塔①

 馬車が揺れる。

 街道が整えられたのは最近のことで、国家間の交流が盛んになったのは、終戦から百年以上を過ぎてからだった。

 王都から通達だ。召還状には王の名が冠されていたものの、他国からの要請があったが故と書かれていたため、国を跨いだ共同事業だ。それゆえ、ケイラはこうして荷物をまとめて、また新しい国へと赴くはめになったわけだ。

 母国のエステリアを離れ、ヴェルダス王国で三年間を過ごした。その間、現地のあらゆる人々との交流の機会を得た。言語だけじゃない、文化も風習も、土地の風土も人々の優しさも存分に味わっている真っ只中だったのに、無情にも新しい仕事が課された。

 ——自腹切って学んでいたわけじゃないからね、文句も言えんな。

 ケイラは王の命により、ヴェルダス王国への使節の先遣隊の一部、単なる言語係として派遣されただけだった。言語係の役割は単純で、誰よりもはやく言語を学び、母語であるソルム語にいち早く翻訳し、先遣隊に最低限の言語能力を身につけさせることだった。隊の大部分がヴェルダス語を習得した今となっては、十分すぎるほどに長いあいだ自由にやらせてもらっていた。潮時だった。

 母国エステリアとヴェルダス王国の国境のあたりで、馬車が停止した。

 幌の覗き穴から外を見てもただ草原が広がっているだけで、見るべきものはなかった。もう少し進めば、国境のシルバークリークと呼ばれる川と、それを渡るための橋がかかっていた。橋は二国の国交回復の象徴で、数年前に架けられて以来、多くの商人が往来するようになった。だが、いまだに市民がここを通ることはない。

 御者が後方へ回ってきて、覆っていた幌を上げた。

「ここが約束の場所でごぜえます。あとはご自分のお足で、南へ下れとのお申し付けでごぜえます」

「え、ここ? 一度エステリアに戻れないの?」

「ええ、ここからでごぜえます」

 御者には有無を言わせぬ迫力があった。

「……じゃあ、馬車はこのまま王都まで行く?」

「もちろんでごぜえます」

 まっすぐ東へ道が伸びている。馬車なら一日もかからないだろう。

「なら、このまま本と一緒に行くわけにもいかないからさ、王立図書館に届けておいてよ。そこに、私の知り合いがいるはずだから。ケイラの名前を出せばわかる」

「はあ」

「だって、この量の本を持って自らの足で南へ下れっていわれても、どうしたって無理なものじゃない」

 御者の有無を言わせぬ様子に抗うように、ケイラは努めて強い口調でいった。そしてなにか反論しようとした御者の言い分も聞かないまま、手に持てるだけの荷物をまとめた。御者はその様子を、どこか手持ち無沙汰で眺めていた。やがて準備を終えると、ケイラは一言だけ礼を述べ、さっさと馬車を立ち去った。これ以上、なにか小言をいわれるのは嫌だったし、自身も余計なことをいいそうだと思ったからだ。

 ——ほんと、ひどい場所で降ろすもんだよ。

 道ともいえぬような荒れ果てた通りだ。昔はよく使われていたようだが、今ではシルバークリークを魔導船が航行しているため、南北の物流に足を頼りにする人は少ない。

 北のエステリアとヴェルダスに加え、さらに南にはノヴェラとアストラという国がある。そして南北を隔てるのが、ミストリッジと呼ばれる山だ。山、といっても越えるのに労力を要するというほどでもなく、半日もあれば峠道を抜けられるほどの小高い丘のようなもので、茫漠とした草原のちょっとした出っ張りに過ぎない。峠の頂上には川の分水嶺があり、そこが四ヶ国の国境となっていた。さらにそこから始まる南のエヴァーグリーン川の東がノヴェラ、西がアストラだ。

 つまり、分水嶺から北東にエステリア、北西にヴェルダス、南東にノヴェラ、南西にアストラと、綺麗に十字に堺が引かれることになる。

 このまま道沿いに南下すれば、やがて道は川沿いの道へと鋭角につながる。ケイラは一度もここを訪れたことはなかったものの、地図は何度も目にしたことがある。というのも、ケイラの計画では、数年内にはノヴェラもアストラも訪れるつもりだったからだ。

 自らの母語であるソルム語とは類似言語であるヴェルダス、ノヴェラ、アストラの言葉をいずれはすべて覚えるつもりだった。

 まずはヴェルダスを攻略した。あとは二つ。勉強するには本も大事だが、現地で実際に見聞きするに優るものはなかった。

 ——とはいえ。

 今回の王からの通達は、そう生やさしいものではなさそうだ。

 王の命は要するに、四カ国の友好の証として、その中央に記念碑となる巨大な塔を建設せよ、とのことだった。

 ——またもや先遣隊言語係といったところか。

 などと呑気なことを宣っている場合ではない。今回に限っては単なる言語係の域には留まらないらしい。

 膨大な書状の内容を事細かに読んでいくと、先遣隊と呼ばれるべき存在は、ケイラ唯一人だった。おまけに各国から派遣されるのも一人ずつ。互いの国の牽制が始まっている。どの国が言い出しっぺなのかはわからないが、どう見たって互いの国の腹の底を探り合っている。ケイラ自身も面倒なことに巻き込まれたとは自覚しながらも、また、二つの言葉を学ぶいい機会だとも密かに考えていた。

 ——まあ、嫌になったら逃げればいい。

 元来、エルフの血を引くものの多いエステリアは、国や民族に対する忠誠心が薄い。それ以上に、自らの知恵に対する欲望や、森や草木、自然に対する愛着のほうがはるかに優っている。こうした気まぐれは、ケイラに限ったことではないし、珍しいことでもない。たいていのことは、研究成果さえ書籍として残せば、誰も文句をいおうなどとは思わない。たとえ、国の金で遊び呆けていても。エステリアにおいて学問は単なる知的道楽だが、知的道楽があらゆる改革を結果として生じさせてきた。だから、誰もが放っておくのが一番だろうと思っているのだった。

 川沿いの道をしばらく南下していくと、樹もまばらな林に至る。ミストリッジの麓にたどり着いた。

 ケイラは深呼吸する。ほんのり湿った土のにおいが鼻腔を抜けて、なんだか懐かしい気持ちが湧き上がってくる。

 図書館に似ている。静かな図書館の、誰も立ち入らない書架のある地下室の、忘れられた書物たちに似ている。平穏と、闇と、不変と、遠い過去。ありとあらゆる時間と空間がそこでとどこおっている。安心感が胸を満たした。

 ——夜までには到着できそうかな。

 林を抜ける道のかたわらには、休むのにはうってつけの切り株があった。時には人が通ることもあるのだろう、誰かがそこで休んだ形跡があった。

 ケイラは背から荷を下ろし、馬車で食べようと思っていたパンを取り出した。

 パンに使われている小麦の大部分はエステリアのものだ。それに加えて、中身はヴェルダスのハムや野菜が挟んであり、なんといってもとっておきは、ヴェルダス・クリームソースだ。ヴェルダスの特産である濃厚な牛乳のクリームをベースにしており、玉ねぎやニンニク、ハーブ、スパイスなどを加えて調理される。豊かなコクと深い味わいが特徴で、都市をすでに遠く離れてしまっても、食べた瞬間に街の喧騒がわっと耳元に押し寄せるように聞こえてくる。しかも、こんな静かな林の中ですら、不思議と嫌な気はしない。

 ——おいしい。

 空腹はあっという間に満たされる。

 日の暮れないうちに峠をのぼり切りたかった。荷をあらためてまとめ直して背負うと、ケイラは再び、細い林の道を、山頂に向かってひとりのぼり始めた。

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