塔②
道なりに最も高い標高にたどり着くと、樹々に囲まれた広場があった。まさに塔を建てるために準備されたかのような広い空間の中央に、ぽつんと石碑のようなものが置かれ、そこに小さな泉があった。シルバークリークとエヴァーグリーンの分水嶺だ。
泉の縁の石に、背をむけながら二人の男が座っていた。
一人は三十代半ばくらいの男だ。
ケイラは一目でヴェルダスの者だとわかった。深い彫りの下に覗く、ぎらぎらと燃えるような目つき。ヴェルダス人らしい、静かな熱が感じられる。極め付けはブーツに焼き入れられたヴェルダスの紋章だ。間違いなかった。
もう一人はもう少し上の年齢だろう、いかにも真面目そうな、端正な顔立ちの四十絡みの男で、清潔な白い衣に、黒の上着を羽織っていた。どちらも安くはないだろう、白と黒の貝ボタンが虹色の光を反射し、静かに彼の人格を主張しているかのようだった。おそらくアストラの者だろう。ケイラの直感が出した答えだった。
「こんにちは。私はケイラ。エステリアの使節よ」
ケイラがヴェルダス人らしい男に声を掛けると、彼は意外そうな表情を浮かべてから、少し躊躇いがちに答えた。
「俺はヴァリオス。ヴェルダスからの使節だ。あんた、ヴェルダス語が喋れるってことは……もしかしてケイラ・アルデンか?」
「え、私のこと知ってるの?」
今度はケイラが驚く番だ。目を見開き、ヴァリオスの顔をまじまじと見た。どこか見覚えがあるような気がした。
「俺はケルヴァン・アランディルの従兄弟だよ。あんたのことは奴から聞いたことがあったが、エステリア一番の言語学者がこんな小さなお嬢さんとだとは意外だよ」
ケルヴァンはケイラがヴェルダスで語学を学んだ際の師だった。世間は狭い。というより、先遣隊の人数が多くなかったことを考えれば、ケイラにとって知らないヴェルダス人は多くても、ヴェルダス人の間ではそれなりにケイラを知る人がいるのは自然だ。実際ヴェルダスに滞在していたときも、知らぬ人に声を掛けられる機会は多かった。そのおかげであっという間に語学が上達したのだが。
——意外って、どういう意味だよ。
「あはは。まさかケルヴァンの従兄弟だなんて。世間は狭いものね」
ケイラは苛立ちを誤魔化すようにそういってから、もう一人の方へと視線を移した。
「ねえ、彼とはもう話した?」
「いや、俺はヴェルダスの言葉しか喋らないからな」
——喋らないではなく、喋れないだろう。
喉元まで出かかった言葉を寸前で飲み込んだ。無意味な争いは避けたかった。
ヴァリオスへの挨拶を早々に切り上げると、ケイラはもう一人の男の方へと近づいた。
「こんにちは。あなたはどこから?」
ノヴェラとアストラの言葉に大差はないはずだった。ケイラはまだ一度もそれぞれの母語話者と話したことはなかったものの、書籍を通じて十分に学んでいた。いずれの国の者でも、通じないことはないだろうと思った。
「ひどいなまりだな。ノヴェラの人間か?」
きちんとした身なりとは対照的に、あまりにつっけんどんな態度だった。これで二人目。どうしてこうも好印象を作ろうと努められないのか。はなから敵対して誰が得をするというのか。
——これも、代理戦争の一種かなにかですか?
「名乗り遅れてごめんなさい。私はケイラ。エステリアの使節よ。まだアストラ語はあまり上手じゃないけど」
「なに……エステリアのお方か、失敬。てっきり発音からしてノヴェラの女かと早合点してしまった。私はアダム・クロフォード、アストラ国の使節だ。よろしく」
「ええ、よろしく。……それと、あっちにいるのがヴェルダスの使節、ヴァリオス・アランディルよ」
「ほう、ヴェルダス人ね……」
なにか含むところがあるかのように、アダムの声音が低くなる。
ケイラはそれを聞かなかったふりをしたまま、ヴァリオスに手招きした。ヴァリオスが二人の方へと近づいてきた。彼にアストラ語はわからない。隣国故に共通する語彙を多く持ち、文法も近いが、発音や抑揚の違いのせいか、ほとんど理解できないのだという。
「この人はアストラ国のアダム・クロフォード」
と、ケイラはヴェルダス語でアダムを紹介する。続いて、
「この人はヴェルダスのヴァリオス・アランディル。さあ、言葉は通じなくても挨拶くらいできるでしょう」
と、今度はアストラ語でヴェルダスを紹介してから、まるで子供をうながすかのように、互いに手を差し出させた。
二人は言葉もわからないまま手を握り合った。一応これで、挨拶が済んだ。
「さて、あと一人か……」
日が暮れかけていた。
ミストリッジのてっぺんとはいえ、のぼりの道もそれほどの勾配があるわけでもなく、それぞれの国を見渡すことなどできなかった。だからこそ塔の建設が必要なのかもしれない。
ケイラは塔から見おろすことのできる景色を想像してみた。そこには広大な野と、南北に流れる川と、そしてそれぞれの街が見下ろせる。城も見えるし、それが歴史を反映したものだともわかる。一つの場所から四つを見れば、その違いもはっきりしてくるし、長い歴史の視点で見れば、そう大差がないことだってわかるはずだ。共通点を理解し、違いを知り、さらにそれぞれの発展へ。
——そして、行き着くのはどこなのだろうか。
「とりあえず火でも起こすか。夜は冷えるだろうからな」
ヴァリオスがそういって立ち上がると、近くの森の中へと入っていった。
「彼はどうしたんだ?」
ヴェルダス語のわからないアダムはケイラに尋ねた。
「火を起こそうって。日が暮れそうだし、そろそろ冷えてくるだろうからって」
「なるほど、賛成だな。私も手伝おう。ケイラ、あなたはここでノヴェラの使節を迎えてくれ。どうやら君が一番の適任らしいから」
そういうとアダムも立ち上がった。
——適任か。
間違いなく他の二人よりかは適任だ。ノヴェラを嫌っているらしいアダムと、言葉のわからないヴァリオスに比べれば、迎えるのに最もふさわしい。だが、これから自分が四人の中心になってそれぞれを結びつけなければならないと思うと、今からもう億劫になる。
——さっさと逃げ出してしまおうか。
黄昏の丘に、ひとり残された。
王からの命もはっきりわからないまま派遣された。おそらく、他の三人も曖昧な命を受けて派遣されたのだろう。
そもそもたったの四人で塔を建てることなどできない。それはどの国も理解している。とすれば、そのための第一歩となる成果をなにか生み出せるかという、実験的な試みなのかもしれない。四か国が協力してなにかを成し遂げるための、一つの出発点としようといったところだろう。単なる王たちの気まぐれで終わるのか、あるいはこれを契機に一気に四カ国の交流や協力関係が深まっていくのか、四人に掛かっているが。
——まあ、私には関係ないか。
分水嶺の泉の縁に座り、三人を待った。
夜が音もなく近づいてくる。
どこまで行ったのか、薪を拾いにいったはずの二人の帰りが遅かった。また、三人目のノヴェラからの使節もまだ来ない。
樹々の長く伸びる影の輪郭がぼんやりと曖昧になっていき、やがて闇との区別がつかなくなっていく。
夜だ。夜になった。分水嶺から湧く水の音だけが聞こえている。尾根沿いのもっと高いところから流れた地下水が、ここから湧いているのだ。水は地下を通って濾過され、透明になる。地面の下には、網の目のように木の根が巡り、さらにしたには岩盤層が厚くつらなっている。そこを流れて、透明になる。
周囲には人間の気配がなかった。風が吹くと、樹々が囁く。耳に心地いい。
——このままずっと、誰も来なくてもいいかな。
などとケイラは思う。水や風、樹々や土の中の声にだけ耳を傾けていればいいのだから。そんなことを期待しながら、ぼんやりと南の方へと長く続く道を見た。馬車の音が聞こえてくる。束の間の静謐がぱかぱかと音を立てて崩れていく。その音に驚いた動物たちの逃げる気配が、ざわざわと樹々と共鳴する。誰もいない森が、破られていく。
——まあ、そんなわけにはいかないよね。
ケイラは立ち上がって、ノヴェラの使節を出迎える準備をした。
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