれないなにかだった。ならば言葉は現実なのか、などと意味のない思考を巡らせてみたのは、課題が終わっていないという現実を直視したくなかったからだった。

「……まじか」

 いっそ亀裂でも入って、文字が漏れ出してくればいいのに。空想に耽りながらも、すぐに正気に戻る。人の隙間から次の駅を確認して、間に合わないと悟った。もうすぐ学校の最寄駅に到着だった。

 項垂れるように視線を落とす。特に意識もせず、ディスプレイを見た。そこに亀裂が走っているのに気が付いた。

「……まじか」

 さらに、亀裂がさっき見た夢の印象が文字になって起こされていくのを目の当たりにした。糸のような黒い線が亀裂から漏れ出し、するする解けて再び結ばれ、文字の形を成していく。やがてそれは文となり、文はついには散文詩へと変化していく。馬鹿な。こんなの夢物語だろう。

 ゴン、と頭に衝撃を覚えた。

 項垂れるように頭を落としていたソラの頭を、誰かの鞄が打ったのだ。視界が飛んだ。

 見ていたディスプレイが現実だったのか夢だったのかわからなくなった。今この瞬間に目が覚めたのか、あるいはさっきから目覚めていたのか。

 と、そんなことを呑気に考えている暇もなく、駅に到着したことを知ったソラは慌てて電車を降りた。

「おっはよー」

 朗らか声。波打った屋根の反響はすべてその声の仕業かと思うくらい、おおらかな響きだった。クラスメイトのアヤナだ。

「おはよ」

 紺色のスラックスはぴったりと脚の線の美しさを強調するように張り付き、それはかえって女性的に見えた。

 ソラは自分のスラックスの裾をつかむ。たぷん、と弛んでいる。成長するといけないからと一年のときに大きめに買ったまま、ほんの少ししか体に変化はなかった。

「ね、国語の課題やった? シンブンシとかいうやつ」

「ああ、散文詩ね。電車の中でやろうと……」

 ソラが手に持っていたスマホのディスプレイに視線を落とすと、亀裂はなくなっていたのに、完成された散文詩が残っていた。どこが、夢で、どこが現実だったのだろうか。記憶をさかのぼってみてもうまく区別がつけられない。

「どうしたの?」

「……ううん、なんでもない。遅刻するよ、早く行こう」


 退屈な一日が終わった。

 一日中アヤナと特に意味のない退屈な会話を交わして、気がつけば時間が過ぎていた。授業はなんとなく聞いている。わかったり、わからなかったり。

 それがソラの怠惰な青春の一幕だった。胸踊るような恋愛もなければ、情熱を捧げる部活もない、微睡みながら勝手に進んでいく電車に身を委ねるような惰性で時だけが過ぎる青春だった。

 ——もうすぐそれも終わる。

 来月ソラは十八歳になる。成人だ。青春もそこで終わりだと思っていた。高校を卒業したら就職することが決まっていた。その先には、今以上に単調な時間がだらだらと続くことを予感していた。それは中学や高校の惰性で進むような青春の日々とは異なる、眩いばかりの輝きを失う過程のスローモーションを、傍観者として眺めるような倦怠だった。それがソラの思い描く未来。

 ——未来? この世界に希望なんて持てない、っていうか現実なんてクソ。

 アヤナのようにうつくしい人間として生まれたかった、とソラは思う。

 背が低く、顔立ちも平凡で、成績だって平均くらい。

 父の浮気のせいで家族仲は最悪で、両祖父母は既に亡くなり、付き合いのある親戚だっていなかった。

 つながりを絶たれて根無し草みたいに浮世をゆらゆらただよっているだけの存在にとって、現実ほど過酷なものはない。ピッ、と簡単に摘み取られてしまう。それだけの存在だから。

 家に帰ると母が晩ごはんの支度を始めていた。

 母なりの抵抗だ。嫌味ったらしいくらいに毎日きちっと豪勢な晩ごはんを用意する。父が帰らないことは多い。それでも丁寧にラップをしておく。父が帰ってから食べることは少ない。朝は母の方が少し早く起き、手をつけられないままのそれをゴミ箱へ捨てた。父はきっと、それを目にしてから、家を出る。

 静かな争いだった。互いの言葉のない意思表明だった。そんなことをするくらいならば、さっさと別れればいいのに。離婚すれば、全部おしまいになるのに。などと、ソラは他人事のように思った。

 ただいまも言わずに二階の自室に上がった。

 殺風景な部屋。小さい頃は本が好きだったのに、いつのまにか読まなくなった。ゲームもしない。ぬいぐるみや人形の類も置かないし、アイドルなんかにも興味がなかった。友人の部屋に何度か入ったことがある。たとえばアヤナはぬいぐるみが好きで、特定のキャラクターグッズを集めているらしかった。アイドルのポスターを貼っている人もいる。漫画に夢中な人もいるし、本が好きなんてのも稀にいた。

 無趣味なソラの部屋にはベッドと机が置かれ、クローゼットに制服と数枚の私服が入っているだけだった。

 ベッドに仰向けで横たわって、ぼんやりと天井に貼られた小さな星の蛍光シールを見やる。電気を消し、カーテンを閉じた。淡く、弱く、頼りない。完全な夜が来なければ強く光らないのに、この現実に完全な夜など一つとして存在しなかった。

 ——早く夜が来ればいいのに。早く眠りが、夢が来ればいいのに。

 夢の中にのみ理想的な世界が存在する。ソラの確信。

 ある日ソラは奇妙な夢を見た。夢の中で自分が翼を生やし、空を自在に飛び回れるのだった。ありがちな夢といえばそうなのだが、その夢だけは他と区別できるくらいに夢から覚めても記憶に焼き付いていた。夢が現実に侵食してきているかのような、あるいは夢と現実とが反転したかのような、そんな感覚だ。

 ——そこに理想がある。そこにだけ、理想がある。

 家族の煩わしさがない。学校で劣等感を植え付けられることもない。比較もなければつながりもない、宙を浮いているだけの自由な世界で、星を眺めているだけで時間が過ぎていく。

 ソラはベッドの上で静かな夢想をしながら、次第に心地よくなってくるのがわかる。偽りの星々の背景にある藍がだんだんと濃さを増して、本当の夜に近づいていく。光る星の並びは本物の星座と同じだ。同じになるように、ソラがそこに貼り付けた。本当の世界では、星だけが物語を語る資格がある。神話だけではない物語。レクチルやほうおう、ろくぶんぎやちょうこくしつの、変な物語までも。

 ソラはスマホを手に、今が夜だったらどんな星座が見えるのかを確認した。アプリで見れば、見えない星でも今すぐ見られる。嘘でもいい、ただ遠い星を見上げて自由に飛んでいたい。ソラが望むのはそれだけだ。

「鉛筆で星の核融合の光を記号に落とし込むための黒い線を書き連ねる」

 電車で書いた詩を口に出して読んでみた。自分で書いたはずの言葉の意味はよくわからなかった。先生が少し褒めてくれて嬉しかったが、クラスの中心であるヒナタにキッと睨まれた。それを思い出して縮こまる鼠のような心持ちになり、ソラは勇気を得るために続きを読んだ。

「ギュッと強く握ったその瞬間に光が生まれ、カゲロウの翅が弾くしずくのまばゆい輝きこそが宇宙の始まりだったと知った。惰眠を侮り嘲笑う自らの空の色を映すための鏡はどこかと暗闇に探し求めた」

 この人の気持ち、わかるかも知れない。とソラは思った。自分で書いた詩なのだから当然なのに、当然ではないと思った。

「雨のような細かなばらばらななにか、人間未満の存在になった、意味のない自我は東京を逍遥し、暮らし、自由の意味を問う無邪気な日々を夢の中でだけ探していた」

 ソラはのことを書いたのか、のことを書いたの、よくわからなかった。ソラにとってのそのは現実に生きる誰かのように思えたし、は夢の中の自分のようにも思えた。

 スマホを枕元に置いた。暗闇のなかでしばらく光り続けていたけど、そのうちその光も見えなくなる。カーテンの外の世界でも、東から夜がのぼり、西へと沈もうとしていた。空気がつんと冷たくなる。

 あれ、今って夏だっけ、秋だっけ、あるいはもう冬だっけ。ソラの頭が混乱して、寒いのかも暑いのかもわからなくなって、泣きそうになる、叫びたくなる。

 感情を置き去りにして、夢の中へ走り出したかった。煩わしいだけの思いを捨てて、美しいものや美味しいものや可愛いものに囲まれて行きたかった。だから、もう終わりにしてもいいよね、現実なんて。

 と、ソラがまぶたを閉じると、夢の扉はようやく開いた。


 朝。目が覚めると、カーテンの隙間に亀裂が走るように虹色の光が漏れ出していた。

 夢の続きかと思った。手や足、目、見る光景も触れる感触も、どれも現実らしかった。あるいは、いつか見たリアルな夢を思い出した。

 ソラは亀裂に手を伸ばした。

 指先が飴のように引き伸ばされて虹の光と交わっていく。怖くなって思わず手を引っ込めようとしたが、もう遅かった。

 ソラは一次元に引き伸ばされて、亀裂から言葉が生まれたみたいに、夢の世界へと吸い込まれて、あたらしく生まれようとしていた。

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