瀝青を割る⑤(完)
ユキは目を覚ました。
ビオトープのベンチで一夜を明かしたらしい。隣にエミリーはいない。空はほんのり明るい。朝が来た。西の空にはまだ、うっすら星々が紫色の奥でまたたいている。
ユキが振り返ると、一夜にしてビオトープの植物は急速に成長していた。単なる風除けの低木だと思っていた樹々が、根も深く張れずに不恰好に傾いて、ビルの縁から空へとはみ出していた。いずれ強い風が吹けば落ちてしまうだろう。道も草が膝丈まで繁茂し、花々が春を謳歌するように蕾を開いていた。春の、萌え立つ草のかおりがした。
「エミリー?」
名前を呼んでみた。いないのはわかっていたのに。声は虚しく、高い空に抜けた。
「エミリー!」
叫んだ。声に驚いたのか、ちかくにいたメジロの群れが飛び立ち、ビオトープを離れた。それにつられて、数羽のイソヒヨドリが飛んだ。
隣のスクランブルスクエアから、ヒカリエに向かって枝が伸びている。やがてこちらに届く。隔絶されていたはずの楽園は地上とつながってしまう。空に死はない。空にあるのはポツンと輝くアルファルドだけ。地上。大地。あのアスファルトの下にはたくさんの土が眠っている。土の下には忘れられた命が無数に眠っている。そこに血を、メデューサの血を。
「エミリー……」
ユキは立ち上がった。ビオトープを抜け、屋上の扉を開け、階段を駆けおりた。
無機質な階段室にタンタンと自分の足音だけが響く。乾いた音。頭の上の方からは、めきめきとコンクリートに水が染み込んでいくみたいな音がする。
エミリーの部屋を確認した。家具や観葉植物は変わりなかった。なのに、主人を失った部屋は寂しそうに、カランと乾いた音を鳴らした。扉を開けたときになにかが、どこからか落ちた。エミリーはいない。
階段を下りた。ユキはひたすら下りていった。
下りる方が楽だけれど、楽じゃなかった。十数階を勢いよくおりたところで、徐々に膝や足首に痛みを感じた。でも、息はまだまだ続く。心臓も元気よく鼓動している。ばく、ばく、ばく、と脈打つ音が聞こえる。ぜえぜえ、と咽喉を抜ける空気の音も聞こえる。どこからか、若草のにおいが立った。地上が近い。
——三階だ!
デッキがある。外に出て階段をさらにおりた。宮益坂に出た。通りを埋めるように樹々が並んでいた。ずっと先の国道二四六号の通りは折れ曲がっていて見えなかった。多くのビルは崩れて、草木に覆われてしまっている。高い樹冠の上の空はほんのりと白んでいた。夜明けだ。朝が来たのだ。
「エミリー!」
ユキは叫んだ。声は届かない。もう一度、お腹いっぱいに空気を吸い込んで叫んだ。キンと高い声は、地面に降り積もった葉や吸収されて、響くまもなく消えた。しんと静かな宮益坂には誰もいない。ユキはひとりだった。
地面に座りこんだ。濡れている。その一部が硬く、冷たくて、濡れている。木の葉をよけると、隆起したアスファルトがあった。樹々の根が、下から押し上げているのだ。
朝日が差し込んだ。斑模様の淡い光の中で、ユキはおもむろに手を伸ばした。ひび割れたアスファルトから、春の若葉が芽吹いていた。
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